1987年 定数26 8人当選 計5546票 得票率28・03%
■□八人の議員団と反共包囲網
大橋・西山・辻井・松山・井上・丹野・羽柴・山田千枝子の八人となりました。
二六人中八人を占めるようになりましたが、かえって反共攻撃は強くなり、他会派は、議会内役員を何一つ共産党には渡さないという徹底したものでした。
共産党としても議会内のことばかりを考えていたわけではありませんが、市民の方から見て共産党が何の役職にもついていないのは議会の中で信頼されていないと見られ、市民の要求を解決していくためにも、なんとしても打開しなければならない問題でした。
そこで、議員が議長に提出する「所属したい委員会の希望は、できるだけ尊重する」という議会の慣習をふまえ、文教委員会四人、建設委員会一人・厚生委員会一人・総務委員会一人と希望を出しました。四つの委員会に二名ずつ所属するのが「常識」ですが、あえてとった作戦です。
各会派議員の要望を一覧表にすると委員会は定数どおりきちっと埋まり、それぞれ希望どおりの委員会に所属することに決まりました。文教委員会は共産党議員が過半数となりました。それからの二年間、文教委員会は、委員長・副委員長が共産党で、委員会の活動は、すべて共産党の主張どおり進められました。
それまで向日市の文教行政は、京都府教育委員会の意向が強く持ち込まれていたのです。議会に提出される議案は、委員会では否決、または、すべて大きな修正にあいました。そのため、市の理事者から議長などに、次回は共産党が四人にならないようにしてほしいという「横槍」がはいったのでした。「府市協調」という市長の公約にひびが入りかねない状況だったのです。こういう選択をしながら、議会内の反共包囲網を少しずつ突破していきました。
一九九〇年 地下水採取に関する条例可決
1991年 定数26 8人当選 計5833獲得 得票率29・02%
■□臨時議会を招集し減税提案
大橋・西山・松山・井上・丹野・羽柴・山田・重本信子となりました。一九九一年、共産党議員団が独自で臨時議会を招集。バブルで地価が高騰するなかで、都市計画税率引き下げの減税案を提出しました。この議会では継続審議になりましたが、次の議会で市長が税率引き下げ提案をし、総額四二〇〇万円の減税になりました。
共産党は毎回「議会内役員選挙は、議会の民主的運営の基本・憲政の常道」という考えを主張し続けました。自民党と保守勢力は「政和会」という会派を作り、反共を前面にしたニュースを発行し、二年間にわたって市民と共産党の分断を策動しました。当時、暴力団一和会の事件が週刊誌などをにぎわしていましたが、市民の中では、「一和会より怖い政和会」という言葉が広がり、反共攻撃は市民の中から打ち破られていきました。
一九九二年 七月、共産党・西山登紀子参議院議員が誕生しました。
一九九四年 向陽苑用地問題(65ページ参照)
1995年 定数26 8人当選 計5954票 得票率29・46%
大橋・松山・丹野・山田・重本・北林重男・河原広美・佐藤英子の八人になりました。
一九九五年 一月一七日、阪神・淡路大震災
一九九六年 特養向陽苑開設
一〇月、衆議院総選挙。小選挙区による初めての選挙で、京都三区から立候補した日本共産党の寺前巌さんが五万八四七九票を獲得し当選。向日市は八二八五票で第一党、得票率三七・四%。
一九九七年 佐藤議員、健康上の理由により辞職
一九九八年 四月、京都府知事選挙、森川明候補四一・四% 向日市では四七・八%を獲得。
1999年 定数24 8人当選 計6311票 得票率29・19%
■□議席占有率が三分の一に
定数二減のなか大橋・松山・丹野・山田・重本・北林・和田廣茂・中島鉄太郎が当選し、議席占有率三三%となりました。
二〇〇〇年 一〇月、府営水導入
二〇〇一年 四月、市のホームページ開設
二〇〇二年 四月、乙訓消防発足
消防の乙訓二市一町の合併に際しては、「消防行政は自治の原点」の観点から、①適格な業務、②将来の消防体制、③指揮・命令の不備などを指摘し、時期尚早であり現場での活動がうまくいかないと反対しました。合併実施後も、現場の活動の弊害を厳しく追及し、改善を求めてきました。
市が財政的理由のみで学校給食の民間委託を強行するのに対し、公教育の一環として位置づけられた学校給食法を守る立場から追及、広く市民の意見を聞くことを主張し、二〇〇一年、議会初の公聴会開催へこぎつけました。
2003年 定数24 8人当選 計6185票 得票率29・19%
大橋・松山・丹野・山田・北林・和田・中島・常盤ゆかりが当選しました。
二〇〇三年 三月、阪急洛西口駅供用
二〇〇六年 一〇月、大山崎町長に真鍋宗平さんが当選しました。
2007年 定数24 8人当選 計6446票 得票率30・47%
■□水道料金値下げや市長辞職勧告決議を可決
初めて三〇%台の支持を獲得。大橋・松山・丹野・山田・北林・和田・中島・常盤が再選されました。
共産党の役割が増してかつてのような反共攻撃が薄れるなかで、自民党・保守会派とも議会運営について話し合う状況が生まれていましたが、彼らは、自分たちの主張を聞き入れるのなら協力するが、対等平等にはできないと繰り返します。一方で公明党と保守の一部の人から、共産党と協力してもよいという申し入れがあり、共同の基盤を確認する話し合いを行いました。
共産党議員団は各会派が獲得議席に見合う役職となるよう提案したのですが、自民党・保守会派が拒否し議会運営に責任を果たさないという態度をとったため、四つの常任委員長は、すべて共産党議員となり、監査委員・議会運営委員長を含め、八人全員が重要なポストにつくことになりました。共産党は名実ともに議会の民主的運営に責任を持つ努力をしました。
請願・意見書・決議・共産党提案の条例改定も一部修正で可決されるようになり、水道料金の値下げが行われました。市長選挙前には、保守系議員が提出した「市長辞職勧告決議案」が可決されることになりました。
直後、二〇一一年の市長選挙では、民主市政の会から桜田忠衛さんが立候補されました。相手陣営は、京都府知事が後ろで陣頭指揮を執り、野中元自民党幹事長まで動員しての選挙となりました。激戦でしたが惜しくも勝利はできませんでした。
2011年 定数20 6人全員当選 計5324票 得票率28・03%
定数四減の中で、松山・丹野・山田・北林・和田・常盤の六人全員が当選しました。
二〇一一年八月九日、大橋満退任。
日本共産党は、この四四年間、一二回の市会議員選挙で一人の落選者も出しませんでした。市民のみなさんと共産党市議団の信頼関係が厚かった証拠であり、誇りに思っています。