空には雲の峯がいくつも見え、35℃前後の暑さが続く。夕方には、市内のあちこちで雷鳴が響き、ところによって強い夕立が来る。沖縄の方に強烈な台風がきているが、いまのところ気圧配置に大きな変化は見られない。
生協桜田店の玄関前の通りを東に上り、13号線とのの交差点を更に東に上る道を誰が呼んだのか、青春通りという。その先に東北芸工大があり、若者が群れる通りだから、あるいは青春通りと云われるのかも知れない。私の朝の散歩コースでもある。道の北側に川が流れ、その川の堤にせり出すような形で店が作られている。
焼きたてを売るパン屋さんがある。そのパン屋さんの隣の敷地の壁に向かって絵筆を握る女学生風の絵描きさんが登場したのはこの夏の早朝であった。毎朝の散歩の度に、壁に描かれる壁画がだんだんと形を現していく。よく見ると路上パフォーマンスを見る豆粒のような人々が描きこまれている。ブリューゲルの現代版のような壁画が完成しつつある。
この壁画の向こうには、キッチンエコーという洋食屋さんがあった。だが、昨年不幸なできごとがこの店に起った。確か、昨年のまだ寒い頃、震災のすぐ後のことであったかも知れない。昼の仕出し弁当を依頼された店の主人が、夜を徹して弁当作りを続けたが、明け方に出火、店は全焼し、この店で作業を終えていたご主人は焼死したのである。
焼け跡は長く放置されたままになっていたが、最近、ようやくとり片付けられ、隣との境の壁(高さ2m×幅20mほど)に街の賑わいが描かれたのである。悲しいできごとがあった場所を、この壁画で清め、人々の心に安堵を与えようという意図があるのであろうか。女学生風の絵描きさんたちの所作が美しく、朝の空気のなかで清々しい雰囲気を醸し出していた。
キッチンエコーには私の青春の思い出がある。
昭和37年のことである。私はA広告社という大手新聞社専属の広告代理店に就職した。そのころの広告代理店というのは、今日のような華やかな業種ではない。新聞社は地方への新聞拡販の戦略として、県域の記事を載せる地方版を競って設けた。その下欄が広告スペースで地方の広告を掲載した。私が就職した広告社はその地方版広告の募集であった。
足は支局にバイクが1台、外は自転車を使用して営業に歩いた。学校を出たての若造である。商売のことも、世間の常識にも疎かった。幸いなことに○○新聞の広告ですと、新聞社の名を出すと、話だけは聞いてくれた。学生のころ行事のプログラムに協賛の広告をお願いに歩いた経験しかない私は、「やまがた味の店」という企画書を持って繁華街をあるいた。どの店のご主人ともほとんどが初対面である。
向かう先は、右も左も分からない若造の話を聞いてくれる主人のいる店ということになる。そんな中に、キッチンエコーという小さな洋食屋さんがあった。10人ほどが腰掛けられるカウンターがあり、対面にキッチンがあった。ご主人の名は児玉さんといった。「やあ、まあ掛けなさいよ。」児玉さんには方言の訛りがなかった。広告をお願いしに行った私に席をすすめ、コーヒーを出してくれた。
北海道生まれの私が、一番苦手だったのは山形弁である。早口で聞きなれない言葉が次々と飛び出してくるので、営業にいっても先方の話が半分も理解できなかった。どだい、「いいべ」といわれても そのニュアンスから、承諾したのか、断ったかも判断できないことがしばしばだった。そんななかで、児玉さんの口調は歯切れがよく、肉の部位など料理の方法をからめて分かりやすく話してくれた。ヒレカツがこお店一番の好評メニューだった。
児玉さんが「味の店」のレギュラーになってくれたたのは云うまでもない。若造の私に、「このごろの客にはいろんなのがいてね。食べ終わって、やあ、と片手をあげて出ていくのさ。付けだよ。これがためこんで中々払わないのさ。」と愚痴をいうこともあった。この企画から、三桝、そばの萬盛庵、うなぎの染太、洋食の中村屋など山形の名店が紙面に顔を出すようになったのも懐かしい思い出である。
キッチンエコーが繁華街から青春通りに店を移したのは、児玉さんの代が代わってからであろう。この店にも2,3度いったが、もう昔のメニューではなく、窓から川の流れを見下ろしながらいただく現代風のしゃれた店であった。