終戦記念日、悠創の丘から見る山形は日ざしに照らされて静かだった。
1945年の8月15日も、晴れて暑い日であった。私は就学前の4歳の遊び盛りで、この日も戸外ででトンボを追いかけていた。家の裏は、かって川であった名残の崖があった。そこは斜面だが、草原になっていていて、トンボやトノサマバッタがいた。
その崖で遊んでいるうちに、轟音が聞えてきた。見上げるとB29が低空飛行している。旭川にある航空基地を目指しているのか、いつにない低空を飛行している。黒ずんだ大きな機体は無気味で、そのなかの敵兵が自分を見ているような気がした。爆撃でもされたらどうしよう、恐ろしさに足がすくんだ。逃げようにも、足が動かないのだ。子供の恐怖心をよそに、敵機は視界を離れていった。
その日、ラジオの前に家族があつまった。電波の受診状態はいつもわるく、放送内容は聞きとれなかったのかも知れない。ラジオを聞いた家族が、何をいったのか覚えていない。だが、その後少しづつ一家の生活は変わっていったように思う。戦地には行かなかったものの、国内の基地で戦闘準備をしていた兄が真っ黒になって帰ってきたのは、秋が深まるころであった。
高見順の『敗戦日記』にこの日の記述がある。
8月15日。警報。情報を聞こうとすると、ラジオが重大発表があるという。天皇陛下御自から御放送をなされるという。
かかることは初めてだ。かってなかったことだ。
「何事だろう」
明日、戦争終結について発表があると言ったが天皇陛下がそのことで親しく国民にお言葉を賜わるのだろうか。
それともーー或はその逆か。敵機襲来が変だった。休戦ならもう来ないだろうに・・・。
「ここで陛下が朕とともに死んでくれと、おっしゃたら、みんな死ぬわね」
と妻が言った。私もその気持だった。
ドタン場になってお言葉を賜わるくらいなら、どうしてもっと前にお言葉を下さらなかったのだろう。そうも思った。(中略)
12時時報。君ガ代奏楽。詔書の御朗読。
やはり戦争終結であった。
君ガ代奏楽。つづいて内閣告諭。経過の発表。
夏の太陽がカッカと燃えている。眼に痛い光線。烈日のもとに敗戦を知らされた。
蝉がしきりに鳴いている。音はそれだけだ。静かだ。
67回目の戦没者追悼式には4600人の遺族が出席したが、戦没者の妻は24人で、戦後生まれが全体の1割を超えたと報道されている。あの戦争を知らない世代がこの国の中心に座る時代になっている。それだからこそ、原爆や敗戦の記憶を呼び起こし伝え続けていかねばならない。