どこまでだって歩いていけるさ

2012年1月22日 それまでの日記を引き連れてOCN Cafeから移住。
新しい扉の向こうには何があるのだろうか。

占い

2016年06月09日 | 日記
いわゆる占いというもの 人間の歴史のかなり古い頃から今に至るまで存在し続けるところをみると 個人差はあってもひとはやっぱり占いが好きなのだと思う

TVが無いので今は知らないが かつては朝のTV番組では必ず星座占いのコーナーがあったし 子供が生まれれば姓名判断を考慮したり 生活に風水を取り入れる人もいるし おみくじを引いては一喜一憂するし 政治家や実業家が著名な占い師に宣託を乞うという話もよくきく

見えない将来を知りたい それによって失敗や難を避け 少しでも不安を取り除き よりよき道を選びたいと思うのは人情というもの

数々ある占い(あるいは○○判断の類も含めて)の中には わずかに統計学的なものや科学的根拠が無きにしも非ずといったものが無いわけでは無いが(どこまで否定するのかという書き方になっている・・・) 占いはどこまでいっても占いにすぎない

一滴の潤滑剤として楽しむことに文句をつける気持ちは無いが 私自身が街角で手相を見てもらうということは私の人生の過去には無かったし おそらく未来でも無いだろう

もう長く神社のおみくじさえ ひいてはいない (そもそも占って欲しい未来が無いのか?)

占いの有効活用はあたるかあたらないかにあるのではなく やや漠然とした言葉の中にも 自信や前向きの気持ちや反省や 時には安心感だったり努力を促されたり 要するに生きる上でのわずかな応援と捉えるのが一番良いのでは無いかと私は思っている

占いとは違うけれども 私は厄年も全く信じてはいない

私の考えでは そのあたりの頃に人生の(体調も含めて)転換期がくることがあるよというだけのことで 誰もがこの年齢の時に災厄に見舞われ 他の年齢の時には逃れられるなどということは絶対にありえない

たまたまそうなる人もいれば そうでない人だって大勢いるのに なぜか不幸が訪れてしまうと人は 厄年だったから などという

(これを言うと 自分はあの時ああだった こうだったと けっこう真向から否定されることが多いのだが 私はこの主張は断固曲げない)

ひとは不幸に関しては 幸福の何倍も何十倍も敏感にできているからであり 日常の幸福には極めて ほんとうにもう極めて鈍感な生き物だからだろう

厄払いをしてなかったことを後悔し 厄払いをしていた人はだからこの程度で済んだと言う人もいるし 厄払いをしたけれどそれででもだめだったとあきらめる人もいるけれど それはただの気分であり 私からは遠回しのおどしにしか思えないのだが それでも何かしらの応援になるという人は厄払いも役に立つといえるかもしれない

神社からクレームを受けたくないし おかっぱ頭の藁人形でも作られたらたまらないので(それも信じていないけれど) 気にされる方はご遠慮なくどうぞどうぞと言って置く

では 私は全く占いに興味が無いかというと ここまで書いてきてなんだけれども 実はそんなこともない

だって    にんげんだもの ~

私が毎年見ている占いのページがある

週報もあるけれど 私が見るのは一年のものだけ

st.sakura.ne.jp/~iyukari/2016ytfsbfs/tfsbfs.html

もしかしたら自分の星座ではないものを見ても心当たりがあるかもしれないし だからあたるとかあたらないでは決してない

文章から優しさを感じるし 少しだけ頑張っちゃおうかな なんて思わせてくれるのだ

「乙女座の人は、物事の変化を前にすると非常に不安になる傾向がありますが、同時に、非常に大胆に、行動的になります。」という一文を見た時は 他の乙女座の人が皆そうかどうかは知らないが 今年になって感じた不安も私らしいことだったのかなぁと(私個人の性格ではあるけれど)納得もした

信じているわけではないし 違うなぁと思うこともある

それでも 落ち込んでいる時に少し褒められたり 優しい言葉をかけられたり 大丈夫!って言ってもらうと ほんの少しだけ気持ちが軽くなる事があるように 占いはそんな程度でいいかなと思っている

  
コメント (2)
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