大橋みつるの平和ト-ク・・世直しご一緒に!

世界の変化を見ながら世直し提言
朝鮮・韓国・中国・ロシアとの友好促進
日本語版新聞紹介

総合的に見ると、韓中関係が回復して韓中間の最大障害物だったTHAAD葛藤が終わるように見えるのは「錯視」現象だ。

2020-01-03 | 中国をしらなければ世界はわからない

<チャイナインサイト>

限韓令の解除で韓中関係は回復するのか(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2020.01.03 16:33
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先月23日に北京で開催された韓中首脳会談を契機に、中国の習近平国家主席が訪韓する可能性が出てきている。「習近平主席の上半期の訪韓は確定的」と青瓦台(チョンワデ、大統領府)関係者は伝えた。6年ぶりとなる習主席の訪韓は、高高度防衛ミサイル(THAAD)韓国配備で触発した「限韓令」に公式的に終止符を打ち、韓中関係を復元するきっかけになるのだろうか。1992年の修交から27年間の韓中関係を振り返りながら、2020年の新年を眺めてみよう。

韓中修交から今までの韓中関係は経済的協力関係を中心に発展してきた。THAADで韓中関係に亀裂が生じるまで経済領域での両国間の協力は順調だった。このため両国間の衝突的要素に対する積極的な管理が十分でなかったのも事実だ。経験的にみると、韓中関係の4大衝突要素は▼北朝鮮核問題▼韓米同盟▼韓中非対称関係▼反中・嫌韓感情--だ。

北朝鮮核問題にどう接近するかをめぐっては韓中間の調整がうまくいくこともあったが、隔たりを見せることも多かった。中国は韓米同盟について絶えず問題を提起した。特に韓米同盟が北朝鮮だけを対象とするのではなく、米国が「中国の浮上」を抑止する戦略の一部なのかどうかが論争の対象だった。中国は韓国で政権交代があるたびに「確認」作業をした。

◆非対称:誰が誰をさらに必要とするのか

非対称関係と反中・嫌韓情緒は時々メディアの注目を受けたが、その深刻性に対する認識は十分でなかった。韓中関係が平等というよりも中国側に傾いた非対称関係に徐々に変わってきたのは、隔世の感を感じるほど中国の地位が高まったことによる両国関係の変化が根底にある。1992年の修交当時には似ていた両国の経済規模は、2018年になると中国が韓国の8倍にのぼるほど格差が広がった。韓国が中国を必要とする程度と中国が韓国を必要とする程度の差がさらに拡大した原因だ。韓国大統領の特使に対する中国指導者の冷遇が論議を呼ぶのもこれと無関係ではない。正さなければ「ニューノーマル」として固まる。これと共に韓米同盟問題など韓国と主要友邦の関係悪化、そして世界舞台で韓国の経済地位の低下は、中国が考える韓国の価値をさらに落とす。

韓国での反中感情と中国での嫌韓情緒は両国政府が公共外交を通じて努力しているが、その深刻性に比べて持続的な努力が十分でない部分だ。特に韓国に留学に来た中国人留学生が韓国社会での体験から反韓になり、中国に留学した韓国人留学生が中国社会での体験から反中になる現象は根が深い。この懸案が深刻である理由は、韓中関係の未来の世代がお互い好感を抱かないという意味であるからだ。

2019年の韓中関係は表面的にはTHAADを抜け出したが、実際にはTHAADの影の中で両国関係が前に進めず停滞した時期だった。けんか後に仲直りしたが依然としてぎこちない感情が残っている友人のように、熱くも冷たくもないぬるい関係だったといえる。米中貿易戦争の中で守勢となった中国が友邦確保レベルで韓国との関係回復に動くだろうが、これは中国が韓国に対する持続的な影響力行使レベルでTHAADカードを一時的に置いておくのであって、完全に手放すというわけではない。

実際、王毅外相の韓国訪問発表直後、中国の軍用機が韓国の防空識別圏(KADIZ)に無断進入した。一見、二律背反的な行動だが、中国の国益の立場で見ると合理的だ。中国はやりたいようにするという意志の表示だ。韓国に対する配慮はますます失われている。中国は韓中両国のうち関係回復を強く望むのは韓国の方だという点を知っている。非対称関係はさらに深まる可能性がある。

<チャイナインサイト>限韓令の解除で韓中関係は回復するのか(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2020.01.03 16:34
 
◆ニューノーマル:冷たくも熱くもなく

2020年春と予想される習近平主席の訪韓の前後に、THAAD経済報復の象徴と見なされる中国人団体観光(クルーズ、チャーター機)と韓流文化制裁が改善される可能性がある。その時、韓国の代表的な韓流アイドルの中国公演再開が発表され、首脳会談のムードが形成される可能性もある。しかし「下方平準化」された韓中関係の「ニューノーマル」は大きな枠で持続すると考えられる。訪韓した王毅外相がTHAADについて以前のように韓国に批判的な態度を取らず「THAADは米国が配備した」と述べ、米国の責任とした点は示唆することが多い。中国にこれといったTHAAD解決の答えを出せない韓国に対し、中国が自ら答えを与えたのだ。THAAD問題は中国が望む時に解くという意味だ。

結局、韓中関係は「THAAD前」と「THAAD後」に分かれる。THAADに関する「3不」が「約束」か「立場表明」かという表現をめぐり韓中が葛藤する状況も、結局は中国が韓国に圧力を加えることができるカードだ。例えば米国が中距離ミサイルを韓国に配備すれば、中国は「3不違反」という可能性がある。韓中関係はまた悪化するはずであり、その波紋は確実にTHAAD当時よりも大きくなるだろう。1962年のキューバミサイル危機が話題に挙がる理由だ。

◆錯視:習主席が訪韓すればTHAAD葛藤は終わる?

2020年は韓中関係「回復」と「非対称化」が同時に進む一年となる可能性がある。従来の同盟の米国など主要国との関係が悪化し、中国側に外交の方向が傾く側面と、米中関係の悪化の中で韓国を中国側に引き込もうとする中国の計算が重なるからだ。米中関係の悪化が深刻になる背景の中で、韓国が同盟の米国との関係、隣国の中国との関係を調整する宿題は2020年にも続くだろう。

THAAD配備をめぐって韓国が見せた優柔不断な態度は、米国国内で生じている韓国の「中国傾斜論」と重なり、韓国は信頼できる同盟なのかという問題を招いた。韓国が結局、米国の望み通りにTHAADを配備したにもかかわらず米国の喝采を受けることができなかった理由だ。米国は韓国がTHAAD配備で中国の報復を受けている渦中にも「戦略的忍耐」をした。これは何もしないことを美しく表す言葉だ。友人が自分のために叩かれていても手を後ろに組んで眺めているのと変わらない。

これは米中の間でのポジショニング戦略について韓国がもう少し深く悩む必要があることを示唆する。単に米中間の機械的な中立や、「米中ともに重要でありどちら側も選択してはいけない」という「賢い弁解」(clever excuse)の後ろに隠れてはいけない。周辺国の線引きは強大国の長い歴史的覇権行動様式だ。

最も懸念されるのは、こうした環境で韓国が選択できる戦略的オプションがないという点だ。これは韓国が米中双方から束縛を受けているというよりも、双方から戦略的疑問を受けている状況と重なり、韓国外交の困難を深めるおそれがある。総合的に見ると、韓中関係が回復して韓中間の最大障害物だったTHAAD葛藤が終わるように見えるのは「錯視」現象だ。米中葛藤が深まる過程で、中国が韓国に対する戦略的調整に出た側面が大きい。これは韓国がTHAADよりも大きく根本的、長期的な挑戦に入っているという含意になるのかもしれない。
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最近の韓半島(朝鮮半島)情勢に対する評価を広く共有する場になるものとみられる。

2020-01-03 | 韓国あれこれ・・・

韓国外交首脳部、年明け早々連鎖訪米

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2020.01.03 16:05
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韓米が年明け早々、各種外交チャネルを稼動しながら北朝鮮政策の共助に入った。

金正恩(キム・ジョンウン)北朝鮮国務委員長が「新たな戦略武器」に言及して挑発を予告している中で、北朝鮮の非核化交渉軌道離脱を遮断する動きだと解釈することができる。

まず最初に、韓国外交部の金健(キム・ゴン)次官補が3日(現地時間)、米ワシントンDCでカウンターパートであるデービッド・スティルウェル国務次官補と会談を行う。前日、ダラス国際空港で記者団に会った金次官補は「年頭から韓米間の戦略的疎通に力を注ぎたい」とし「カウンターパートに会って挨拶をし、二国間関係全般に関して話を交わす」と明らかにした。先月就任した金次官補が初めてスティルウェル次官補と会う席ということで顔合わせの性格が強い。しかし、最近の韓半島(朝鮮半島)情勢に対する評価を広く共有する場になるものとみられる。

両次官補の会談で、最近引上げ幅をめぐって難航している韓米防衛費分担金交渉が話し合われる可能性もある。防衛費分担金交渉6次会議は今月中旬に米国で開かれる予定だ。金次官補はこの他にアリソン・フッカー国家安保会議(NSC)アジア担当上級補佐官、米国内の主要シンクタンクの要人とも会談した後、5日ごろ帰国する予定だという。

韓米は外交次官補面談をはじめ、今月中に外交長官会談や北核首席代表協議も推進している。金次官補は「年頭に高官協議も準備する考え」と話した。金次官補は今月中旬に開かれるとみられている韓米外交長官会談については「まだ協議中という状況」と話し、言葉を慎んだ。

康京和(カン・ギョンファ)外交部長官とマイク・ポンペオ国務長官は昨年9月末、ニューヨーク国連総会期間中に行われた韓米首脳会談に同席したのが最近の接触としては最後となる。韓米外交長官会談開催地としては米国サンフランシスコが挙がっている中で、この席には日本からも茂木敏充外相が出席して、韓日、韓日米の外交トップ会談が相次いで開かれる可能性がある。韓日米の外交トップが一堂に会することになれば、北朝鮮挑発などに備えて韓日米3国間の緊密な共助の重要性を再確認する場になる見通しだ。

北核6カ国協議首席代表である李度勲(イ・ドフン)韓半島平和交渉本部長も、早ければ来週中に訪米し、国務省の北朝鮮政策特別代表であるスティーブン・ビーガン国務副長官と会う日程を調整中だ。日程が実現すれば、ビーガン副長官が先月中旬に訪韓してから1カ月も経たないうちに再び韓米の北核首席代表が会うことになる。この接触を通じて非核化対話のモメンタムを生かすための韓米間の共助方案を緊急に模索するものとみられる。
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連載。NO.30 1919/3/1  独立運動 中国上海で大韓民国臨時政府樹立・独立宣言書   

2020-01-03 | 反共は、暴走政治の助け舟

NO.30   

大韓民国(韓国)の歴史(反動勢力と国民の闘い)     作成:大橋  

1917/2~10 ロシア革命の影響1919/3/1  独立運動 中国上海で大韓民国臨時政府樹立・独立宣言書 1919/5/4  中国五四運動➡中国共産党1921年創立1940/9/17 韓国光復軍を創設              1945/8/7  米軍進駐部隊が朝鮮半島に初上陸                                               1945/8/15 日本敗戦  朝鮮・戦勝国と共に戦い独立を勝ち取った!               1945/9/6  朝鮮民主共和国宣言・南北代表で  米軍が不承認                                  1945/9/7  米軍政をしく                                   1945/10  /15在日本朝鮮人連盟結成                                                                    1946/5/3極東国際軍事裁判開廷  10/6 在日本朝鮮居留民団結成                 1947/5/3  日本国憲法施行 在日朝鮮人の法的地位・外国人登録義務                1948/2/26 国連臨時朝鮮委員会、南朝鮮単独選挙決める。                       1948/4/3  済州島4・3事件    5/10国連監視下で総選挙                       1948/7/17 第一共和国憲法制定、8/15大韓民国樹立言・李承晩

第一共和国期

1948年8月15日の建国から1960年四月革命による李承晩大統領辞任までの期間。李承晩が全期間に亘り大統領を務め、独裁政治体制を構築した。  四月革命で失脚

1950/6/25 朝鮮戦争勃発                                     *8/10警察予備隊発足                                      9/15 国連軍仁川上陸                                      1951/9/8  日米安保条約調印  10/2日韓会談予備交渉開始                             1952/2/15~4/25 第一次日韓会談                                 *4/28外国人登録法施行                                            1953/4/15~7/23 第二次日韓会談  7/27朝鮮戦争停戦協定調印                   1953/10/6~10/21第三次日韓会談                                 *54/7/1 日本海上自衛隊設置                                     1955/5/25 在日本朝鮮人総聯合会結成                              1958/4/15~1960/4/15 第四次日韓会談再開                            1959/12/14 第一次帰国船新潟港出港~84年93,340人、含日本人6839人

第二共和国期

1960年四月革命から1961年5・16軍事クーデターまでの間。この間、第一共和国期の反省から議院内閣制が採用され、尹潽善大統領に、張勉国務総理に就任したが、政治的混乱の末に朴正煕5・16軍事クーデターを起こす

1960/4/19  四月革命・李承晩辞任 死者183人 負傷者6259人                                                 1960/10/25~61/5/15 第五次日韓会談 (64/4まで続く)                             1961/5/16  朴正煕・全国に非常戒厳令を交付、軍事クーデター                              12/2第六次日韓会談1962/3/12  第六次日韓政治折衝第一回会談 

第三共和国期

1963年から1972年までの間。1961年に成立した軍事政権である国家再建最高会議が、民政に復帰することにより成立した。この間、軍事政権の有力者であった朴正煕が、の要職を辞して文民として大統領職に就き、任期を重ねた。1965年日韓条約締結、15年間の協議の後、賠償ではない経済援助・祝金

1963/9/3  第六次日韓会談第二次政治折衝会談予備折衝                                                     1964/6/3  日韓会談反対運動に韓国政府は、非常戒厳令を宣布して弾圧                                         1964/10/10~10/24  東京オリンピック                                                                                              12/3~65/6/22 第七次日韓会談                                                                                                            1965/6/22 日韓条約締結・無償3億有償2億ドル 在日朝鮮人の法的地位                                          1972/7/4  7・4南北共同声明  9/29日中共同声明・田中角栄、国交回復

第四共和国期(維新体制)

朴正煕時代の後期、1972年10月17日から1979年10月26日までを指し、維新体制とも呼ばれる。 朴は銃殺失脚

1973/8/8 金大中大統領候補KCIAが、東京ホテル・グランドパレスで拉致                                      1979/10/26 朴大統領暗殺・金戴圭                                                                                                           12/12 全斗換が戒厳令を敷きクーデター                                                                                                          1980/5/18~27 光州民主化抗争「光州8・15民主化運動」全斗煥軍事独裁政権が米軍の後押しで民主化デモを軍隊で弾圧、死者606人行方不明65

第五共和国期

1981年3月から1988年2月の第六共和国成立までの間、大統領に就任した全斗煥が、朴正煕の経済政策を引き継ぐ

19876/29 民主化宣言  大韓民国盧泰愚大統領候補が発表した政治宣言であり、正式名称は「国民の大団結と偉大な国家への前進のための特別宣言」。六・二九民主化宣言、ソウルオリンピックの成功裡終了を条件とした、大統領直接選挙制の導入と、金大中ら反体制派政治家・政治活動家の  赦免・復権を骨子とした。

  民主化運動、全斗煥軍事独裁政権を倒す。   続きは第六共和国期

          

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何よりも恐ろしいのは火傷だった。調理室のあちこちで、大型の釜で油と水が沸き立つ。後かたづけに使う熱いお湯はゴム手袋の中に入り込み、中の軍手まで濡らした。

2020-01-03 | 市民のくらしのなかで

900人分の給食戦争と後かたづけの合間に10分で飲み込む飯

登録:2020-01-03 02:34 修正:2020-01-03 07:24
 
[2020労働者の食卓](2)学校給食調理員のトレイの食卓 
 
900人分の昼食の支度をする5人…「午前は戦争、午後は死」 
冷めた残飯をかき込み…再び後かたづけの墓場へ
 
 
学校の給食調理員が油の沸く釜の前でジャガイモを揚げている=民主労総サービス連盟学校非正規職労働組合提供//ハンギョレ新聞社

 2枚の手袋を脱ぐと、水でしわしわになった指が現れた。3時間あまりの朝の作業の間、手や足、体全体が水にふやけた気分だ。口から焦げくさい臭いがして手首はずきずき痛む。トレイに盛られた飯を口に運ぶ気にならない。しかし、午後にも900人分の皿洗いや掃除が待っている。食べておかないと、その圧倒的な量と圧縮された時間を耐え抜くことは難しいだろう。湿気に満ちた5坪(16平方メートル)の更衣室兼休憩室で、「お姉さんたち」のやるように、山盛りの飯を口の中に無理やり押し込んだ。すえた残飯の臭いが消毒薬の臭いと入り混じってくらくらする。

 給食調理員はお互いを「お姉さん」と呼んでいる。姉妹のように呼吸を合わせなければ、「女性の土木作業」と言われる激しい給食労働に耐えられないからだろうと、記者は思った。保健所で発給を受けた保険証を持って去る12月13日、給食調理員代替要員としてソウルのA小学校の調理室を訪れたとき、ほとんど40~50代のお姉さんたちは26歳の「いちばんの年下」を迎え、驚愕した。「学校の調理室は他の仕事をいろいろやって、いちばん最後に来る所だよ」。チンギョン(46、以下全員仮名)姉さんが、ひときわ気の毒そうな表情を浮かべた。

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姉さんたちの速度には追いつけなかった

 お姉さんたち5人の一日はひたすら飯を中心に回る。朝8時30分、調理室に出勤し、小学生900人分の昼食の支度をし、午後4時に退社する。そして家族の夕食の支度をしなければならない。その間に自分の食事は「飲み込む」のみ。姉さんたちは給食の仕事に比べれば、家の飯など「ままごと」だと言った。調理室はまさに「スピードの戦場」だ。7時間30分で5~6人が900人分の給食の支度をし、明日のための皿洗いや掃除まで終えるには、食事を抜いてもギリギリだ。「午前は戦争で、午後は死だ」 チンギョン姉さんの表現だ。

 装備を備えて作業服を着込み、その日朝9時に調理室に入った時、積んである大根、もやし、白菜、牛肉などの食材を見て、開いた口が塞がらなかった。市場でもあれほど食材が積んである光景は、記者には見覚えがなかった。何よりお姉さんたちの速度には追いつけなかった。野菜の皮をむく「ピーラー」で大根の皮をむくのに、不慣れなもので一つやるのに5分もかかった。目の前でたった20秒で大根一本をむき終ったチンギョン姉さんは、舌打ちしながら大根はやめてそれより簡単なヒラタケ割きをしろと言った。ユッケジャンに入るヒラタケ一つを縦に細く割いて三等分するのだが、それすら900人分だから30分もかかった。銀色のステンレスのたらいにうず高く積みあがったキノコは、いくら割いても減らなかった。「もっとスピードを出さないと」 きのこが恨めしく感じられる頃、チンギョン姉さんが近付いてきてせきたてた。900個以上のみかんを洗って流しの掃除をする時も、姉さんは近づいてきて記者を攻め立てた。「半分もできてないね」。

 ちょっとした料理長たちとも比肩しうる熟練した料理員のお姉さんたちだが、溜まっている仕事を前にして気が急くのは同じだった。この日、メニューのサーモンステーキとちりめんじゃこのアーモンド炒め、ユッケジャンを担当する調理員を分けたのだが、配膳時間が迫ってくると、人の仕事と自分の仕事を区別してはいられなかった。お姉さんたちは大根の皮をむいていても人手が足りなければ白菜を切り、すぐにちりめんじゃことアーモンドを炒めた。ただ目の前にある仕事を片付けるだけだった。

 
 
給食調理員たちのトレイの食卓。給食に出された飯、ユッケジャン、サーモンステーキ、ちりめんじゃこのアーモンド炒め、キムチ、ミカン=キム・ミンジェ記者//ハンギョレ新聞社

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15分以内に飯をかき込む

 飯を食べるのもお姉さんたちにとってはスピードが勝負だ。お姉さんたちの食事には特に決まった時間というものはない。昼12時30分に食事を終えた子どもたちがひとり二人と食堂を出て行き始めると、お姉さんは一人二人と食事を始める。長くて30分あまりの食事兼休息時間があるというが、その時間をすべて使う人はいない。その日にすべきことを率先してする「当番」のお姉さんがわずか10~15分で食べ終えて立ち上がると、他のお姉さんたちも自分たちだけが休むのは申し訳ないと、調理室に出ていっておずおずと仕事に取り掛かる。子どもたちの給食のおかずが足りないと配食担当者に呼び出されるので、食事の途中も安心して座っていられない。軍手の上にゴム手袋、ゴムエプロンに衛生帽、腕抜きとゴム長靴を脱ぎ、飯を食べてまた着用した後、トイレに行く時間まで考慮しなければならない。午前中は熱い火の前で働き、顔が真っ赤にほてったお姉さんたちは、それでも少しの間だけでも重い装備を脱ぐことができ、すっきりした様子だった。

 手狭な休憩室にお膳を広げて六人が膝と膝を重ねて座った。衛生帽を脱ぐと、汗で押しつぶされたお姉さんたちの髪がそのまま無造作に現れた。食卓に上った食べ物は、子どもたちや教師が残した飯と汁、その他残飯だ。冷めた汁とネチャネチャの飯、油が固まったサーモンステーキ、しけったちりめんじゃこのアーモンド炒め。午前中ずっと臭い飯のにおいを嗅いで辟易していたうえ、冷めきった料理に食欲がわかない。しかし飢えは食欲に比例しなかった。激しく体を使う仕事をしたからか、飯はどんどん喉に吸い込まれていく。毎日激しく体を使うのに慣れているお姉さんたちは、本来の味を失った冷めた食べ物をやっつける、それぞれの「ノウハウ」があった。チンギョン姉さんはご飯にちりめんじゃこ炒めをどっさり入れて混ぜ始めた。キョンミ姉さんはユッケジャンにご飯を入れてズルズルと飲みほした。そうしてお姉さんたちは山盛りのご飯を10分ほどで片付けてしまった。

 
給食調理員たちのトレイ=キム・ミンジェ記者//ハンギョレ新聞社

 食事を済ませるのに忙しい中でも、お姉さんたちは生活の話を二言三言交わした。概して困窮した境遇についてだった。「今月は一週間空くね」。チンギョン姉さんの愚痴に、飯を口に押し込む皆の表情が一瞬暗くなった。給食調理員たちは長期休みに入ると稼ぐことができない。「一週間をどこで埋めようか」。誰も答えなかった。「一週間だけ働いてくれ」という所などあるはずがない。

 あるお姉さんがソウン姉さんを見つめ、「ソウン姉さん、そこ、紹介してよ」と声をかけた。ソウン姉さんは長期休みにはウェディングホールの調理室で働く。ソウン姉さんは申し訳なさそうに笑いながら、「ウェディングホールの調理の仕事もキャリアを好むのよ」と答えた。すると、おしゃべりのチンギョン姉さんは話題を変え、造船所で「肉体労働」を始めた義兄の話を持ち出した。別の姉さんたちがそれを聞き「もう造船所の時代じゃないよ」と舌打ちした。「息子が整備職として就職したんだけど、母親の気持ちとしては事務職じゃないから悔しい」というお姉さんもいた。お姉さんたちの暮らしの話は聞くほどに心苦しく、いま飲み込んだ飯が喉のどこかに引っかかっているような気がした。

 
うず高く積まれたおかず入れや調理道具などを洗う給食調理員たち=民主労総サービス連盟学校非正規職労働組合提供//ハンギョレ新聞社

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注意できない「腰痛注意」「はさまり注意」「火傷注意」

 午後の調理室は後かたづけの墓場だ。昼12時45分ごろ、配食を終えたわけでもないのに、調理室は使い終わったトレイや箸やスプーンなどでいっぱいだった。食洗機はあるが、焦げ付いたおかずの滓を短時間で取り除くために手洗いが欠かせない。お湯で食器をふやかした後、スポンジでこすって水ですすぐ。洗剤の臭いと残飯の臭いが入り混じって調理室に充満する。

 出入り口の横にかけてある温湿度計は気温10度、湿度32%を示しているが、体感湿度は80%を超えているようだった。調理室に携帯電話は持ち込めない。防水でない携帯電話は水蒸気のせいで故障するとお姉さんたちは警告した。たちまち額に汗がふつふつと湧き出て流れ落ち、全身がべとべとだ。体にはときどき油と水が飛んでくる。腰も手首も抜け落ちていくようだった。「皿洗いに埋もれて死んじゃいそう」。終わりの見えない後かたづけに、思わず独り言をつぶやいてしまった。

 気力が底をつくと、常に労働災害、事故の脅威を感じた。調理室の壁には、「腰痛注意」、「滑りやすい注意」、「火傷注意」、「はさまり注意」、「労働災害予防」の案内板が貼ってある。問題は、それを避ける術がないということだ。腰痛を避けることは不可能だ。調理員は概して、立って一日中腰を曲げたまま働く。トレイを持ち上げ、体を屈めて材料の下ごしらえをすれば、午後は必然的に千切れるような腰の痛みが襲ってくる。「はさまり」事故も避けられない。トレイとトレイの間に、食器と流しの間に何度となく指がはさまった。

 「滑る」ことも注意できない。後かたづけをする時、調理室の床は水と洗剤でびちゃびちゃだ。あちこちに食器や調理道具が散らかっている。最後のかたづけをする時は床にバケツで水をぶちまけて食べ物の残りを洗い流す。重いゴム長靴が撒かれた水の勢いに押され、ふらついたことが何度もある。お姉さんたちは互いに肩をぶつけたり水をはじいて顔にかけたりして「ごめん」「すみません」と何度も言っていた。

 掃除の時は「薬品」で床を拭いて水を撒くが、チンギョン姉さんは「絶対に顔につけてはいけない強い薬」と警告した。だが慌てて働いているため、顔や首、目や服の中に薬品が飛び散らざるを得ない。夢中で動いていると、そのように薬品がついてもすぐに気にしなくなる。

 何よりも恐ろしいのは火傷だった。調理室のあちこちで、大型の釜で油と水が沸き立つ。後かたづけに使う熱いお湯はゴム手袋の中に入り込み、中の軍手まで濡らした。湯気の立つ釜の内側に体を屈めてふやかした食器を取り出す時は、沸騰したお湯がこぼれそうになった。実際に2014年3月、ソウルのある小学校で調理員として働いていたBさん(56)は、皿洗いをするためにたらいに注いであったお湯の上に倒れ、二カ月後に世を去った。

 
学校の給食調理室で洗われるスプーン=民主労総サービス連盟学校非正規職労働組合提供//ハンギョレ新聞社

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「給食調理室は病気になって去る所」

 「ここに来て働いたら病気になる。給食調理室は病気になって去る場所だよ」。仕事を始める前、チンギョン姉さんは真剣な表情で私を止めた。他の姉さんたちはもっと断固としていた。「母親の気持ちとして私は反対だ。若い人が働く所じゃない。あんたのお母さんが知ったら怒る。今日だけやってみて二度と来ないのよ」。私に迫ってきたお姉さんたちが、みかんをむいて私に食べさせてくれた。

 お姉さんたちが、自分が身を置いていながら私を止める理由が、お姉さんたちと食卓を囲んではじめて、仕事を終えてはじめて分かった。「私は大変だけど大丈夫。でもあんたはすべきじゃない」。 それは多分お姉さんたちが自分の家族に、子どもたちに用意している食卓に込めたその気持ちと同じだろう。そしてそれは、自分は冷めた飯を飲み込みながらも、家族の食事はオンドルの焚口近くで温める母親の気持ちと同じなのだろう。

キム・ミンジェ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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新年初日の1日午後、ソウル市中区南山コルの韓屋村で、オンドル部屋に入った訪問客の楽しそうな声が聞こえている

2020-01-03 | 市民のくらしのなかで

韓屋マウルの情趣豊かな新年風景

登録:2020-01-01 23:19 修正:2020-01-02 06:37
 
 
新年初日の1日午後、ソウル市中区南山コルの韓屋村で予約制で開かれた冬の体験行事で、家族たちがほかほかのオンドル部屋に集まって仲むつまじく話を交わしている間に、子供たちが伝統的な障子扉を珍しそうに開けたり閉めたりしている=キム・ボンギュ先任記者//ハンギョレ新聞社

 新年初日の1日午後、ソウル市中区南山(ナムサン)コルの韓屋村(ハノクマウル)は、韓国固有の伝統文化を楽しみながら新年を迎える市民と観光客で混みあった。

 南山コルの韓屋村は、今月19日まで「ほかほかのオンドル部屋で出会う韓屋村の冬の生活」を主題に、昔話映画館、南山コル日曜工房など、多様なプログラムを催している。詳しい内容の確認と事前予約申請は、韓屋村のホームページ(www.hanokmaeul.or.kr)で調べられる。

 笑いと懐かしさが詰まった現場の写真を集めてみる。

 
 
1日午後、ソウル市中区南山コルの韓屋村で、外国人観光客が大型のユンノリ(韓国式すごろく)を楽しんでいる=キム・ボンギュ先任記者//ハンギョレ新聞社
 
 
新年初日の1日午後、ソウル市中区南山コルの韓屋村で、観光客がこま回しとチェギチャギ(羽蹴り)など伝統的な遊びを楽しんでいる=キム・ボンギュ先任記者//ハンギョレ新聞社
 
 
新年初日の1日午後、ソウル市中区南山コルの韓屋村で、オンドル部屋に入った訪問客の楽しそうな声が聞こえている=キム・ボンギュ先任記者//ハンギョレ新聞社
キム・ボンギュ先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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