常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

干支

2015年12月22日 | 日記


冬至がきて冬至カボチャが食卓にのった。いよいよ今年も残り少なくなった。来年のカレンダーも貰ってきて、新しい年に備えている。来年は申年、動物は十二支の猿である。この十二支に十干を加えて、年を表すのが干支である。十干とは何か。これは空に五つの星からきている。すなわち木星、火星、土星、金星、水星の五つである。これが陰陽五行説にと結びついて、陽を表す兄(え)と陰を表す弟(と)がそれぞれの星についた。木兄(きのえ)、木弟(きのと)、火兄(ひのえ)、火弟(ひのと)、土兄(つちのえ)、土弟(つちのと)、金兄(かのえ)、金弟(かのと)、水兄(みずのえ)、水弟(みずのと)が十干である。これに甲乙丙丁を割り振って読みとした。因みに来年の干は、丙(ひのえ)、十二支は申で、干支は丙申ひのえさる、音読みにするとへいしんとなる。また来年は閏年でもあるから、暦には丙申閏と記されている。

音読みで干支を見ると、耳慣れた言葉が浮かんでくる。甲子園球場、これはご存知阪神タイガースのホームグランドだが、甲子(きのえね)の年にできたので、このように名付けられたのであろう。壬申の乱、戊辰戦争、それから漢詩の表題に「甲戌(こうじゅつ)の冬、舟中に月を見て感あり」というのもあった。太陽暦を採用してから、このような表現はなくなっているが、歴史上の事件などまだまだこの表現は生きている。還暦とは61歳意味しているが、干支の順番で1番が甲子、組み合わせ最後の60番が癸亥(みづのとい)で、次は1番に戻るため、還暦となる。

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イノシシ

2015年12月21日 | 日記


イノシシの生息地域の南限は、宮城県南部とされてきたが、近年北上が進み、泉ヶ岳の裾野でも見られている。山形市でも、低山を歩いていると泥浴びした跡が所々にあってイノシシが生息しているらしい。盃山のふもとに住んで家庭菜園をしている知人がいるが、イノシシに野菜畑を荒らされた、と話していた。イノシシが暴れたというニュースを時々見るが、捕獲したイノシシは食用にして売り出したらいいと思う。ただ、野生の獣、熊なども同じだが、冬眠前に脂肪をため込んだ肉がおいしい。いわば季節限定の食品である。

イノシシは亥の字が充てられていてシシは肉を意味する。縄文時代からイノシシは食用になっていたようだ。橿原遺跡は橿原神宮外苑の造成工事に際に見つかったが、その発掘調査でイノシシの骨が出てきた。しかも、イノシシの骨は他の獣骨より多く、クジラ、ウサギ、シカ、クマなどの骨、貝殻など一緒に見つかったから、この時代から人々は多くのイノシシを食べていたことが確認された。イノシシを捕獲するとき、ウリ坊と呼ばれる子イノシシも手に入れたが、こちらは飼育されて、家畜化したものが豚になっていったと考えられている。

ウリ坊はかわいいので、今日でも飼育する人がいるが、ほかの遺跡調査で人間の幼児を埋葬するのと同じようにウリ坊埋葬する例が見つかり、母乳を子どもと同じくウリ坊にも与えていたと推測する学者もいる。狩猟民族であった縄文人の動物とのかかわりは興味深い。狼に育てられた人がいたことも知られているが、家畜と人は家族のような関係であったのであろう。
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冬の月

2015年12月20日 | 日記


きのうの寒気で蔵王山系の山々が白くなった。丘の芝生は枯れて葉の落ちた木の枝先に冬の月が出た。きのうはもっと三日月だったが、きょうはすでに半輪の月になった。畑においたキャベツとブロッコリーが、まだ成長している。

冬月の利鎌がささる森ひくし 藤原たかを

「さるほどに平家は、福原の舊里にして、一夜をぞ明かされける。をりふし秋の月は下の弓張なり。深更空夜しづかにして旅寝の床の草枕、露も涙も争ひて、たゞ物のみぞ悲しき。いつ帰るべしとも覚えねば、故入道相国の造りおき給へる福原の所々見給ふに、春は花見の岡の御所、秋は月見の浜の御所・・・」平家物語の福原落ちのくだりである。

京都を捨てて福原へと落ちていく平家一門が見たものは、下弦の三日月であった。かって栄華を誇った福原で、当時の御所を見ながら、一門の人々にはどのような思いが浮かんだのであろうか。夜空の月の光だけが、主のいない御所を照らし出していた。
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古稀

2015年12月19日 | 日記


杜甫は求めていた官職になかなか就くことができず、やっとのことで47歳のとき長安の都で左拾遺の官についたが、この役所で他の役人たちとウマが合わず、役所の帰りに酒で憂さを晴らすことが多かった。来ていた衣服を質に入れ、飲み屋で酔いつぶれるほどに飲んだらしい。

酒債尋常行く処に有り
人生七十古来稀なり

酒のつけは至るところにある。人生七十古来稀なりの句から、七十歳を古稀というようになった。杜甫の時代は、そうだったのだろうが、今日では七十歳は稀でなどなくなっている。若い人の姿を見るより、七十歳を超えた老人の方が多いようにさえ感じる。

そのため、七十七歳を喜寿、八十八を米寿、九十歳を卒寿、さらには九十九歳を白寿と呼ぶことが多いらしい。百から一をとると白になるという文字遊びである。七十五歳からを後期高齢者と呼ぶのは、こんなしゃれた文字遊びの感覚を持たないお役人の作りそうな言葉ではある。
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歌人伊勢

2015年12月18日 | 


雪が降らないことが話題になっている。『枕草子』に宮中の雪の朝、「香爐峰の雪いかならん」と問われて、廊下の簾を上げた話は有名だが、我が家から見える滝山は、裾野に少しだけ雪が見える。予報では昨夜から明け方にかけて、平地にも雪とあったが、高い山が雪化粧をした程度の雪であった。『大和物語』は、十世紀後半に成立した「あわれ」の情がにじむ歌物語である。

王朝人の間に伝わる歌にまつわる逸話を集め、『源氏物語』や『枕草子』にも影響を与えた。物語の冒頭は、伊勢の歌で始まっている。宇多天皇が退位して、女御温子とその女房であった伊勢も住んでいた弘徽殿を去らねばならなかった。

別るれどあひもおしまぬも百敷を見ざらむことのなにかかなしき 伊勢

帝は女御の部屋にいた伊勢をも寵愛して、その間には夭逝した皇子までが生まれていた。住んでいた屋敷を見なくなることの寂しさを詠んだものだが、その裏には帝への思いが込められている。伊勢はこの歌を弘徽殿の壁に貼り付けたのである。

身ひとつにあらぬばかりをおしなべて行きめぐりてもなどか見ざらん

伊勢の歌を見た宇多天皇が、返しに詠んだ歌である。去っていくのは、私ばかりではないのだね。だが、去ったとてどうしてめぐり逢わないことがあろうものか、と再会の可能性を詠んだ。事実、宇多上皇は出家して仁和寺に住み、時おり温子のもとに通い、琴を聞き、侍女を集めて御下賜の品を与えて旧交をあたためていた。

百人一首に伊勢の歌がある。

難波がたみじかきあしのふしのまもあはでこの世を過ぐしてよとや

切ない女心の吐露である。こんなにあなたを思っているのに、葦の節の間のような短い間も会えないと仰るのでしょうか。恋多き伊勢であったが、この歌の相手が宇多天皇であれば興味が倍加すると白洲正子は『私の百人一首』のなかで述べている。伊勢は三十六歌仙の一人で、紀貫之と並び称さされる大家であった。

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