2月に亡くなった叔母の五七日法要に尾花沢に行ってきた。
さすがにこのところの暖気で雪も融けただろうと想像していたが、いまだに田畑は雪に埋もれ見渡すかぎりの雪原が広がっていた。
スイカは遅くなるな、まだ準備もおぼつかないから、との声しきりであった。
この家の寺は集落のなかにひっそりと息づいている、近所のお寺、という気取らない素朴そのものという印象を参列者に与えた。
まだ年若い先代を受け継いだ女性の住職は尼さんという風貌ではなく、父と二人であげるお経は声の響きが調和し、この寺の跡継ぎの風格を備えていた。住職のお経が終わり、暫時の法話があった。
決して上手とは言えない、訥々とした語り口であった。
五七日の法要と言うのは、中国から伝わった風習なんです。亡くなった方の7日毎のお参りの5回目35日ですが、この日は閻魔大王が故人を地獄へ送るか極楽へ送るかの裁きをする日です。誰も地獄へは行きたくないから、法要をするという風習が中国から伝わったのです。
住職は言葉を継いだ。
親鸞上人は人が死後、その行いによって極楽へいくか、地獄へいくかという考えには立っていません。人は浄土から生まれて、死後はその生まれた浄土に帰っていくのです。浄土というのは、命の源ですね、清らかな土地です。行いの良し悪しで行く先が決まるのでなく、生まれながらして誰もが浄土に帰っていくように決められているんです。
地獄極楽というのは死後にあるのではなく、人が生きている現世にこそあります。
楽しいことがあってよかった思うことがある反面、辛く悲しい場面に人は立たされます。これが地獄なんです。その時、どうしますか。
自分の力でこの難局を切り抜けようとしても、人は微力です。
先人はこの場面でどうしたかな、亡くなったすみ江さんならこうしたなということが、人に決断の力を与えてくれるのです。五七日の法要でこんな考えを持って故人を偲んでいただければ幸いだと思います。
3.11の大震災から1年、日本中がいまだ復興の道筋を見出せないでいるなかで、この雪深い辺鄙な集落で、年若い女性住職の言葉の力に勇気づけられた。
梅原猛は『地獄の思想』のなかで述べている。「地獄の思想は、人生の苦を教え、人生の無常を教え、人生の不浄を教えた。それは明るく正しい神道的世界観からみれば、まったく異質の自己反省であった。しかし、その自己反省によって、魂はなんと豊かに、なんと深くなったことであろう。日本人はこうして暗い思想をも自己のなかに深くとり入れた。それによって、日本人の生の力の強さと健康さを証明した。」
この地にも、春が遅まきながらやってきた。地獄とは日本人が取り組んできた永遠の課題である。原発という地獄のなかにいまの日本はあるように見える。
斉藤茂吉が詠んだ「地獄極楽図」をいま一度かみ締めてみよう。
いろいろの色の鬼ども集まりて蓮の華にゆびさすところ
人の世に嘘をつきけるもろもろの亡者の舌を抜き居るところ
罪計に涙ながしている亡者つみを計れば巌より重き
にんげんは牛馬となり岩負ひて牛頭馬頭どもの追ひ行くところ (明治39年作)
さすがにこのところの暖気で雪も融けただろうと想像していたが、いまだに田畑は雪に埋もれ見渡すかぎりの雪原が広がっていた。
スイカは遅くなるな、まだ準備もおぼつかないから、との声しきりであった。
この家の寺は集落のなかにひっそりと息づいている、近所のお寺、という気取らない素朴そのものという印象を参列者に与えた。
まだ年若い先代を受け継いだ女性の住職は尼さんという風貌ではなく、父と二人であげるお経は声の響きが調和し、この寺の跡継ぎの風格を備えていた。住職のお経が終わり、暫時の法話があった。
決して上手とは言えない、訥々とした語り口であった。
五七日の法要と言うのは、中国から伝わった風習なんです。亡くなった方の7日毎のお参りの5回目35日ですが、この日は閻魔大王が故人を地獄へ送るか極楽へ送るかの裁きをする日です。誰も地獄へは行きたくないから、法要をするという風習が中国から伝わったのです。
住職は言葉を継いだ。
親鸞上人は人が死後、その行いによって極楽へいくか、地獄へいくかという考えには立っていません。人は浄土から生まれて、死後はその生まれた浄土に帰っていくのです。浄土というのは、命の源ですね、清らかな土地です。行いの良し悪しで行く先が決まるのでなく、生まれながらして誰もが浄土に帰っていくように決められているんです。
地獄極楽というのは死後にあるのではなく、人が生きている現世にこそあります。
楽しいことがあってよかった思うことがある反面、辛く悲しい場面に人は立たされます。これが地獄なんです。その時、どうしますか。
自分の力でこの難局を切り抜けようとしても、人は微力です。
先人はこの場面でどうしたかな、亡くなったすみ江さんならこうしたなということが、人に決断の力を与えてくれるのです。五七日の法要でこんな考えを持って故人を偲んでいただければ幸いだと思います。
3.11の大震災から1年、日本中がいまだ復興の道筋を見出せないでいるなかで、この雪深い辺鄙な集落で、年若い女性住職の言葉の力に勇気づけられた。
梅原猛は『地獄の思想』のなかで述べている。「地獄の思想は、人生の苦を教え、人生の無常を教え、人生の不浄を教えた。それは明るく正しい神道的世界観からみれば、まったく異質の自己反省であった。しかし、その自己反省によって、魂はなんと豊かに、なんと深くなったことであろう。日本人はこうして暗い思想をも自己のなかに深くとり入れた。それによって、日本人の生の力の強さと健康さを証明した。」
この地にも、春が遅まきながらやってきた。地獄とは日本人が取り組んできた永遠の課題である。原発という地獄のなかにいまの日本はあるように見える。
斉藤茂吉が詠んだ「地獄極楽図」をいま一度かみ締めてみよう。
いろいろの色の鬼ども集まりて蓮の華にゆびさすところ
人の世に嘘をつきけるもろもろの亡者の舌を抜き居るところ
罪計に涙ながしている亡者つみを計れば巌より重き
にんげんは牛馬となり岩負ひて牛頭馬頭どもの追ひ行くところ (明治39年作)