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6、六月民主抗争
1987年にはいると全大統領は、任期6年目の最後の年となるため、国民の中に大統領の直接選挙制を実現するための憲法改正を求める声は日増しに強くなってきた。全斗煥政権は 直接選挙制改憲に対しては拒否する姿勢を崩さなかった。そして、4月13日に「今年度中の憲法改正論議の中止」と「現行憲法に基づく次期大統領の選出と政権移譲」を主旨とする4・13護憲措置を発表し、現行憲法に規定された間接選挙で次期大統領を選出することを明らかにした。
「6・26デモ」と「6・29宣言」
民主化要求デモが空前の盛り上がりを見せる中、(政権による)戒厳令の布告と軍出動の噂が飛び交った。その最中の6月20日、国民運動本部は声明を発表、①4・13護憲措置の撤廃、②6・10大会拘束者と良心囚(政治・思想犯)の釈放、③集会・デモ・言論の自由保障、④催涙弾使用の中止、などを求めた。そして、これらの要求が受け入れられない場合は、「国民平和大行進」を決行することも明らかにした。
同月24日、全斗煥大統領と金泳三統 一民主党総裁による会談が行われたが具体的な成果がなかったことを受け、国民運動本部は26日、平和大行進を敢行した。官憲による実力阻止が行われたにもかかわらず、全国33都市と4郡で少なく見積もっても20万名以上(警察発表は5万8千名、国民運動本部の推算では180万名)が参加し、デモが行われた。この日の行われたデモでは、全国で3,467名が連行された。
政府与党は、蘆テウ民正党代表最高委員による時局収集宣言、いわゆる「6・29宣言」を発表し、大統領の直接選挙制会見を行うことと、金大中赦免・復権など民主化措置を実行することを表明するに至った。そして翌30日に盧泰愚代表が全斗煥大統領に申し入れを行い、7月1日に大統領がこれを受け入れたことで大統領直接選挙制を軸とする民主化が実現される運びとなった。以前の軍隊内幹部の交代ではなかった。
6・29宣言の要点
- 領直接選挙制改憲と88年の平和的政権移譲
- 大統領選挙法改正による公正選挙の実施
- 金大中の赦免・復権と時局関連事犯の釈放
- 拘束適否審(適法か否かの審議)の拡大など基本的人権強化
- 言論基本法の廃止、地方駐在記者制度の復活、プレスカード廃止など言論制度の改善
- 地方自治及び教育自由化実施
- 政党活動の保障
- 社会浄化措置の実施、流言飛語の追放、地域感情解消などによる相互信頼の共同体形成
6・29宣言をうけて政府は、7月9日に金大中、共同議長を含む政治犯らの赦免・復権を発表。そして与野党は憲法改正作業に着手、大統領直接選挙制導入を軸とする改憲案は10月12日に国会を通過、同月27日に行われた国民投票で9割以上の賛成を得て、確定し29日に第六共和国憲法が公布された。
6月民主抗争の結果、政権与党側の「6・29宣言」を引き出すことに成功し民主化が実現された大きな理由は、学生運動圏と在野勢力人士、野党圏が民主大連合という大きな枠組みの下、一致結束して民主化運動を戦ったことにある。従来、学生運動圏と野党勢力は、方針を巡って対立や葛藤することもあったが、 6月抗争では運動の司令塔的存在である国民運動本部に学生が歩調を合わせたことで組織的な運動を大規模に展開することが可能になった。同時に、この6月抗争ではそれまで学生や在野の知識人が主体となっていたデモにサラリーマンや商店主など各界各層の一般市民が多数参加しており、民主化要求が幅広い国民の要求となっていることを示すのに大きな効果があったといえる。
一方の全斗煥政権も政権の後ろ盾となっていたアメリカもレーガン大統領が親書を送って戒厳令宣布に反対すると共に民主化を促進するよう促したことも、大きな影響を与えた。政権与党側が反政府勢力側に譲歩する形で「6・29宣言」を発表したことで、1960年の4月革命の時とは異なり「新軍部」勢力が民主化後も政治勢力(政党)の一員として参加することが可能となっただけでなく、権威主義政権から民主主義体制へのスムーズな進展を可能としたことも指摘できる。翌年にソウルオリンピックが決まっていたことも幸いしたといわれている。6月の民主抗争の勝利によって、韓国は軍部独裁体制を終息し、民主化の道に向かう転換期を迎えるようになりました。