常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

猫の死

2012年08月11日 | 日記


一匹の生まれて間もない子猫が東京・駒込千駄木の夏目家に迷いこんだのは、明治37年の梅雨明けのころであった。一見黒猫に見えるが、全身黒ずんだ灰色の中に虎斑があって、足の爪まで黒かった。

猫嫌いのこの家の主婦・鏡子がいくら外につまみ出してもまた家の中に上がりこんで来る。朝になって雨戸をくるやすぐニャーニャーと上がりこんで、足元にじゃれたりするうちに、主人の漱石がこれを見て、「この猫はどうしたんだ」と聞いた。
「なんだかしらないけど家に入ってきて仕方がないから、人に頼んで捨ててきてもらおうと思っているんです」と言うと、漱石は「そんなにくるなら、おいてやったらいいじゃないか」と猫へ同情を示した。

こうして猫は夏目家で飼われることになったが、一家がこの猫が好きで可愛がったわけではない。子猫はいたずらで、寝こんだ子供たちの足を噛んで泣かせると、怒った漱石が物指しを振り回して追いかけることもあった。鏡子も冷淡で、「あんな猫、名前もなかったのよ。だいたいだれも呼んだりしないもの」と言っていた。ところが、出入りの按摩をする婆さんが猫を見て「あら、奥様この猫、福猫でございますよ。ほら、爪の先が黒ですもの。大事に飼ってやると家が繁盛しますよ」といわれて、鏡子は急に態度を変えて、猫の飯におかかをかけてやったりするようになった。

年が明けて明治38年の正月、夏目家では、高浜虚子、坂本四方太、橋口五葉、橋口貢らを招いて猪肉入りの雑煮をふるまった。台所では猫が餅を喉に詰まらせて踊っているを、「あんまりいやしん坊をするからよ」と鏡子と子供たちが笑っているのが聞える。イギリス留学のころから神経症に悩んでいた漱石は、子猫を飼い、これをモデルに「我輩は猫である」を執筆するようななって、この病が軽減している。夏目家で雑煮を食べた面々は、モデルとしてこの小説に登場したのだろう。

雑煮を喉に詰まらせた猫は、鏡子が取ってやって一命を取りとめたが、小説の終わりで猫は残り物のビールを飲み、酔っ払って水甕に落ちて死ぬ。

「水から縁までは4寸余もある。足を伸ばしても届かない。飛び上がっても出られない。のんきにしていれば沈むばかりだ。もがけばがりがりと甕に爪があたるのみで、あたった時は、少し浮く気味だが、すべればぐうっともぐる。もぐれば苦しいから、すぐがりがりをやる。そのうちからだが疲れてくる。気はあせるが、足はさほどきかなくなる。ついにはもぐるために甕をかくのか、かくためにもぐるのか、自分でもわかりにくくなった。」

猫はこうして気を失い、死んでいく。だが、この死は小説のなかであって、実際の夏目家の猫は、千駄木から本郷西片町へ、そして牛込区早稲田へと二度転居したあと、明治41年の夏に最後を迎える。
この年の夏は猛暑であった。漱石は風呂で水を被ってしのぐありさまだったが、暑さのため猫は変調をきたし、尻尾の毛が抜け落ちて赤肌になり、食べるものをその都度戻すようになった。秋風の吹く頃、猫はへっついのうえで人知れず成仏していた。

漱石は埋葬した墓に

この下に稲妻起る宵あらん

の句をしたため、弟子たちにははがきに手書きで黒枠をつけ

「辱知猫儀久々病気の処、療養相不叶、昨夜いつの間にかうらの物置のヘッツイの上にて逝去致候。埋葬の儀は車屋をたのみ裏の庭先にて執行仕候」

との文面で訃報を送った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする