常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

すじ雲

2012年08月23日 | 雲の名


きのう36℃、きょうの予報は35℃。連日の猛暑のなかに秋を探している。見上げる空に変化が生まれている。きのうまで、最上川の上に出ていた入道雲が姿を消して、すじ雲が現われた。難しい正式の名は巻雲である。

巻雲は日本付近の高度10000mあたりに吹いている偏西風に乗って西から流れてきて、東へと去っていく。この雲はごく細かな氷の粒から出来ている。刷毛でなぞったような筋を見せているが、雨巻雲と晴れ巻雲の2種類がある。雨巻雲は低気圧や不連続線にともなって生じるもので、網状、縞状、帯状、波状の形を持ち見た目に含水量が多く、湿った感じがする。

晴れ巻雲は低気圧などには関係なく生じ、渦を巻いたり、屈曲したりしていて、乾燥した感じを与える。今出ている雲はどっちかと考えているうちに、すじ雲は東に去り西の空にさば雲が出てきた。



この雲も上空の不連続面のところに生じる。やはり気圧の谷の接近が、雲の様相を変えているようだ。雲の変化で見るかぎり天候は下り坂と考えられる。さば雲は30分もしないうちに東に去り、最上川の上空には入道雲が出始めた。

雲を見ながら、漱石の俳句と遊んで見る。

午砲打つ地城の上や雲の峯 明治29年

明治29年4月、漱石は四国松山から第五高等学校の教授として熊本へ赴任した。6月には妻鏡を娶っている。この夏熊本の猛暑は想像を絶していた。友人に「時下炎暑耐え難く御座候」と書き送っている。午砲はドンと云って昼を知らせる空砲で、皇居内で撃たれていた。半ドンも、この午砲からきている。熊本では熊本城でドンが打たれたのであろう。その城の天守閣の上に入道雲がむくむくと立ち上がっていた。絵柄の大きな句である。

衣更えて京より嫁を貰ひけり 明治29年

漱石の結婚式は6月9日であった。式は熊本の自宅の6畳でささやかに行われた。東京から連れてきた老女中と車夫が台所で働いたり、仲人と客までかねたものだった。ありあわせの盃で三々九度を済ませという略式だ。仕出屋の請求が7円50銭であった。式が済むと、あまりに暑いのでまず岳父が服をぬぎ漱石のかすりのゆかたを借り、やがて裸になった。花婿までフロックコートをゆかたに替えて肩ぬぎという無礼講に近い宴会になった。

北国生まれの私には肩ぬぎの宴会など想像もできないが、一度だけ経験がある。甲子園で夏の高校野球大会見学に招待されたときのことだ。まさに炎天下の野球大会である。氷のカチ割りというものがあんなに美味しいものとはじめて知った。夜は宝塚温泉の旅館で宴会があった。宴たけなわになると中庭が涼しくて気持ちがいいと、そこへ出て飲みなおしになった。みんな肩ぬぎになって、肌にとまる蚊を叩きながら飲んだことを覚えている。


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朝の場所

2012年08月23日 | 日記


7月は目覚めが4時ころであったが、いま5時ころになっている。起きて向かう先は、西にある農園か、東の森にある丘へ散歩に行く。丘には広く芝生が貼られて、なだらかな起伏が寝起きたばかりの目をやさしく癒してくれる。天気のいい日は、山形の街並みが間近に見える。目を後ろに転ずると、森の木々が日をさえぎって、薄暗い林道に木漏れ日が落ちている。



家から歩いて30分、往復しても1時間ちょっとでいけるお気に入りの場所だ。道のまわりは畑になっていて、野菜の成長が見てとれる。蝉の鳴き声が日に日に大きくなっているが、森の木陰に虫の声が混じるようになった。こんなかたちで季節の移ろいが、その場所に立つものに語りかけてくる。

私はかつて、ギッシングの『ヘンリ・ライクロフトの私記』を愛読していた。この全編に流れる主人公の自然への愛とするどい季節への感受性に惹かれた。主人公はあてどもなく歩くことをこよなく好んだ。

「私は4時少しすぎ目が覚めた。よろい戸には日光が、--いつもダンテの天使たちをおもわせる、あの黎明時のすみきった黄金色の光が、当たっていた。夢ひとつ見ることもなく、いつになくよく眠ったし、体中に休息の恵みを感じた。頭ははっきりとしており、脈は順調にうっていた。こうやってしばらく横になったまま、枕もとにある本棚から、どの本を取ろうかなと思っているうちに、ひとつ起き上がって、早朝の外気に触れたい気持ちがわき起こった。たちまち私はがばっと起きた。よろい戸をあけ、窓をあけると、いよいよ外に出たい気持ちが強くなった。私はまもなく庭にで、道路にで、いい気持ちになったあてどなく歩きだした。」

ここにはどこを探してもドラマ性のかけらも見つけることはできない。ある文筆家が、死の5年前に、何にもとらわれることなく書き綴った魂の随想録なのだ。

「旅行中は、しばしば日の出を見た。そして、いつも、自然のほかの景色から受ける感激とは全くちがった感激を味わったものだった。地中海上の夜明けを私は覚えている。島影が、刻々に変わる淡い光の色彩を帯びて次第に輝きをまし、やがて燦爛たる海上にぽっかりと浮きあがるのだった。」

どうすれば、このような自然の輝きを、自らの心のうちに定着することができるのだろうか。芭蕉は「山は静かにして性をやしなひ、水は動いて情を慰む」という言い方で、山水、言い換えれば自然への立位置を語っている。

論語に

「子曰わく、知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのち)長し」

という一節がある。山水画、山水詩といわれるように山水は自然の代名詞として、東洋人の心のなかに生き続けてきた。山水に向かう先人の心を窺うのも、朝の輝きを深いものにするひとつの術ではないだろうか。
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