きのう36℃、きょうの予報は35℃。連日の猛暑のなかに秋を探している。見上げる空に変化が生まれている。きのうまで、最上川の上に出ていた入道雲が姿を消して、すじ雲が現われた。難しい正式の名は巻雲である。
巻雲は日本付近の高度10000mあたりに吹いている偏西風に乗って西から流れてきて、東へと去っていく。この雲はごく細かな氷の粒から出来ている。刷毛でなぞったような筋を見せているが、雨巻雲と晴れ巻雲の2種類がある。雨巻雲は低気圧や不連続線にともなって生じるもので、網状、縞状、帯状、波状の形を持ち見た目に含水量が多く、湿った感じがする。
晴れ巻雲は低気圧などには関係なく生じ、渦を巻いたり、屈曲したりしていて、乾燥した感じを与える。今出ている雲はどっちかと考えているうちに、すじ雲は東に去り西の空にさば雲が出てきた。
この雲も上空の不連続面のところに生じる。やはり気圧の谷の接近が、雲の様相を変えているようだ。雲の変化で見るかぎり天候は下り坂と考えられる。さば雲は30分もしないうちに東に去り、最上川の上空には入道雲が出始めた。
雲を見ながら、漱石の俳句と遊んで見る。
午砲打つ地城の上や雲の峯 明治29年
明治29年4月、漱石は四国松山から第五高等学校の教授として熊本へ赴任した。6月には妻鏡を娶っている。この夏熊本の猛暑は想像を絶していた。友人に「時下炎暑耐え難く御座候」と書き送っている。午砲はドンと云って昼を知らせる空砲で、皇居内で撃たれていた。半ドンも、この午砲からきている。熊本では熊本城でドンが打たれたのであろう。その城の天守閣の上に入道雲がむくむくと立ち上がっていた。絵柄の大きな句である。
衣更えて京より嫁を貰ひけり 明治29年
漱石の結婚式は6月9日であった。式は熊本の自宅の6畳でささやかに行われた。東京から連れてきた老女中と車夫が台所で働いたり、仲人と客までかねたものだった。ありあわせの盃で三々九度を済ませという略式だ。仕出屋の請求が7円50銭であった。式が済むと、あまりに暑いのでまず岳父が服をぬぎ漱石のかすりのゆかたを借り、やがて裸になった。花婿までフロックコートをゆかたに替えて肩ぬぎという無礼講に近い宴会になった。
北国生まれの私には肩ぬぎの宴会など想像もできないが、一度だけ経験がある。甲子園で夏の高校野球大会見学に招待されたときのことだ。まさに炎天下の野球大会である。氷のカチ割りというものがあんなに美味しいものとはじめて知った。夜は宝塚温泉の旅館で宴会があった。宴たけなわになると中庭が涼しくて気持ちがいいと、そこへ出て飲みなおしになった。みんな肩ぬぎになって、肌にとまる蚊を叩きながら飲んだことを覚えている。