今日は早いもので、震災から2ヶ月目。
街頭募金こそあまり目にしなくなったけれど
今でも、どこへ行っても目にするのは募金箱。
もっと何かしたいけれど出来ずにいるもどかしさと
気持ちの折り合いをつけるようにして
あっちこっちで、小銭を入れてはきたけれど。
でも寄付するたび、心のどこかで、
ちゃんと必要な方々のために使われるのかしら、
いっそあちこちでばらまくより
日赤などに直接送金した方がいいのでは、と
迷いや葛藤がどこかにあったのも、また事実。
そんな時にたまたま、このような言葉に出会って。

「寄付したお金の、先のことを考えるのは
それにいつまでも執着している証拠。
寄付した時の、その思いこそが大切なのだから
その先を思い煩うことなく、思いを送ればいい。
もし不正な使い方をされたとしても、
不正をした人が、その業を負うだけのこと。」
勿論、お金の使われ方を見届けることは大切だけど
それに心煩わせすぎて、二の足を踏むくらいなら
こういう考え方をした方が、楽でいられる。
祈りや願い、励ましの気持を送る行為だと思えば
小銭をあちこちで、一貫性なく寄付することにも
それなりの意味があるように思えて。
これからは迷うことなく、思いを送っていこう。
街頭募金こそあまり目にしなくなったけれど
今でも、どこへ行っても目にするのは募金箱。
もっと何かしたいけれど出来ずにいるもどかしさと
気持ちの折り合いをつけるようにして
あっちこっちで、小銭を入れてはきたけれど。
でも寄付するたび、心のどこかで、
ちゃんと必要な方々のために使われるのかしら、
いっそあちこちでばらまくより
日赤などに直接送金した方がいいのでは、と
迷いや葛藤がどこかにあったのも、また事実。
そんな時にたまたま、このような言葉に出会って。

(今夜はブリテンのレクイエムを聴きながら)
「寄付したお金の、先のことを考えるのは
それにいつまでも執着している証拠。
寄付した時の、その思いこそが大切なのだから
その先を思い煩うことなく、思いを送ればいい。
もし不正な使い方をされたとしても、
不正をした人が、その業を負うだけのこと。」
勿論、お金の使われ方を見届けることは大切だけど
それに心煩わせすぎて、二の足を踏むくらいなら
こういう考え方をした方が、楽でいられる。
祈りや願い、励ましの気持を送る行為だと思えば
小銭をあちこちで、一貫性なく寄付することにも
それなりの意味があるように思えて。
これからは迷うことなく、思いを送っていこう。