おはようございます。
一昨日、突然、近所の大学の生涯学習センターから今秋の一講座が中止となりました、と連絡があった。講師の竹内整一先生が急逝されたからだという。突然の訃報にびっくり、まだぼくと同年配の77歳である。ぼくは先生の講義が好きで、2011年から春、秋と(コロナ休講を除いて)連続して受講してきた。”徒然草を読む”を数年、ほかに”日本思想の言葉”など、先生の専門の日本思想史のテーマである。
先生は、和辻哲郎の孫弟子にあたる著名な倫理・哲学者で、日本文化論・日本思想論で知られる。とくに大和ことばに精通され、講義の中でもよく出てきた。とくに、”さようなら”という言葉の由来は印象に残っている。こういう機会であるので”さようなら”の言葉の意味を振り返ってみよう。ぼくの受講ノートから。
世界の別れ言葉は、三つに分けられる。一つ目は、Good bye, Adieu(仏語)のように神の御加護を願うもの、二つ目はSee you againのようにまた逢うことを願うもの、三つめはFarewellのように、お元気で、ご無事にとの意味。一方、日本の”さようなら”は、いずれにも属さないという。「さらば」「さようなら」とは、本来「然(さ)あらば」「さようであるならば」ということで、もともとは接続の言葉。大阪弁の「ほな」、東北弁の「せば」「だば」もまったく同じ言葉遣い。
つまり、さようならはこれまでの過去を踏まえて、現在は「さようであるならば」あるいは、「そうならねばならないのなら」と確認・総括することによって別れて行こうとする挨拶だということである。
そこでは、別れたあとのことは問われていない。さようであるならば、別れたあともだいじょうぶ、何とかなる、と。死生観からすると、こちらの世界を生ききることは、あちらの世界の何かしらにつながる、だいじょうぶだ、なんとかなる。
竹内先生は何が原因だか分からないが急逝された。先生からご教示いただいた徒然草の155段に有名な一節がある。
四季は、なほ、定まれる序(ついで)あり。死期(しご)は序を待たず。死は、前よりしも来(きた)らず、かねて後(うしろ)に迫れり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来(きた)る。沖の干潟(ひかた)遥かなれども、磯より潮(しほ)の満つるが如し。
四季は決まった順序がある。しかし、死期は、順序を待たない。死は必ず前方からやってくるものとは限らず、 いつの間にか、人の背後に迫っている。人は誰しも皆、死があることを知っているものの、死は不意にやってくる。それはちょうど、沖まで の干潟が遥か彼方まで続いているので安心していても、足もとの磯から急に潮が満ちて来るようなものである。
死は突然、やってくる。明日の命は分からない。ならば、今日一日を楽しまねば。第93段にもある。されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。
さようなら、ありがとうございました、竹内先生。ご冥福を祈ります。
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昨日の明月院。秋海棠もそろそろ終盤へ。
それでは、みなさん、今日も一日、お元気で!