みどりの一期一会

当事者の経験と情報を伝えあい、あらたなコミュニケーションツールとしての可能性を模索したい。

『動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか』 福岡伸一/視点・論点「ミツバチ異変と動的平衡」

2009-07-31 16:06:05 | ほん/新聞/ニュース
あさからずっと集中力の要る仕事をしている。
こういうときは、脳が興奮しているので、むしろ本を読みたくなる。

『市民派議員になるための本』を書いていたときも、過覚醒だったので、
早朝から午前中に原稿を書き、午後には好きな本を読んでいて、
集中して書いていた一ヶ月ほど、活字漬けだった。

ということで、買ってすぐに読んだ福岡伸一さんの、
『動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか』(木楽舎)を再読した。
福岡さんの本は、「いのちとはなにか」「わたしとはなにか」を考えさせられる本。
集中する仕事をしている時などに読むとリラックスするし、
同時に、頭の体操にもなり、とてもおもしろくて興奮する。


『動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか』(福岡伸一著/木楽舎/2009)
内容紹介
『生物と無生物のあいだ』の福岡伸一、待望の最新刊。「時間どろぼうの正体」
「太らない食べ方」「生命は時計仕掛けか?」「病原体とヒトのいたちごっこ」
「アンチ・アンチエイジング」ほか10年におよぶ画期的論考の決定版!
哲学する分子生物学者が問う「命の不思議」
生物を構成する分子は日々入れ替わっている。
私たちは「私たちが食べたもの」にすぎない。
すべての生物は分子の「流れ」の中の「淀み」なのである。
しかし、その肉体、タンパク質の集合体に、なぜ「いのち」が宿るのか。
遺伝子工学、最先端医学は生物を機械のように捉えていないか。
生命の「背景」にある「時間」を忘れていないか。
いったい、生命とは何なのか。哲学する分子生物学者が永遠の命題に挑む!



動的平衡 [著]福岡伸一
[評者]斎藤環(精神科医)■変わるほど、変わらない

[掲載]2009年5月3日 朝日新聞

 売れっ子分子生物学者、福岡伸一氏の新著は、氏が一貫して追究している「動的平衡」がそのままタイトルに使われている。すわ論文集か理論書か、と一瞬身構えてしまうが、本を開いて一安心。内容はちょっと硬めのエッセー集で、いつものように気軽に読める。
 正直言えば、私はこの本を正確に評価する自信がない。いちおう理系の教育を経てきた人間としては、本書の内容で驚くことは難しく、「動的平衡」も、実は医学生時代からおなじみの概念である。
 変われば変わるほど変わらない。私の理解では、このフランスの諺(ことわざ)くらい、動的平衡をぴったりと言い表す言葉も少ない。考えてみれば養老孟司『バカの壁』も「人間は変わるが情報は変わらない」と主張していた。最近の脳ブームを見ても、人々がいかに「変わらずに変わること」を求めているかがわかる。「動的平衡」という言葉は、そんな人々のニーズをずばりと言い表したに違いない。
 しかし特筆すべきは語り口の鮮やかさだ。一般になじみのない概念をわかりやすく、かつ砕けすぎない文体で提示する。ときおり差し挟まれる科学史上のエピソードが、ドラマティックな潤いをもたらす。その語り口は、まぎれもなく一流のサイエンスライターのそれだ。白衣をまとった詩人、などと言えば褒めすぎだろうか。
 個人的に一抹の危惧(きぐ)を禁じ得ないのは、本書を含め、最近の福岡ハカセがしきりに「ライアル・ワトソン」の名前に言及することだ。ワトソン氏は自然科学者と言うよりはニューサイエンスの巨人であり、ファンも多いがオカルトと親和性の高い人物である。
 科学と詩との間には、長くて深い断絶がある。そこを性急に架橋しようとする時、しばしば疑似科学がもたらされる。「科学者は最悪の哲学を選択する」というアルチュセールの箴言(しんげん)を、福岡氏にだけは反復してほしくないものだ。
    ◇
 6刷7万部
2009年5月3日 朝日新聞



■書 評動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか
[著者]福岡 伸一木楽舎/ 1600円
[評者]内田 樹(神戸女学院大教授)

■開かれている人間の身体
 福岡伸一先生の本を読むといつも頭の中に一陣の涼風が吹き抜けたような感じがする。導かれるままに分子や遺伝子の極小の世界を経巡っていると、景況や総選挙なんか「別にどうでもいいか」という気になる。崑崙山の頂から下界の営みを見下ろすような宇宙的想像力を使ってみるのもたまには必要なことである。
 私がこれまで福岡先生から学んだいちばん貴重なものは、生命の本質は「異物との共生」と「動的平衡」のうちにあるという知見である。それはこの本でも全編を貫く主題である。
 私たちの細胞を構成しているミトコンドリアは太古において自立的な細菌だった。それが大型の細胞に捕食されて、内側に取り込まれ、なぜか破壊されずに生き残った。そして、共生関係に入った。進化も性も老化も、私たちの生命活動はすべてミトコンドリアという「他者」との共生関係がもたらしたものである。
 「動的平衡」はシェーンハイマーの作り出した言葉である。それが教えるのは、生命体は固定して閉じられたシステムではないということである。「生体を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている」(二三一ページ)。私たちは休みなく体外から分子を取り入れて細胞を形成し、また分解して環境に排出している。「つまり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流れの中で、私たちの身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている。その流れ自体が『生きている』ということなのである」(二三二ページ)。
 「動きながら常に分解と再生を繰り返」すからこそ、生命体は「環境の変化に適応でき、自分の傷を癒(いや)すことができる」(二三三ページ)。
 生命とは「自己同一的であり、かつ自己同一的でない」という背理的事況のことだという福岡先生の生命哲学は、いつも私を深く震撼(しんかん)させる。
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ふくおか・しんいち 1959年生まれ。青山学院大教授・分子生物学。著書に『ロハスの思考』『生物と無生物のあいだ』など。
(中日新聞 2009.3.23 )



「動的平衡」福岡伸一(ブックナビ 2009.6.9)

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福岡伸一さんは、『ハチはなぜ大量死したのか 』にも解説を書き、
NNK視点・論点の「ミツバチ異変と動的平衡」でも、
自然界の「動的平衡」について言及しています。


『ハチはなぜ大量死したのか 』(ローワン・ジェイコブセン (著),
中里 京子 (翻訳) /文藝春秋 /2009)



視点・論点 「ミツバチ異変と動的平衡」
青山学院大学教授 福岡 伸一

NHK論説委員室 から2009年05月11日 (月)

ミツバチに異変が起きています。昨年らい、日本中の農家から「ハチが足りない」という悲鳴があがっています。農水省の調査によれば、平成19年、3万9千あったミツバチの群れは、20年には5千以上も減少しています。価格も上昇し、東京都世田谷区ではミツバチが巣箱ごと盗まれる事件まで発生しているということです。

ミツバチといえばすぐに私たちはハチミツを思い出します。しかし、今、問題になっているのは、意外なことにハチミツを採るミツバチではないのです。スイカやメロン、イチゴなどの果実あるいは野菜を効率よく実らせるための、花粉の媒介役として、ハチたちが非常に広範囲に利用されているのです。

ある場所で野菜のビニールハウスを見学したときのことでした。わたくしは、ハウスの隅に小さな段ボール箱が置いてあるのをみつけました。怪訝に思って近づくと、たくさんのハチたちが箱の穴から忙しく出入りしているのでした。

つまり、現在、ハチは、箱入りの物品として、あたかも肥料や農薬のように便利に売り買いされているのです。そしてある意味で工業化した現代農業における、ひとつの歯車として使い捨てされているわけです。

ミツバチ不足の背景を探ってみますと、世界規模でハチの群れに何らかの異常が起きていることが分かります。主な輸入もとだったオーストラリアのミツバチに伝染病が発見され、現在輸入が禁止されています。日本国内の生産地でもハチの大量死が起きています。一方、アメリカでは、ハチ群崩壊症候群と名づけられた、ハチの奇妙な大量失踪が報告されています。ウイルス病だという説、ダニなどの寄生虫説、あるいは農薬による中毒説などが取りざたされていますが、いまだ真相はつまびらかではありません。

近代農業のもとで、ハチたちは品種改良がかさねられてきました。おとなしく、人を刺さない、それでいて効率よく受粉作業をこなすハチの品種が、極端なまでに均一化されてきたのです。

これは生物学的に見ると、非常に脆弱な状況といえます。ちょっとした病気や環境変化などのかく乱要因が来ると、均一な系はたちまち破綻をきたします。

生命現象を、私たちはよくメカニズムという言葉で説明しようとしますが、実はそこにあるのはメカニズムではありません。そこにあるのは機械論的な因果関係ではなく、もっと動的なものです。

そこでは、非常に多くの要素が絶え間なく動き、連携し、変化しながら、互いに律しあい、全体として均衡をとり、恒常性を維持する、そして、干渉やかく乱に対して復元する力を発揮します。私はこのような仕組みを動的平衡と呼んでいます。動きながらバランスをとるという意味です。生命、自然、環境はすべて動的な平衡状態にあるといえます。

動的な平衡状態に対して、局所的に、ピンポイントで、何かを操作したり、組み替えたりするとどのようなことがおきるでしょうか。操作の直後は、確かに、その部分の効率が上がったように見えるでしょう。しかし動的平衡は、押すと押しかえしてきます。沈めようとすると浮かび上がろうとします。部分的な介入はやがて動的平衡全体に波及し、平衡が乱れたり、あるいは逆襲をうけることになります。部分的な効率化は、決して全体の幸せにつながることはないのです。

ハチの異常の話を聞いて、私はすぐにあることを思い出しました。狂牛病の問題です。

狂牛病は、食物連鎖という、自然界のもっとも基本的な動的平衡状態を人為的に組み換えたことによって発生し、その後、複数の人災の連鎖によってこの地球上に広まったものでした。
乳牛は、ミルクを搾り取るために妊娠されられ続けます。生まれてきた子牛たちが飲む余地はありません。子牛たちを、できるだけ早く、できるだけ安く、次の乳牛に仕立て上げるために、安価な飼料が求められた。それは死体でした。病死した動物、怪我で使い物にならなくなった家畜、廃棄物、これらが集められ、大なべで煮られ、油を濾し取ったあとに残った肉かす、いわゆる肉骨粉が餌としてあたえられました。つまり草食動物である牛を、効率化のために肉食動物に変えてしまったのです。そして原料の死体に病原体が紛れ込んでいました。それだけではありません。安易にも人々は、肉骨粉の製造コストを節約するため、原油価格が上がると死体の加熱時間を大幅に短縮しました。こうして、羊の奇病であるスクレイピー病が、牛に乗り移り、その牛を食べたヒトにも飛び火していったのです。牛が草を食べるのは、自然界の中で自分の食べるものを限定することによって生態系全体の動的平衡状態を維持するため、38億年の進化の時間が選び取ったものです。それを効率の名のもとに、部分的に組み替えたため、動的平衡から逆襲をうけた。それが狂牛病の教訓でした。

私は、ハチの異常に同じ危惧を感じます。

そもそもハチは、自然界において受粉の道具として存在しているのではありません。昆虫と植物は一対一の利害関係にあるのではなく、複雑な食物連鎖網の結び目のひとつとして、生態系全体に組み込まれています。つまり、昆虫と植物の共生関係はもっと大きな動的平衡状態の中にあります。
にもかかわらず、その中で、ハチは人間の都合だけで効率的なツールとして極端なまでの道具と化してしまったのです。

動的平衡状態は、その内部にできるだけ多様な生命が相互に関係しあっていることによって維持され、また干渉やかく乱に対する回復力を保っています。近年、生物多様性が地球環境問題の重要課題として注目されるようになっています。その理由は、多様性が、単に生命の可能性を担保しているというだけではないのです。生物の多様性こそが、動的平衡を支える大きな力のみなもととなりうるから、重要なのです。

狂牛病をこれ以上拡大しないために私たちは何をすればよいでしょうか。それは実は単純なことなのです。牛を正しく育てればよい。つまり牛を本来の草食動物として育てればよいのです。

現在、大きな問題になっているインフルエンザの問題の本質もまた、私たちの生命観を問い直しているように思います。ウイルスが次々と変化を起こし、新型のインフルエンザが発生しつづけるのは、私たちがトリや豚をあまりにも集約的に飼育しているからです。ウイルスに、進化の実験場を与えているようなものだからです。

ハチの謎の失踪や大量死は、ある意味で、いきすぎた効率思考への、文字通り、イエローカードのようなものではないでしょうか。

多様性のない世界の脆弱さに気づくこと、そして、近代社会が単純化しすぎた機械論的な生命観、自然観を、動的平衡の観点から考える。そのような思考の転換を求める警鐘ではないか。そのように私は受け止めたいと思っています。



絶妙なバランスで、奇跡的に成り立っている「自然」というもの、
人間のからだも「自然の一部」だということを忘れずに、
自然がわたしたちに教えてくれることを、謙虚に学びたいものです。


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