常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

田中菊雄先生

2012年04月06日 | 日記



田中菊雄先生に始めてお会いしたのは、昭和34年4月、山形大学文理学部の教室であった。
大柄な体躯、分厚い眼鏡、そして何よりも大きい声が印象に残った。
当時の山大にはどういうわけか、私もそうなのだが、北海道出身者が多かった。そのため道産子を集めた「熊の会」というのがあった。田中先生が北海道出身ということもあって「熊の会」の顧問をされていた。

もう記憶も定かではないが、その年の5月ごろであったと思う。
「熊の会 新入生歓迎コンパ」が催され、田中先生も出席された。先生の挨拶は気さくなものであった。「君たち単位認定の試験だがね、答案用紙に隅に小さく熊と書いておきなさい。必ず及第にするから」。先生のこんなサービス精神に甘えた学生がいたかどうか、知るよしもないが、先生を身近に感じさせる効果は十分であった。

先生の授業はテキストを教室中に響く大きな声で朗読し、エピソードを加えながら訳していくという式のものであったが、テキストから離れて自らの苦学や人生に触れて、学生に参考になる話を縦横にしてくださった。

先生は1893年(明治26年)北海道の小樽に生まれ、旭川の大成尋常小学校に入った。
あの厳冬のなか手袋もなく、マントも持たずに通学した。兄弟で共有した一枚の首巻を譲りあって通学する有様だった。8人の兄弟と祖父を含む10人が、父の薄給で養われていた。
まだ高等4年を卒業しないうちに、鉄道給仕となって一家の助けにならなければならなかった。15歳の時のことだ。

先生の回想が「私の人生探求」という本に記されている。

私は十能とデレッキを持って客車から客車へとストーブを焚いて歩いた。まだ丈の小さかった自分は座席の上に箱を載せては背のびして久美燈に点火して歩いた。当時の北海道の列車はいろいろの種類の車をピンとリンクで混結していたので車と車の間が往々2尺以上も離れていたし、高低も様々であったし、デッキは風雪に吹き曝されていた。客車から緩急車へ飛び移る時などは本当に命がけであった。

こんな過酷な環境のなかで、先生は奉仕という仕事に楽しみを見出し、高等4年から失わなかった向学心はさらに膨らんでいく。先生の向学心をみて、札幌に創設された北海道鉄道地方教習所の第一回生徒応募の道を上司や先輩が開いてくれた。

独歩、漱石、露伴、藤村、蘆花、二葉亭など熱読してやまなかった。特に独歩の武蔵野、逍遥の「ハムレット」の訳はみな諳んじていた。
こうした向学心が代用教員、訓導、中等教員、高等教員、大学教授への道を進むことになる。教職員の資格を独学で得ていった努力は並みのものではない。

先生は昭和35年には山形大学を退官された。
先生の名前が印刷されている岩波の英和辞典を引きながら、講義を聴いたのは不思議な気持ちであった。それにもまして、先生の学問へのかわることのない情熱に触れることができたのは、自分の人生の宝物であった。
コメント
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