延喜の世といえば、王朝の文化が花開き、地方の受領が力をつけていった時代である。一方、戦乱や大火、夜盗が京の町を横行し、そこに生活する人々には不安のつきまとう動乱の時代であった。藤原氏を頂点する摂関政治はその頂点に達し、武士の台頭が現実のものとなっていく、時代の転換点でもあった。
暗い京都の夜は、恐ろしい百鬼夜行の横行する危険な時間であった。
西三条の右大臣の息子に常行という眉目秀麗な若殿がいたが、大変な色好みで夜遊びに余念がなかった。夜歩きは危険だぞと、右大臣からいさめられていたが、そんな親のことばも聞き入れず、夜の京にでかけて行った。
美福門あたりまで来ると火を灯してがやがやとやって来るものがある。若殿は「何者だろう」といぶかって、ともかく神泉の北の門に身を隠した。夜盗にでも見つかって、身包みはがされてはたまらない、と考えたからだ。
今昔物語の記述は簡明でテンポのよい文体で、若殿の恐怖を描いている。
その時に火ともしたる者ども過ぐ。何者ぞと、戸を細めに開けて見れば、人にはあらで鬼どもなりけり。さまざまの怖ろしげなる形なり。肝迷ひ心砕けて更に物おぼえず。聞けば鬼どもいひけるやう、「ここにけはひこそすれ。からめ候はむ」といひて、者一人走りかかりて来るなり。我が身今は限りぞ・・・
牛頭鬼(ごづき)は牛の頭をした鬼である。当時の人々は、この鬼が人を喰うと信じていた。鬼はめったに姿を見せることはない。京の街で起こった殺人事件が、鬼のなせる業とされた例も多い。なによりも昨今と同じように地震が頻発した、加えて落雷が神社の神木を倒し、大内裏の北門に羽蟻の大群が発生するなど、人を驚かす天変地異が相次いだ。
『鬼の研究』を書いたのは馬場あき子である。牛頭・馬頭の鬼が地獄卒であることを説き、牛頭鬼は地獄を定住とせず、墓穴を通路としてこの世に現れることが広く信じられたと書いている。
鬼が人々の不安の象徴として語られていた。それはヨーロッパ中世に語られた魔女伝説と比較考証されるべき点も多くあるような気がする。ひるがえって、現代の人々の不安は何に象徴され、どう昇華されようとしているのであろうか。