2011年3月11日、東日本大震災が起きた時、わたしは岐阜市のじゅうろくプラザで、
上野千鶴子さんの『女ぎらい ニッポンのミソジニー』の読書会をしていました。
めまいのするようなゆっくりとした揺れを感じて、
だれかが「地震じゃない」と言って、思わず、窓の外を見ました。
下にはなにごともないように、車が行きかっていました。
ほどなく、ともちゃんから「東北に大津波が押し寄せている」という電話があり、
わたしたちは、読書会を早目に切り上げて、岐路につきました。
大津波のニュースを食い入るように見ながら、その画面に、
「福島原発が緊急停止」というテロップが流れるのを見て、
わたしは直感的に思いました。
「原発で取り返しがつかないことが起きている。」
次には「とまった福島第一原発の冷却水が減っている」とのニュース。
わたしはいてもたってもいられずに、この日、二つ目のブログを書きアップしました。
【緊急】福島第一原発 緊急事態宣言/
冷却水が減り燃料棒が露出すると最悪メルトダウンの危険!(2011-03-11)
それからしばらくの間、わたしのブログは原発事故の記事一色でした。
最悪の予想は、つぎつぎに現実となり、今日まで続いています。
わたしのかなしみと怒りも、あの時からずーっと続いています。
わたしは福島をけっして忘れない。
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上野千鶴子さんの『女ぎらい ニッポンのミソジニー』の読書会をしていました。
めまいのするようなゆっくりとした揺れを感じて、
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「福島原発が緊急停止」というテロップが流れるのを見て、
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「原発で取り返しがつかないことが起きている。」
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【緊急】福島第一原発 緊急事態宣言/
冷却水が減り燃料棒が露出すると最悪メルトダウンの危険!(2011-03-11)
それからしばらくの間、わたしのブログは原発事故の記事一色でした。
最悪の予想は、つぎつぎに現実となり、今日まで続いています。
わたしのかなしみと怒りも、あの時からずーっと続いています。
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【社説】私たちは変わったか 3・11から1年 2012年3月11日 中日新聞 3・11は日本に重い課題を突きつけました。日本の復興とエネルギーの未来です。歴史的責任を感じます。だがそのために私たちは変わったのだろうか。 雪の福島で印象深い二人に会いました。 一人は三春町の元副町長。一年前を静かに語りだした。 …ここは福島第一原発から西へ約五十キロです。1号機爆発の三月十二日の夜、原発近くからの避難民二千人を受け入れました。翌十三日、避難民には安定ヨウ素剤が配られた。それが何か私たちは知りません。だから勉強しました。 爆発は次々起きます。県がヨウ素剤を保管していると知り保健師に取りに行かせました。 ヨウ素剤いつ飲ます でもそれを町民にいつ飲ませたらいいのか。効力は飲んで二十四時間。いつ飲むかは重大な問題です。私は大学山岳部の出で観天望気をかじっていました。データを集め自分で天候予測をする。 十五日。午後雨の予報。風向を見るため吹き流しを二カ所(役場と山の上)に設置。東風確認。ネットで茨城県東海村では放射能が通常値の百倍と知る。 決断しました。午後一時、町民にヨウ素剤の配布・服用の指示です。あとで知ったのですが、服用指示はほかでは出されていませんでした。でも町民を守れました。 聞き終わって、たずねました。 一年前と今とは何か変わるところはあったのですか、と。 答えはごく簡単でした。 …国も県も変わっていない。 統治体、統治の仕組みに対する不信です。放射能の流れを予測するSPEEDIは働いても国民には知らされない。対策は後手ばかり。自治体は懸命なのに、国の政治は不在も同然。例えば復興庁発足の何と遅かったこと。日本中が歯ぎしりする思いでした。 国に欠けていたもの では国に何が欠けていたのか。それは首長たちの働きと比べれば一目瞭然です。住民、国民を守り切るという情熱と覚悟です。あのころ残っていた希望とは、日本人が日本人を見直したことです。私たちにはできるのです。 それでも、一年を経て状況の本質が変わらないとすれば、私たち自身が実は変わっていないのではないか、という問いかけが必要になります。 三月十一日はその前も鋭く思い出させました。高度成長の中で、また経済優先と効率化の波の中で、私たちが忘れ、また奪われてきたものです。人の命の重さ、共同体の大切さ、忍耐や思いやり、中央と地方の格差、貧富の広がり…とりわけ原発立地地の不安。 政治がもし変わらないのなら、政治に頼むのではなく、私たち自身が変わらなければなりません。主権者はいうまでもなく私たちなのであり、私たちが変われば日本は変わるのです。 福島で印象深かったもう一人は地元の老ジャーナリストでした。 原発はずっとそばにあった。彼は言いました。 「振り返れば、ぼくは原子力村の側の人間だった。大した疑問は持たなかった」 その悔悟は地方中央を問わず、多くのメディア人のもつ思いと通じるかもしれない。原発に対する批判力がいかにも弱かったのではないか、と。原子力を進歩の象徴とし、その黒い影が見いだせなかった。 今、老ジャーナリストはしわ深い顔で付け加えました。 「日本には広島、長崎があったのです」 その言葉の先には福島があるようでした。 日本はあらためて世界に発信せねばなりません。核に頼らない、新しいエネルギー、新しい暮らしを世界に知らせねばなりません。 現状はどうか。政府は原発の再稼働に前のめりになり、原発の海外輸出に何のためらいもなく、国民の知りたいエネルギー計画は進んでいるようには見えない。 日本の原子力政策は何も変わっていないようにも見えます。何かを真剣に考え抜いたという痕跡が見あたらない。身近で危険なものほど、国民によく公開され、説明されるべきなのに。 新しい日本を創ろう 私たちは変わったか、という問いは厳しすぎるかもしれません。しかし前進するためには、絶えざる自戒と反問が必要です。昨年のきょうは、未来への真剣な考察を私たちに重く課したのです。恐るべきほど多くの犠牲のうえに。 それに報わずして何としましょう。被災地の人々は変わったけれど、そうでない人々は変わらないという事態を恐れます。国を古きから新しきに変えて、原発に頼らない国を創る。核なき世界を目指す。新しい日本を創りましょう。新しい日本は私たち一人ひとりの中にあるのです。 |
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社説:震災1年/7 未来のために 「NPO革命」を進めよう 東日本大震災の発生から、きょうで1年を迎えた。改めて多くの犠牲者の冥福を祈るとともに東北、そして日本の復興を誓う日としたい。 国の政治がもたつきながらも、どうにかしのいできたのは被災者のみなさんの忍耐強さと地元自治体の努力があったからだ。さらにもう一つ見逃せない点がある。全国からかつてない巨額の寄付が寄せられる一方、今もさまざまな支援活動が続いていることだ。私たちはそれをもっと誇っていい。 「ボランティア元年」と言われた阪神大震災から今年で17年。被災地でがれき処理を手伝ったり、食料や衣料を配るだけでなく、活動範囲の広がりは目を見張るほどだ。 ◇官・民の壁を超えて その重要な担い手がNPOだ。 例えば、原発事故の影響を今も受ける福島県の子供を夏休みと冬休みの長期間、北海道など各地で受け入れて林間学校を開いた「ふくしまキッズ」。夏は518人、冬も190人の小中学生が親元を離れて参加し、今は近く始まる春休みの準備が進む。多くのNPOと企業、自治体が協力し、これまで集まった寄付金は約8000万円にもなる。 子供の世話をするのは主に学生ボランティアだ。春の活動にも瞬く間に約200人が応募。大学生だけでなく補習授業の合間に手伝いに来る高校生もいる。発起人の一人、NPO「教育支援協会」の吉田博彦代表理事(59)は、00年の三宅島噴火の時も同じ試みをしながら長続きしなかった苦い経験を持つ。それだけに「5年は続ける。誰かに文句を言うだけではいけない。福島の未来を担う子供を育てたい」と話す。 20代、30代の若者が運営するNPO「カタリバ」は、津波で壊滅的被害を受けた宮城県女川町で昨夏、無料の学習塾「女川向学館」を始めた。小学校の空き教室を利用し、震災で職を失った塾講師を雇用する一方、休職して首都圏から駆けつけた同町出身の会社員やボランティア大学生らが町の小中学生全体の3分の1に当たる約200人を教える。 女川町役場、そして従来、塾とは競合してきた地元教育委員会と学校が全面的にNPOとコラボ(協同)しているのがミソだ。最近は親たちも「何かできることはないか」と協力を申し出るようになった。 東京を離れ、月の大半を現地で暮らすカタリバの今村久美代表理事(32)は「震災の試練を経験した子供たちは、もしそれを乗り越えたなら誰よりも強く優しくなれるはず。私たちの役目はそのための学習機会を作ってあげること」という。昨年12月には岩手県大槌町に2校目も開校した。役所や学校任せにしない新しい学びの形が生まれつつある。 愛知県半田市の社会福祉法人「むそう」の戸枝陽基理事長(43)と北海道当別町のNPO「ゆうゆう」の大原裕介理事長(32)は震災直後、「自閉症児らが避難所で苦労している」と聞き、学生らを連れて岩手県田野畑村に駆けつけた。障害児や家族を支援する児童デイサービスを始めようとしたが、当初、県の担当者は「県全体でも5人しか希望者がいない」と渋ったという。 ところが戸枝さんらが自主的に活動を始めると人口約4000人の同村だけでも20人以上が利用。障害特性に合った活動が評判を呼び、同県宮古市で始めた事業も20人以上が利用する。地元では「こんなサービスがあるとは知らなかった」と多くの人がいう。今では行政も協力し、近く正式に役所の事業となる予定だ。 ◇政治が頼りないのなら 今まで行政側には「NPOは下請け」の意識があったのは事実だ。だが、こうして「民」が「官」をリードする動きも広がっている。 昨年の法改正でNPO法人に寄付をすれば最大で国や自治体から寄付額の5割近い税金が戻ってくるようになった。これも大きな前進だ。 税金を徴収し、使い道を決めるのは従来、政府や自治体の仕事だった。だが、公共を担うのは官だけではない。教育や福祉などNPOの活動は拡大し定着してきている。そんな中、国民それぞれが「役所より、このNPOを応援したい」と寄付をし、減税される。それは一部とはいえ税金の使い道を国民自らが選択できる時代になったことを意味する。 国の一般会計予算は約90兆円。仮に寄付金が年に10兆円に上り、役所の縦割りや地域、世代の壁を超えてNPOが活躍する社会を想像してみよう。行政は一気にスリム化され、国会もおのずと変容するはずだ。 私たちはこれを「NPO革命」と呼んでみたい。もちろん震災支援を継続させるには、今後ますます国民の後押しが必要だ。しかし政治が立ち止まっているのなら、一人一人が自分のできることから動き始めるしかない。この数年、特に若い世代の間に「他人の幸せになることが自分の幸せになる」という機運が広がっている。「革命」の土壌はある。 日本中が悲しみに包まれ、「原発安全神話」をはじめ、これまでの価値観が崩れ去ったあの日を私たちは忘れない。そして、これからはまったく新しい「公共社会」を日本が実現させて世界をリードする。そんな未来を思い描こう。 毎日新聞 2012年3月11日 |
大震災1年 風化と闘う/被災を人災としないために 「早く帰ってきて」。子どもを亡くした親は、あの日から時間が凍りついたままだ。 「いつになったら、がれきが片付くのか」。復興の遅れに、漁師はいら立つ。 喪失感を癒やすには短すぎ、困難を耐えるには長すぎる日々だった。「もう」と「まだ」が交錯する。 1万5854人が亡くなり、3155人の行方が分からない。1年前の記憶はなお鮮明で、うずいている。言ってもせんないことと知りつつ、「3月10日に戻れたら」と誰しもが思う。 「前を向こう」と鼓舞することは、たやすい。だが、立ち止まろう。復興は犠牲者の無念と残された者の悲境に思いを巡らせ、寄り添うことから始まる。 その上で、いま求められていることを考える。それは被災を人災にしないことだ。 阪神大震災を兵庫県西宮市の自宅で経験した作家の故小田実さんは被災直後、こう記した。「大災害は事物の虚飾をはぎ取って、本質を明らかにする」(『これは人間の国か』) 当時、わが国では災害で財産が失われても、私有財産制の下で公的補償は無理との考え方に立っていた。明らかになった国の本質は、自己責任論だった。 これに憤った小田さんは被災者の生活再建に公的支援を定める法律制定へ向け、市民運動を展開。1998年、超党派の議員立法で成立した「被災者生活再建支援法」は、小田さんらが作った原案が基になっている。 地震国・日本では万人が被災者になり得る。住居、仕事を失い、二重ローンに苦しむのは私であり、あなたでもある。小田さんの運動を支えたのは、そんな分かち合いの思想だ。 だが、大災害の後、多くの人が共有した痛苦の感情は徐々に薄れていく。被災地以外では風化が始まっている。 政府の対応はどうだろう。復興庁は復興交付金の第1回配分額を通知した。宮城、福島両県は要求額の6割弱しか認められなかった。これが「被災者に寄り添い続け、必ずや復興を成し遂げる」(野田佳彦首相)という役所の実の姿だ。 「絆」の大合唱が聞こえてくる。義援金が寄せられ、多数のボランティアが被災地で献身的な活動をしてくれた。ありがたいことだ。支援はこれからも続けてほしい。 一方で、被災地にうずたかく積み上げられたがれきの広域処理が進まない。説明を尽くしても、放射性物質への懸念を払拭(ふっしょく)できずにいる。絆は風評の前で、あまりにもろい。 つながりを切望しているのに、分断が始まっているのだ。 福島県では原発事故で汚染された地域が線引きされ、年50ミリシーベルト超は「帰還困難区域」とされる。町の解体だ。古里を追われた人たちには、移住者としての運命が待ち構える。 「我慢強い」と称賛を浴びた東北人だが、「無告の民」であってはならない。私たちは当事者だ。理不尽を正し、生き延びるための知恵を出し合おう。 2012年03月11日日曜日 河北新報 |
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