暦のうえでは、立春から半年が経って立秋となる。夏の暑さは、立秋のころにピークを迎えるが、初候は「涼風至る」である。たしかに2時ころの熱気に耐え難い思いをするが、日没にちかくなって一陣の涼しい風が身体を吹き抜けていくことがある。気温が低くなるのではなく、風が涼しさを運んでくるのだ。
古今集に
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる 藤原敏行
秋歌の最初にあげられているが、初候を歌に読みこんだものである。猛暑と蝉時雨のなか秋を感じることはできないが、ブドウ畑でデラウェアが色づいているのにであった。このぶどうも収穫を待つばかりになっている。房がもがれてすっきりとしたブドウ畑はもはや秋であり、冬支度が始まる。
畑仕事で早朝に行くことが多い。一日数分であるが、日の出の時刻は確実に遅くなっている。朝露の量も、初夏のころくらべると、多くなっている。枝豆の葉が盛んに枝別れして幼葉を出しているが、その小さい葉にためきれない朝露が、豆の根元へ垂れて土を丸く濡らしている。植物の生命の神秘を見たような気がする。近所のお百姓さんが、朝の露をみて、ああもう夏も終わりだね、と語り合っている声を聞く。
花笠祭りがきょう2日目を迎える。私が山形へ来たころはこの祭りはなく、秋の豊年を祝う仮装行列が目抜き通りを練り歩いた。青年団や学生が趣向をこらす仮装行列は、山形の秋の風物誌であった。寮生が主体の学生は毎年趣向を凝らし、さまざまなテーマで仮装に取り組んだ。「パンドラの箱」と名づけられた行列は、何でもありの変装で、私は着物を着せられて顔に白粉を塗り口紅を引いて女装した。乞食あり、殿様あり、大金持ちありの行列は市民から喝采を受けた。仮装は団体のコンテストになっていて、たしか1等は30万円ほどの賞金がでていたように記憶する。
この仮装行列がマンネリ化したためか、山形市は仙台の「七夕」秋田の「竿灯」青森の「ねぶた」の向こうを張って「花笠まつり」を立ち上げた。それから50年が経つが、急ごしらえの祭りはやはり動員や寄付、広告が主体で他の都市の伝統に比べて引けを取り、やや地元の盛り上がりに欠けるのは否めない。