常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

パンダ

2013年03月13日 | 日記


春めいた陽気で、ベランダに置いていた鉢植えの梅が、一輪、二輪と咲き始めた。折から上野動物園のパンダが発情期を迎え、交尾している映像がテレビで流された。パンだの発情と気温は関係があるのだろうか。去年、初めて出産したシンシンだが、赤ちゃんパンダは1週間足らずで死んだため、今年の出産への期待は、いやがうえに高まっている。

パンダが世界的に知られるようになったのは、フランス人神父ダヴィドの発見による。ダヴィドは、1862年から10年にわたり、布教のため中国に滞在した。1969年の春、ダヴィドは四川省に旅行した。3月11日のことだが、フォン・チャン・チン渓谷を歩き、そこの地主の家に立ち寄りお茶をご馳走になった。そこで、神父は白と黒の彩りの珍しい動物の毛皮を見た。

見たことのない毛皮に興味を持った神父は、その渓谷での滞在を4月まで延ばし、近隣住民の協力を得て、一頭のパンダを捕獲した。この動物は、神父にとっても初めての新種であった。ダヴィドはパリにこの毛皮を送り動物学者の鑑定を仰いだ。これが、動物学上の新種であるかとが知られると、ヨーロッパからハンターがこの地に入り、射殺されるようになった。

解放後の中国では、パンダを保護動物の指定し、四川省のワンラン地区で手厚く保護されるようになった。ここで人工的に繁殖され、世界各地の動物園に貸し出され、中国の外交のツールとして利用されている。日本で出産しても、パンダは中国の所有するもので、やがては返さなければならないらしい。

我猫をよその垣根に見る日かな 高浜 虚子
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上杉鷹山

2013年03月12日 | 日記


文政5年(1822)3月12日、第9代米沢藩主上杉鷹山が72歳で没した。名君中の名君と言われ、内村鑑三が『代表的日本人』のなかの5人のうち取り上げ、この書を読んだアメリカ大統領のJFケネディやビル・クリントンが、最も尊敬する日本の政治家と演説の中で紹介したことで知られている。

「成せば成る 成さねば成らぬ何事も 成らぬは 人の成さぬなりけり」という分りやすい名言を吐いたことで、いまなお米沢に人々の心のなかに深く息づいている。

鷹山公が隠居してからのことであった。領内での軽い身分の侍が、母の長の患いで家計が困窮し、薬代もままならぬ状態に陥った。そこで、父祖の代から大切にしていた庭の松を手放して、薬代の足しにしようと考えた。形のよい松でもあったので、5両になるだろうと、買い手を探した。だが、誰一人買おうとする者がいないので、値を半分に下げた。それとて、気の毒にと思う人ばかりで、買う人が見つからない。

たまたま、鷹山公の侍医がこの話を聞き、公が常々松を鍾愛していることを知っていたので、御前に出て、「殿のお慰みにお求めになられれば、松の持ち主も本懐を遂げるでございましょう」と申し上げた。この話を聞いた鷹山公は、しばらく考えて、侍医に伝えた。

「余が松を愛するのは慰みの為だ。人が持っていた松が入らなくなったのなら、買い入れもしよう。だが、父祖の代から秘蔵した松を、貧窮のために手放し、それを園中に入れて見れば、その松を見るたびにその者の心中を思い不憫を感ずるばかりだ。ならば、買い入れは無用である。だが、その者の貧窮は不憫なことだが、手当てを取らすことも、隠居の身では成りがたい。そこでどうであろう。初めに言った代を取らせて買い、松はその者に長く貸し付けることにしては。主人の松を預かっていては、いささか気苦労が多いだろうが、これまでと変わりなく手入れをするがよかろう。この代で母の薬を調え、ねんごろに看病するがよかろう。」

松の持ち主が、鷹山公のこれほど行き届いた思いやりに、感泣しただろうことは容易に想像がつく。名君としての名声が、200年後の今日まで言い伝えられているも、藩の人間を思いやる心が深かったためであるに違いない。

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春の靴

2013年03月11日 | 日記


春用の靴を買ってきた。道に雪がなくなり、散歩を楽しめる季節が間もなく来るから。日帰り温泉で冬靴を間違われて、戻ってこないという出来事もあった。靴を買うのはうれしいものだ。昭和40年代、働きざかりのころ、上司から言われたものだ。「営業マンは靴のおしゃれに金を使いなさい。」たしかに言われるとおりであったが、薄給の身では、それを実行するのは難しかった。

だから、高級でおしゃれな靴を履いている人を見ると、どこかで尊敬の念を抱いてしまう。この年になって、高級な靴など買うべくもないが、靴屋でどれがいいか選ぶのは、今でも楽しい。山登りの靴は、厳冬期も履けるということで、革靴を大枚をはたいて買った。これは簡単に買い換えることもできず、靴底を張り替えて、長年大事に履き続けている。だが、年を重ねると、革靴は重いので、簡易の登山靴と、登る条件によって使い分けている。

歩くことが苦にならないのは、子供のころからの習性である。家から3キロほど離れた小学校へ通うのも、無論歩きである。時々、寝坊して遅刻する駄目な小学生であった。小学校の近くに住んでいた同級生が、始業の鐘と同時に教室に駆け込んでくるのを、うらやましく眺めていた。冬の通学は想像以上の厳しかった。吹雪の日に、耳あてがずれていて凍傷になったこともある。教室に入ると、先生から、すぐに暖めるといけない、と注意された。ストーブから離れて、手でじっと氷った耳を温めた。

遠足は楽しい行事のひとつであった。学校から5キロ以上もある神居古譚まで、花見をかねて学校全体ででかけた。珍しい景色を堪能したが、帰宅してからの疲れは大変なものであった。夜ご飯を食べるとすぐに、次の日の朝まで寝ても回復せず、昼頃まで寝た。そんな経験が、歩く習慣をいまに生かしている。ありがたいことだ。

日和下駄を履き、こうもり傘を携えて、東京中を散歩したのは永井荷風である。『日和下駄』で荷風は、「市中の散歩は子供の時から好きであった」と告白している。

「夏の炎天には私も学校の帰途井戸の水で車力や馬方と共に手拭を絞って汗を拭き、土手の上に登って大榎の木陰に休んだ。土手には其の時分から「昇ル可カラズ」の立札が付物になっていたが、構わず登れば堀を隔てて遠く町が見える」

こんな風に木登りをしながら、通学していた荷風が微笑ましく感じる。それは、私もまた子供のころ、高い木に登るのを好んでいたからだ。





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94歳の誕生日

2013年03月10日 | 日記


義母がきょう94歳の誕生日を迎えた。妻はチラシ寿司を作り、義母の家に持参して、3人で誕生日を祝った。94歳という年齢は、まわりの人からみても大変なことらしい。雪片づけをしていると、向かいのアパートの管理人さんが声をかけてきた。「凄いね。あの年まで生きるには、俺たちあと30年もかかるよ。」

義母は一人住いである。老人ホームやショートステイを勧めても、「ここが一番いい」の一点張りでその気はまったくない。近隣では、この年齢の一人住いを、或は危惧しながら、またその生命力の強さを驚きの目で見つめている。火を使えず、調理もできないので、毎日食べるだけの食事を持参する。娘の作った食事を食べるのが唯一の楽しみらしい。

今年になってから月に一回、2泊3日のショートステイに、なかば強制的に行かせている。先月で2回目だが、温泉やウォーターベッドが気持ちいいと言いながら、口癖のように、家が一番いいと言う。先日、妻に血相を変えて、怒声を上げた。「私をムリムリ温泉に行かせて、置いてあったお金を持っていっただろう」妻は狼狽して、涙声で電話をかけてきた。「どうすればいい?」無論、名案などない。「泥棒のようなことしていないよ」と説得する以外ないな、と答えた。

一晩中ショックで、腹のおさまらない妻であったが、義母は翌日にはけろっとしてもう金のことなどすっかり忘れている。94歳になった老人とはそんなものであろう。今日の誕生日でも、口からでるのは、寿司が美味しいことと感謝の言葉だけ。日本中で介護に携わっている人の気持ちがわかる気がする。妻とこの老母の関係は、若いころからいいものではなかったが、老い先短い母への娘の思いやりが痛いほど伝わってくる。
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春山

2013年03月09日 | 登山


昨夜の強風が残ったが、気温があがり、青空も見えてきた。計画していた最上町の大森山の登山に行って来た。家にいては見れない雪景色をカメラに収めた。尾根筋には強風が吹き、巨大な雪庇を作る。木々を揺する風の音を聞きながら、カンジキで一歩ずつ登るごとに、驚くような風景が眼前に広がる。

白さもて魅惑す朝の雪嶺は 相馬 遷子

この句を詠んだ作者は、我々が見たような臨場感で雪嶺の白さを見たのであろうか。それは分らないが、まさにこの句にあるような、魅惑的な白い尾根の雪であった。



木に吹き付けられた雪は、この季節にしか見ることのできない見事な造形を生み出している。9時ころに登り始めたが、大森山の山頂への尾根に着くころには日がさし始めた。気温が上がっているのが分る。見渡すかぎりの雪景色ではあるが、そこには目には見えない春山の気配がある。

残念であったのは、山頂近くから東に見える一番美しい、霧氷の木立を撮ったが、取り出したカメラがいつの間にかモードが変わってしまい思ったようなものにならなかったことだ。日がさすと、どうしてもモニターが見ずらくなりモードの確認までの気がまわらない。吹きつける風が冷たく、長時間にカメラ操作ができない。

朝方の氷った雪の上で、今冬初めてアイゼンをつける。ネットで求めたワンタッチのモンベル製だ。思いのほか装着が簡単で、固い雪の上で効果を発揮する。正午過ぎに下山するが、気温の上昇とともに、ザク雪に変わった。和カンジキに履き替えて下山。苦手な急勾配の下山だが、雪の状態に助けられ気持ちよい下山となった。参加者全員、大満足の春の雪山であった。次々に気圧の谷が通過する不安定な気候のなかで、まさに幸運に恵まれた山行だった。
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