マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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上のハッコウサン

2018年01月25日 10時32分39秒 | 明日香村へ
明日香村の大字上(かむら)に「ハッコウサン」と呼ぶ行事があると知ったのは、上(かむら)に家さなぶり習俗を探しにきたときだ。

祭事の場は長安寺の一堂とされる薬師堂である。

本来は3月11日の行事日であったが、現在は村の人たちが集まりやすい第二日曜に移された。

薬師堂に祭っている小像が「八講さん」。

つまりは藤原鎌足公である。

年に一度の開帳に飛鳥坐神社の飛鳥宮司が出仕されて神事をされる。

伝承によれば、藤原鎌足公の子、藤原定恵は多武峰の山上、山腹、山下に建てたという「八講堂」の一寺として薬師如来像と鎌足公の木像を奉ったそうだ。

3月12日が鎌足公の縁日。

昭和62年3月に発刊された飛鳥民俗調査会編集の『飛鳥の民俗 調査研究報告第一輯(集)』がある。

Ⅵ章「飛鳥と多武峰」によれば、談山神社の郷中になる多武峰北麓の桜井市側。

大字横柿、今井谷、生田、浅古、下、倉橋、下居組(下居・針道・鹿路)、音羽組(多武峰・八井内・飯塚盛)の廻り。

つまり8年に一度が先に挙げた大字の順に毎年交替する八講祭を営んでいる。

かつては大字それぞれにあった小堂の八講堂で行われてきたが、近年になって、すべての大字が祭事の場を談山神社の神廟拝所で行うようにされた。

しかも縁日であった12日ではなく近い日曜日に移して行っている。

一方、明日香村にも八講祭がある。

その在り方を調査された柏木喜一氏が足を運んだ結果、次の大字で行われていたことがわかった。

明日香村の八講祭は「八講さん」或いは「明神講」の名であった。

桜井市側と同じようだが、また異なる在り方。

大字上(かむら)の八講祭は鎌足木造立像を祭る。

桧前の八講祭は村4戸の藤原鎌足講営みに当番家で鎌足親子三像掛図を掲げる。

大根田は観音寺で区長預かりの鎌足親子三像掛図を掲げて立御膳を供える。

入谷は大正期に中断したものの、「ハッコウサン」の営みがあったそうだ。

また、明神講行事として営みをしている地域は細川、尾曽、小原、東山、八釣、阪田がある。

細川は14戸の西垣内と東垣内が毎年1月実施の輪番当番が鎌足尊像掛図を掲げる。

尾曽は8戸。

1月庚申の日に区長家で鎌足公掛図掲げて初集会をする。

小原は7戸。

毎年1月末に鎌足親子三人像を床の間掲げる。

東山は10戸。

1月に当番家で鎌足親子三人像を祀る。

八釣は1月14日に当屋家で鎌足公の掛図を掲げる。

その日は午前10時に講中が寄合って三巻の般若心経を唱える。

阪田は宮座の当屋が翌年正月中に営み。

鎌足親子三人像を祭って立御膳を供える。

かつては稲渕や飛鳥にも営みがあったようだ。

また、桜井市の高家では1月中に旧中垣内の三組/四組が組共有の鎌足親子三人像と鎌足公掛図を当屋家に掲げる。

同じく桜井市大福の八講祭は1月1日と8月15日に大織冠尊像掲げる。

多武峰以外の周辺地域にこれほど多くの「ハッコウサン」営みがあったとは驚くべきことである。

『飛鳥の民俗』による「八講祭」の起源である。

「はじめは山階寺の維摩経が天台宗系になって、法華八講を多武峰中興の祖増賀上人がはじめたとの説があるが、私(柏木喜一)は民間行事として大織冠を(大和)郡山へ遷座したため郷中が一層結束を固くしたための行事なのだと思う。そのことを明らかにする文書がある。八釣の区有文書である二通の『談山権現講式』。天正十三年(1585)酉卯月五日文書と元和七年(1621)二月上旬文書である。この二通は昭和18年12月15日に当時の八釣妙法寺住職が写した文書。末尾に“右は天正十三年談山寺院台の命により郡山に移転せし際、寺領二三村民悲哀の極、相談して八講堂を組織し、毎年各村に尊影を巡奉して祀った」とあった。 

ここでいう山階寺については興福寺のHPにこう記されている。

「南都七大寺の一つとして隆盛した興福寺は中臣鎌足(のちの藤原鎌足)夫人の鏡大王によって建てられた山背国山階陶原を起源とし、その後は藤原氏の氏寺として星霜を重ねてきた・・中略・・興福寺の起源とされており・・」とある。

さて、『飛鳥の民俗 Ⅵ章 飛鳥と多武峰』にある明日香村・上(かむら)の「ハッコウサン」である。

「3月12日に薬師堂にまつる鎌足の木像の入ったヤカタの開帳をする。予め、月当番が御膳を用意して供えておく。午後、区長中心に村中が寄ったところに神主が来てミユ(御湯)でお祓い、祭典となる。お供えは立御膳といって大根、人参、ほうれん草などを立てて飾る。別に一対の大鯣(するめ)を広げて立てて供える。元は弁当持ちで参り、夕方まで遊んだというが、今は簡単にお下がりのお神酒とするめで直会して解散」しているらしい。

区長こと総代にも了解をとってやってきた。

奇しくもこの日は3月12日。

元々の縁日と第二日曜日が重なった嬉しい日であった。

指定された場所に車を停めて山に向かう。

薬師堂はそれほど遠くない地にある。

当番役は焚き木に火を起こして湯立てていた。

湯釜は古くもないが、年号などの刻印は見られない羽釜である。

御湯作法に必要な熊笹にお神酒、洗い米も用意していた。

薬師堂本堂は扉を全開。



本尊の木像薬師如来坐像もご開帳。

明日香村史料によれば本尊薬師さんは平安時代中期の造立になるそうだ。

本尊左側にある四体は四天王像。

本尊薬師さんと同じ時代の造立。

両像とも明日香村の有形文化財に指定されているが、右の脇像はわかっていないというが、十一面観音菩薩立像である。

大字上(かむら)にあった寺は長安寺に教雲寺、薬師堂の三カ寺。

江戸時代中期のころである。

本尊左下にあるヤカタに鎌足公神像を納めている。

さらにその下にあるのが御供。

大根、白菜、ほうれん草、キャベツ、サツマイモ、レンコンにシイタケ。するめに果物のリンゴもあるが、立て御膳様式ではなかった。

しばらくすれば飛鳥宮司が来られた。

神事は御湯である。

御湯作法は先に拝見したことがある。

平成28年6月19日に行われた気都和既(けつわき)神社の村さなぶりである。

大字上(かむら)の戸数は11戸。

上垣内が4軒であるから下垣内は7軒になる。



役員、当番が御湯作法に周りを囲む。

熊笹と青竹の御幣を手にして作法をされる宮司の着衣が汚れないように裾を掴んで対応していた。



その姿は土砂降りに行われた村さなぶりのときと同じであった。

御湯を終えれば宮司をはじめとして一同は薬師堂に登る。

開帳していた鎌足公を奉るヤカタに御簾を下ろされた。

宮司曰く、鎌足公は神さん。

見てはならぬ、撮ってはならぬということであったが、先に拝見していたときの薬師堂ではご開帳姿。

胡坐姿であるが、左足を下ろしていたお姿であった。

多武峰郷中の八講祭における掛図は藤原鎌足父子肖像。

父子ともどものご神像であるが、御簾もないので、その状態で拝することができる。

昭和32年発刊に発刊された『桜井町史続 民俗編』によれば、かつて大字多武峰は神式であった。

下居は神仏習合、その他の村はすべて仏式であった。

いつのころか寺は廃れて神式に移っていく過程がある。

明日香村においても寺は廃れて神式に移る。

こうして神主が寺行事に祝詞を奏上されるようになったのはいつごろなのだろうか。



本尊、鎌足公の宝前にローロクを灯して祝詞奏上。

神妙に拝聴する村人たち。

こうして一年に一度の八講祭を終えた。

(H29. 3.12 EOS40D撮影)

里道に華梅

2018年01月24日 08時45分26秒 | 明日香村へ
なにげない毎日を穏やかに迎える、なんて今日は気持ちの良い日なんだろうか。

そう思える明日香村の上(かむら)。

窓を開けると爽やかな風が通り抜ける。

この場は薬師堂に登っていく村の里道(りどう)。

平成21年12月に開通したアスファルト新道が里道を跨っていた。

(H29. 3.12 EOS40D撮影)

明日香・共同墓地の小正月風習は皆無

2017年10月27日 09時33分36秒 | 明日香村へ
午後は明日香村を離れて北上する。

少しの時間も調査に費やす。

飛鳥民俗調査会が調査・編集し、昭和62年3月に財団法人飛鳥保存財団が発行した『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(集)-』もあるが、その一部を掲載した昭和56年から62年にかけて発刊された『明日香風』が手元にある。

昭和60年1月に発刊された『明日香風―13号―』に小正月のビワの葉乗せ小豆粥のことを書いてあった。

1月15日は小正月。

川原でもトンドの火で煮ていた小豆で粥を炊いた。

神仏から家の戸口に墓にも供える、とある。

また、昭和62年1月に発刊された『明日香風―21号―』の「明日香の民俗点描」に載せた“季節の神饌”テーマ。

それが墓地に供えた小豆粥であった。

カラー写真で紹介する解説文は「1月14日の夕方(一部の地域では1月15日の朝)のトンドの火を提灯等で持ち帰り、小豆粥を炊く。

この小豆粥を15日の早朝から、家の隅々、家敷周り、田畑、ムラの神仏などに供える。

この際に、ビワの葉に盛って供えるところが多い。

稲渕では古くはユズリハの葉を用いた家もある。・・・中略・・・明日香村における小正月の小豆粥は、小正月の来訪霊のための供物・・・神饌と解釈できる」とあった。

執筆は大阪城南女子短期大学講師(当時)の野掘正雄氏。

『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(集)-』を調査・報告した飛鳥民俗調査会の一人であった。

掲載されていた写真は墓石の前にいっぱい並べていたビワの葉に盛った小豆粥。

その数、なんと45枚もある。

壮観な情景に驚くばかりであるが、現状はどうであろうか探してみる。

掲載写真に「稲渕・阪田・祝戸の共同墓地の小豆粥」とあるから、ここに違いないと断定した。

探し当てた墓地は数段に分かれている。

そう思ったのは六地蔵が二つあることだ。



下段というか入口付近にあった六地蔵は3体、3体の分かれ石仏。

もう一段高い所にあった六地蔵は造りも石も新しいように思えた。



大字の違いであるのかわからないが、この六地蔵を含めて各戸の墓石にはまったくと云っていいほど皆無だった。

昭和60年初めにはどこともしていた小正月の風習は30年も経てば皆無になっていた。

(H29. 1.15 EOS40D撮影)

上・上垣内の小正月の小豆粥御供巡拝

2017年10月26日 09時23分16秒 | 明日香村へ
飛鳥民俗調査会が調査・編集し、昭和62年3月に財団法人飛鳥保存財団が発行した『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(集)-』に一文がある。

「Ⅴ 年中行事」の「明日香村の年中行事」である。

一年中、何がしかの年中行事がある明日香村。

習俗は県内の他地域とそれほど変わらない。

一部については地域固有の習俗もあるが、ここではトンドの火から派生する小正月の小豆粥御供についてあるお家の在り方を伝える。

文中の解説に「明日香村では、ほとんどの大字が1月14日のトンド(高齢者はドンドと言い慣わす)を行う。上(かむら)の上垣内は15日の朝に行う。前日までに子供たちが正月の飾りやワラをムラ中から集め回る。・・・中略・・・上居(じょうご)・上(かむら)・岡などもアキの方から火を点けるという。上(かむら)の火点け役はF家が担っている・・・」とある。

これから取材させていただくお家はF家。

ただ、『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(集)-』の一文に書かれたF家ではない可能性もある。

上(かむら)には数軒のF家がある。

上垣内に住む本家、分家のF家は存じているが、当人たちの記憶は尋ねていない。

F家を存じたのは前年の平成28年6月12日

家さなぶりをされているお家を探していた。

伺ったFさんの話しを聞くうちに本家とわかった。

誌面で紹介されていたものの、そのときだけだったかもしれない。

当時に調査、報告された調査員に伺うしかないが、遙か30年前の状況に息子さんは覚えがないようだ。

と、いうのもかつては大トンドであったが、今は各戸がそれぞれにされる小トンド。

昔と今ではトンドの形式も替わっていたのである。

お会いしたこの日に数々の行事・風習を教えていただいた。

その一つが本日に取材させていただく小正月の小豆粥御供である。

炊いた小豆粥を供える。

粥はビワの葉に乗せて供える。

ビワの葉は裏側を表にして、そこに盛る。

ビワの葉は50枚にもおよぶと話していたから、屋内どころか屋外の50カ所である。

家にある神棚に戸口。

かつては火を焚いていた竃にも供えた。

屋外では庚申さんや田んぼまで供えていると話していた。

それはどのようにされているのか、写真を撮らせてくださいとお願いしていた。

時間は当日のある時間になる。

本来はもっと早い時間帯であるが、取材があるこの日は時間帯を考慮してくださった。

お会いするなり確かめたい上(かむら)の行事がある。

大晦日の31日に村の人たちは各戸めいめいの時間帯に氏神さんに供える鏡餅である。

供える神社は気都和既(けつわき)神社である。

息子さんの話しによれば今年は14軒も供えていたそうだ。

昔は40軒も50軒もしていたというから壮観な状況であったろう。

気都和既神社は上(かむら)に鎮座しているが、関係する大字は上(かむら)の他に細川と尾曽の近隣三カ大字だけに多かったのである。

正月の祭り方は早めに拝見しておくことも必要だと思った。

さて、F家の小正月の小豆粥御供の在り方である。

屋敷内は花輪に2カ所、庭に3カ所。

三輪明神に庭の神さん、トイレの神さん、床の間、仏さん、などなど・・。

供える場所を一挙に云われるが、どこにどうあるのか、探してみなければ・・。

息子さんが付いて案内してくださる。

実は、屋敷内については到着するまでに済ましていたのだ。

まずは玄関。金魚鉢ではなく、花輪と云っていたシクラメンの花鉢に、である。

ふと気がついた玄関内側に貼っていた2枚の小紙片。

一つは逆さ文字の「氷柱」で、もう一枚は正立に貼った「立春大吉」だ。



僅か数cmの小紙片には、それ以外の文字がない。

呪いを書いた特徴のない護符は、いつのころにもらってきたのか、誰が貼ったのか記憶にないということである。

「立春大吉」は度々目にかかる護符。

邪気を家から追い払って「福」を招き入れるが、これまで訪れた民家の玄関内側のお札には「氷柱」の護符は見られない特徴的なもの。

2枚とも手書きではなく印字文字。

糊をつけて貼ったと思われるが、「氷柱」の護符の意味はさっぱりわからない。

風情がある中庭を先に拝見する。

何の神さんかわからないが供えているという。



それは五輪塔の名残とも思える石造物に大岩もある。



これらは庭の神さん。



祠に祀っているのは三輪明神のようだ。

離れの縁側にも供えている。



撮りやすくするためにガラス窓を開放してもらった。



トイレの神さんはトイレがある廊下の窓の桟に乗せていた。



屋敷内は数々あるが、部屋内を物色するわけにはいかず、仏さんに手を合わさせてもらってシャッターを押す。

今年のトンドは1月8日に行った。

かつては1月15日の朝にしていたトンドであるが、今は第二日曜日に移った。

その日は垣内の初集会があるからそれも日程を替えた。

現在のトンドの日は、祝日の成人の日の前日。

つまりは第二日曜日となる。

トンドで燃やす竹の具合もあるが、燃えていくにつれて竹は破裂する。

その音は大きな音でポンを発する。

景気が良い音が鳴れば今年は豊作やな、と云っていた。

長めの竹に串挿すようにモチを取り付けてトンドの火で焼く。

上垣内のトンドでは、「ブトも蚊もいっしょくた、まとめて口や」というて投げていた。

「ブトの口、ハブ(普段はヘビと云っている蛇のことをトンドのときはハブの名称になる)の口」と云いながら、小さく千切ったモチをトンドの火に投げ入れた。

噛まれたら、刺されたら、そこが腫れる。

毒虫というて、ヘビとか、ブトとかの代わりにちょっとずつ千切ってはモチをトンドに投げて供養する。

トンドの話題はまだまだある。

トンドに燃えカスがある。

カスと云えば失礼な表現であるが、竹など燃えた材は炭になる。

昔のことだが、という但し書き。

燃えた炭は持って帰って竃の火にした。

その火で炊いていた正月の餅。

炭火は薪直接には移らない。

畑で育てた黒豆を収穫した際に残しておいたマメギ(豆木)である。

マメギは火点けの常とう手段。

どこでもそうしていたが、昔は白豆だったというから面白いものだ。

毎年の餅搗きは4臼も搗いていた。

今では3臼になったというから、まま多い。

正月の餅搗きは12月29日。

現在は30日にしているという。

餅の名に「マルクタのモチ」というのがある。

これは小餅のことで、搗いて柔らかいうちに指で押してできるエクボの窪みを作る。

これを「マルクタのモチ」と呼んでいる。

雑煮は砂糖を入れた白味噌仕立て。

ニンジン、ダイコン、コイモに豆腐を入れた雑煮である。

トンドの話題は尽きないが、これより始まるのは屋外の神さんなどに供える小正月の小豆粥である。



坂道を下って参る地蔵さんもあるので息子さんも共にする小豆粥御供。

お供えする場はとても多い。

農小屋にあるトラクターをはじめに作業小屋、山の神さん、神社の庚申さん、金毘羅さんに地蔵さん。

地蔵さんは足痛地蔵もあれば子安地蔵もある。

杖をついて出かけるのは昭和5年生まれの母親。

この年には87歳になるご高齢の身。

供える小豆粥にビワの葉などを風呂敷に包んで運ぶのは昭和28年生まれの息子さん。

昨年来からの行事取材にたいへんお世話になっているご両人である。

まずは自宅すぐ近くにある農小屋というか農機のガレージも兼ねた駐車場がある作業部屋である。

その前にすべき場所は畑を耕してくれるトラクターだ。



今は農閑期だから埃を被らないように白い布で覆っている。

その次は事務室にもなっていそうな作業部屋である。

どこに供えるのかと拝見していたら、ダルマストーブの上に、であった。



こうした供え方をされているとは予想もしていなかった。

次は作業部屋から出たすぐ傍にあるコンクリート片である。

何本かあるが、何であるのか聞かずじまい。



ビワの葉に箸で摘まんだ少量の小豆粥を供えた。



ここまで見てきたが、いずれも手を合わせることはなかった。

そこからは急な坂道を下っていく。

今では集落の前を走り去る車路がある。

その道路は談山神社へ通じる自動車道。

10数年前に開通したそうだ。

下る道はそこではなく元々ある村の道。

つまりは里道である。

急な坂道だけにお年寄りには辛い道であるが、軽トラ一台ぐらいは通れる道に沿って流れる川がある。

その向かい側の茂古(もうこ)ノ森に鎮座する神社は気都和(けつわき)既神社。

江戸時代までは牛頭天王社の名であった延喜式神名帳の大和国高市郡に登場する神社である。

上(かむら)に細川、尾曽の近隣三カ大字の神さんを合祀した神社にも小豆粥を供える。



神社の前に供える場は庚申さん。

どなたかわからないが、先に供えたビワの葉に盛った小豆粥があった。

枚数を数えてみれば5枚。

いずれも積もった雪に埋もれていた。

何時ころに降ったのか知らないが、民俗取材に訪れた時間帯は10時前。

F家が屋外に供えていた時間帯は午前11時過ぎ。

白い雲に拡がる青空であった。



先行する村人の供えた傍に供えるご主人も一枚。

神社に登って本社殿にも供えて降りてくる。



次は金毘羅大権現の刻印がみられる場にも供える。

ここにも先客が供えていた。

神社の次は里道向こう側に立つ路傍の石仏地蔵



ここにも先客が供えていた。

その次は西田地蔵。

厚めの石板のように思えるが、刻印文字が読み取れない。

そこよりすぐ傍にも石仏地蔵がある。

ご主人が供えている姿をずっと横で見ていた母親。

お供えを済ましたら、入れ替わるように降りてきて手を合していた。



たしか名前は足痛地蔵だったように思える地蔵さんは屋根付き。

隣に灯籠もあるぐらいの珍しい形態のように思えた。

その向こうにも石仏地蔵がある。



そこに供えている間も、足痛地蔵にずっと拝んでいた母親の姿が愛おしい。



こうして並んだ3体に供えたら母親は坂道を登って歩く。

ご主人はさらに下って子安地蔵にも供えるが、母親は先に自宅に戻ったようだ。

子安地蔵は高さが相当ある。



立派な祠の内部に安置されている地蔵さんは涎掛けもあるが、昔のままのようだ。

子どもの誕生がなかったのか、それとも信仰が薄くなったのか、そのことについては聞いていないのでわからない。



子安地蔵さんも先客が供えた小豆粥が3枚。

どれもビワの葉に盛っている。

そこへ一枚の小豆粥を供えたご主人も自宅に一旦戻る。

これまで拝見してきた小豆粥。

Fさんも云われていたが、昔は粥だったが、最近はご飯になったとか。

こうして並んでいるお供えをじっくり見れば、小豆ご飯であった。

この小豆ご飯をアズキメシと呼んでいた。



自宅に戻られたご主人は玄関前にも供えた。

次に向かう先は新墓。



自宅から歩いて近距離の場に新しく作られた。

旧墓は山の上。

そこへ行くには母親の足では無理がある。

他村でも聞く旧墓から新墓への移設対応である。

県内各地の民俗事例を取材していれば見えてくる私設墓地。

自宅近くに建てる場合が多いように思える。

朝一番はここにも雪が積もっていたという。



供えた場所は何カ所になっていたのだろうか。

正確な数字はわからないが、摘み取るビワの葉が50枚にもなるというから、相当な枚数というか、相当なお供えの数である。

すべてを供えきるまでの時間も相当要した。

お供えをしながらも上(かむら)でしていることもお話しくださった農作業など。

当地もハザカケをしていた。

3本の木材を組んで収穫した稲を干すハザ。

その作業を「ダシカケ」と呼んでいた。

「ダシ」とは何であろうか。

水平に架ける竿そのものの名であろうか。

用例としては「これからダシカケをする」という、作業初めの声かけである。

また、ダシカケをする3本組み足に水平竿をひっくるめて「カコ」と呼んでいた。

朝に干して、イネコキをする。

上(かむら)の上垣内は5軒の田んぼがある。

苗代をしているのは4軒というから、今年の苗代時期には寄ってみたいと思ったが、実際はJAから苗を買っているそうだ。

昔の苗代作りは直播き。

育った苗の苗取りをしていたという昭和5年生まれの母親。

田植え仕舞い(ウエジマイ)に家さなぶりをしているようだ。

また、3月に行われる「ハッコウサン」はかつて11日にしていたが、現在は12日。

祭事時間は午後になると伝えてくれた。

(H29. 1.15 EOS40D撮影)

八釣の小正月の小豆粥御供

2017年10月24日 09時07分59秒 | 明日香村へ
飛鳥民俗調査会が調査・編集し、昭和62年3月に財団法人飛鳥保存財団が発行した『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(※集)-』がある。

その中に大字八釣の小正月の習俗を記録していた。

トンド焼きの翌日に、燃え尽きた灰を「豊年、豊年」と云いながら、畑に撒いたという事例もあれば、その日の朝は摘み取ったビワの葉に小豆粥をのせて村中の何カ所かに供えるという記事である。

小豆粥はハツヤマに採ってきた穂付きカヤの軸を箸代わりにして食べたという記事もあるが・・・。

気になるのはビワの葉乗せの小豆粥である。

この日は明日香村の上(かむら)にある家が屋内どころか屋外の何カ所かに亘って同じようにビワの葉に小豆粥を盛って">お参りに行くと云っていた。

取材を約束させてもらった上(かむら)に向かう道すがらに立ち寄った大字八釣。

可能性は否定できないと思って途中下車をする。

『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(集)-』には地図が掲載されている。

その地図は概略図であるがお供えする箇所を明示している。

氏神、田んぼ、庚申、観音、寺、寺の石仏、稲荷、倉庫の8カ所である。

それらはどこであるのかも調査の対象として村内に入った。

この日の朝は冷える。

幹線道路は難なく通行できたが、村内は薄っすらと積もった雪に村の道はカチコチ。

凍り状態に近いからノーマルタイヤでは滑ってしまう。

もちろん運動靴であっても滑る可能性がある。

ゆっくり、かつ慎重に歩いて小豆粥を供えている場を探ってみる。

そろりそろりと歩いたところに情緒が見られる土塀がある。

空は雪、ではなく、青空が広がる。

爽やかな空気は凛としていた。

土塀の向こうに見える建屋は大和棟造りの民家。

土塀も入れた佇まいが美しい。



はじめに見つけたのは村の里道沿いにある石仏である。

見ての通り、右は庚申石。

左は錫杖をもつ地蔵立像である。



その前に並べたビワの葉のせの小豆粥は七つある。

小豆色に染まった小豆粥もあれば、白い小豆粥もある。

小さく千切ったモチ(キリコモチ)を添えている小豆粥もある。

7人の村人が供えたのか、それとも・・。

アイスバーン状になっている緩やかな坂道の向こうに森が見える。

そこはたぶんに神社であろう。

滑りやすい坂道はしっかりと足を踏みしめるように歩く。

神社は弘計皇子(おけおおおじ若しくはをけのみこ)神社だった。

平成28年5月3日に訪れた八釣。

ナエノマツにイロバナを苗代に立てると話してくださった総代の奥さん。

毎日のオヒカリを灯していると話していた神社である。

境内から村の女性が出てこられた。

お話を伺えば、神社に参拝して小豆粥を供えてきたばかりだという。

村で今もなおビワの葉に小豆粥を盛って供えている家は4軒ぐらいだそうだ。

お家によって供え方が違うという。

炊いたご飯の家もあれば、餅を供える家もある。

小豆粥を供えるのが基本であるが、そうしている家もあるということだ。

弘計皇子神社に供えていたお供えはどこにあるのだろうか。

辺りを見渡したら、あった。



拝殿中央扉の左右の格子棚に供えていた。

右に4個の左に3個。

合わせて7個ということは、先ほど拝見した庚申さんに供えた数と同じである。

神社より登る道はあるが、ここより行けば桜井市の高家との境界地。

畑地にはたぶんに供えることはないだろうと判断して戻った下り道。

庚申さんよりそれほど離れていない辻の角に祠がある。

そこが地蔵さんのようだ。

お堂と云ってもいいぐらいの立派な造りの祠に安置されている地蔵さんは庚申さんの横にある地蔵さんよりも背丈が高いようだ。



溶けない雪の粒が点々。

祠の祭壇まで風に煽られて溜まっていた雪に同席するかのように馴染んでいた小豆粥は5個だった。

その地蔵尊に架かる橋の向こうにビワの大木がある。



新葉が生えているところに白い花が見える。

このビワの木の葉を摘んでお供えの皿に利用しているのか、存知しないが、付近を見ても他にはそれらしきものが見当たらなかった。

その辻だったか覚えてないが、近くに浄土宗寺院の妙法寺がある。



村中央道より一段と高いところに建つ本堂の扉は開いていないが、回廊に供えていた。

そこからもう少し奥に入る。

段丘の向こう側に小社が見られる。

狐さんがあるから稲荷社である。

建つ地はこれもまた一段と高い位置にある。



雪が積もった登り道は不安定と思われたのか、お供えの数は少なかった。

他にもあるらしいが、ここまでだ。

『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(集)-』が伝える小豆粥地図には特記事項がある。

弁天さんは個人の家内。

どこの家が該当するのか、探すには一軒、一軒の呼び鈴をおして尋ねなければわからない。

村中巡ってから家に戻れば、家のトイレや井戸、竃、神棚の神さん、仏壇に小豆粥を供えるとあった。

(H29. 1.15 EOS40D撮影)

豊浦甘樫垣内太神宮の提灯吊り棒

2017年04月28日 08時56分29秒 | 明日香村へ
飛鳥の弥勒さん行事が終わって帰路につく。

帰路の道は村の道を走る。

大道ではなく里道に近い道には村の史跡が見え隠れする。



視野に入ったのは太神宮の石塔である。

その場は飛鳥川袂に聖徳皇太子御誕生所橘寺へ向かう指標柱がある向かい側だ。

橋は甘樫橋。そのすぐ傍にあった太神宮の石塔。

記銘年代は彫りが薄くて読めなかった。

その太神宮の石塔の真ん前を水平に保った一本の竹の棒がある。



何カ所になるか数えればわかるが、そこに点々とある結び目である。

不思議な光景に謎を感じて隣近所を歩く。

たまたま屋外におられた高齢の婦人に聞けば、それは7月16日の午後6時半に行っていたダイジングさんを祭る各家が持ち寄る甘樫垣内の提灯吊りの仕掛けであった。

垣内は10軒。

設営などは廻り当番のヤドがする。

お参りしたら子供に御供の菓子を配るらしい。

(H28. 9. 5 EOS40D撮影)

飛鳥の弥勒さんの祭り

2017年04月26日 09時24分52秒 | 明日香村へ
飛鳥のミロクさんを知ったのは昭和61年7月に発刊された『季刊明日香風19号』に掲載されていた「明日香村の民俗点描-飛鳥のミロクさん-」記事だった。

明日香村のどこにあるのか下見した平成28年6月19日

場所はわかったが、何時、行事をされるのかわからなかった。

後日というか翌月の7月23日にも訪れた立地の場。

村人に聞いた立地大字は岡だった。

場所は岡であるが、行事をしているのは大字飛鳥と聞いてようやく目にすることができる。

受付をしている男性に申し出た行事取材。

承諾してくださって村総代のSさんにお会いできた。

ありがたいことである。

飛鳥のミロクさんは「弥勒石」。

真神原(まがみはら)の西を流れる飛鳥川の右岸に位置する石柱状の巨石である。

この「弥勒石」は飛鳥川を川渡りする飛び石にあったという。

小さい子供のころはここで川遊びをしていた。

ごっつい石があった。それが「弥勒石」。

石仏は飛び石利用していた渡り橋だった。

それを邪魔になると云ってどかした。

そのときからもう既に立っていた。

小屋は朽ちていたので建替えた。

地番は大字岡である。

ここは小字木葉。



井出の名で呼ぶ井堰がある。

灌漑用水に水を引く井堰である。

小屋を建てたのは8年前。

カミナリが鳴っても隠れて避難。

そういう状態でも参られるように整備したという

木葉井出より北方に2km少し行った処に橿原市の木之本町がある。

そこは大字岡から見れば小字木葉の幹の部分。

飛鳥川を下った下流が木之本町。

つまり木の本になると云う。

そういう話は大和郡山市と天理市にある。

天理市の櫟本町は大きな櫟の木の本。

枝になる地は大和郡山市の櫟枝町。

すぐ西隣にある村は横田町。

つまり櫟の木が西に倒れて枝は櫟枝町で櫟の大木が横たわったかた横田町になったということである。

物理的にはあり得ない伝承であるが、よく似た事例が明日香村の大字岡の小字木葉と橿原市の木之本町に繋がる話しが面白い。

総代が話すもう一つの話題は小屋の内部にある埋もれた石にある。

「弥勒石」の腰を触れば腰から下の病気が治ると信ぜられた。

弥勒堂の三方を戸板で隠している。

その三方とも刳りぬきの穴がある。

穴の形はまるで瓢箪のようにも見える。

そこから手を突っ込んで「弥勒石」を触る。

そうすると腰より下の病いが治るというわけだ。

ご利益を求める参拝者は小屋の椅子に腰かけて足を置く。



その置く位置にあるのが「くつぬぎ石」と呼ぶ埋め石である。

何故にそこで靴を脱ぐかといえば、「くつぬぎ石」に足を置くことで足を清めてもらうのだというのだ。

そんなありがたい「弥勒石」を覆う弥勒堂には多数の藁草履を吊るしている。

6月19日に訪れたときは大きな藁草履もあった。

県内事例ではあまり見かけることのない大草履であったが、この日にはそれがなかった。



実はこの日の午前中にお焚きあげ法要によって古くから奉ってあった藁草履を焚き上げたのだ。

草履はすべて外すのではなく大字役員が振り分ける。

その件については総代名で文書が発行されている。

但し書きに「古い草履とか新しい草履とかの判断は当大字の役員が行います。まだ残したかった方があればご容赦お願いいたします」とある。

文書期日は8月10日。

猶予期間は一か月以上もあるからお許しいただきたいと書いていた。

この日は古い藁草履のお焚き上げと午後に行われる大字飛鳥の弥勒さんの法要である。

いずれもすぐ近くに建つ飛鳥寺の住職が小字木葉の弥勒さんに来られる。

お供えの受付は当日設営されたテント張りの受付場で行われる。

参拝者は大字飛鳥の人たちだけでなく橿原市の飛騨町の人たちも。

昔から来られている飛騨町の人は信仰心から始まったようだ。

医者も手放すぐらいの病理だった。

それが弥勒さんに参ることで治った。

それを聞きつけた人たちが弥勒さんのご利益を求めてくるようになった。

口コミで広がった信仰心の繋がりのようだ。

また、弥勒さんは命の恩人であると信心している総代の話しもある。



この川で泳いでいたら身体を流され。

このまま流れていったら死んでいくのかと思ったそのときだ。

首を掴まれて助けられた。

弥勒さんが助けてくれはったというありがたい話しである。



また、役員さんは住職が来られるまでに果物盛りや餅御供を並べていた。

御供は他にも高野豆腐や海苔、鰹節にカップ麺などまである。



受付された人の中には手を合わせて真剣なお顔で弥勒さんに願いを伝えていた。

そうこうするうちに住職が来られた。

お顔を拝見して挨拶をさせてもらう。



実はU住職とお会いするのは初めてではない。

以前から存知している住職は大和郡山市内の行事に来られていたのだ。

初めてお会いしたのは平成23年に行われた丹後庄町の十日盆である。

もう一つは平成24年の2月15日の涅槃会

いずれも法要してくださったお寺は丹後庄町の松本寺(しょうほんじ)である。

あれから4、5年も経っているのに私のことを覚えてくださっていた。

この場でもう一度お会いするとは予想もしていなかった住職はテレビで度々拝見するように優しく接してくださる。

弥勒さんの御前に座って唱えるご真言。



まーかーはんにゃーしんぎょーと唱えるときは拍子木を打つ。



その間に参拝者は焼香する。



こうして法要を済ませたら幕を下ろす。



その幕に隠れていた大草履が現われた。

(H28. 9. 5 EOS40D撮影)

上の先祖送り念仏

2017年03月31日 09時43分27秒 | 明日香村へ
祖母一人で先祖さんを送ると話していた息子さん。

在所は明日香村の上(かむら)。

6月12日に訪れた際に話された先祖さん迎えと送りの取材をさせていただきたくお願いをしていた。

迎えも送りも家の在り方、習俗である。

先祖迎えの法要には集落各戸を巡って法要される副住職の姿があった。

その場には息子さんもおられて迎えの法要を拝見していた。

先祖さんを迎える時間帯は朝早い。

その時間には間に合わず副住職が参られる時間帯に寄せてもらった。

この日はたった一人で送られる。

その姿を撮らせていただきたく再び訪問したF家。

息子さんは仕事の関係で出はらって祖母一人。

送りの念仏をする前に供える調理をしていた。

炊事場で炊く料理は送り膳のおかい(お粥)さん。

ついさっきにお茶を替えたばかりでんねんという。

お茶碗10杯は仏壇にあるが、大きな湯飲みの2杯は祭壇にある。

おかいさんは米から炊く粥であるがいろんな具材と一緒に炊く。

これからするので家の小屋に行くといって玄関を出る。

戻ってきたら自家栽培のサトイモを手にしていた。

サトイモは包丁で皮を剥いて細かく刻む。

いただきもののソーメンも入れて炊くお粥である。



できた粥は椀に盛って海苔をパラパラと振りかける。

黄色く見えるのは刻んだサトイモであるが、赤いのは何か聞きそびれた。

この日は朝にアサハン(朝飯)。

昼過ぎの午後1時半にヒルハン(昼飯)、午後3時がユウハン(夕飯)をしているという。

アサハンは糯米で炊いたオコワを供えた。

ヒルハンの御膳はカンピョウ、シイタケ、ゴボウ、ヒロウスの煮びたし。

御供下げしたから先祖さんの祭壇にはない。

こうして鍋に入れて炊いていたと云って見せてくれるヒルハンは美味しそうな色合いだ。

先祖さんに食べてもらったヒツハンは今晩のおかずになる。

つまりは家人が食べる料理を先祖さんに食べてもらっているというのが正しいのかも知れない。



三つの椀によそったお粥さんは祭壇に並べる。

奥にある大きなスイカ。

アライグマの被害にあわなかったスイカが並んだ。



カボチャ、ナスビ、サツマイモ、トマト、トウモロコシに黄マッカ、ブドウ、ナシ、ミカンなどの果物は大きなハスの葉に盛っている。

量が多いから複数枚のハスの葉がいる。

そこにもあった乾物のソーメンは大字奥山に住んでいる知り合いの奥さんからもらった。

自家製のソ-メン束にシールがあること思えば売り物だ。

傍には干したカンピョウもある。

これもまた手造りである。



お供えを調えた祖母は一人導師でお念仏をする。

線香とローソクに火を灯して先祖さんに手を合わせる。

始めるにあたって水鉢に浸していたミソハギとキキョウの花を手にした。



オンサンパラ、オンサンパラを唱えながら花を手元に持つ水器の水に浸けては仏壇、祭壇に振り飛ばす。

花に浸った水を手向けする「さんぱら」は水供養の作法。

お迎え法要のときは副住職がしていたが、この日は祖母一人。

「さんぱら」も一人でしていた。

左手に数珠、おりんを打って手を合わす。

お念仏は浄土宗の勤行式にそって唱えられる。

始めに香偈を唱える。



右手で木魚を打ちながら唱えるお念仏は三寶禮、四奉請、懺悔偈、十念・開経偈、四誓偈、本誓偈、聞名得益偈、十念・一枚起請文、摂益文、念佛一会、総回向文、総願偈、三唱禮、送佛偈、十念。

その間はずっと左手で数珠を繰って数えていた。

なむあみだぶつ、なむあみだぶつ・・・・なーむあみだーぶつ、なーむあーみだーぶーつ・・に手を合わせて拝む。

なまんだぶ、なまんだぶと念じて終えた送り念仏はおよそ12分間だった。

そうして仏壇のローソクの火から移した線香をもって玄関を出る。

行先は隣家分家のF家。

火の点けた線香を持つ婦人が待っていた。

二人揃ってこれより向かう先は冬野川の最上流。

線香の煙を絶やさないように持っていく。

家からは急な坂道を下っていく。



どしゃぶりにも拘わらず村さなぶり行事をしていた気都和既神社の前を歩いて下っていく。

ここら辺りは数体の地蔵尊がある。

いつ見ても真新しいお花を立てている。

信仰の深さを知るのである。

そこよりすぐ近くにコンクリート製の橋がある。



その端っこに立てた線香。

祖母は1本だったが、分家のFさんは2本だった。

その場でつくもって手を合わせて拝む二人。



こうして先祖さんは天に戻っていった。

かつて先祖さんを迎えたお供えは送りのときに丸ごと捨てて流していたという。

昔はダントバサンと呼んでいた七日盆があった。

山の上のほうにあったダントバと呼ぶ墓地は石塔婆墓地である。

当地は4軒の上出垣内。

下の垣内も入れて上(かむら)は8軒。

8月21日は施餓鬼があるし、23日は子安地蔵尊に参る地蔵さんの行事もある。

また、下出には庚申さんもある。

年に2回だったか、それとも60日おきの庚申講の集まりだったか・・。

送りを終えた直後に下流から息子さんが運転する軽トラが登ってきた。

仕事を終えて戻ってきたが丁度送ったばかりである。

再び座敷にあがらせてもらってサナブリモチをよばれる。



昼に供えていたサナブリモチはコムギモチ。

白ご飯の代わりに供えたという。

かつて小麦を栽培していた。

刈り取った小麦は2升臼で杵搗きしていた。

搗いた小麦は石臼で挽いて細かくして餅にした。

今では買ってきた小麦で作る。

小麦は器械で挽く。

潰した小麦は夕べに浸した。

一夜かけてゆっくり浸した小麦でモチを作った。

それがサナブリモチ。

キナコを塗して食べる。

糯米で作ったモチは粘りがあるし柔らかい。

サナブリモチはがっしり堅めの食感。

そこそこの歯ごたえがある。

先月の7月23日に訪れたあすか夢販売所に「さなぶり餅」があった。

どちらかといえばあすか夢販売所の方が堅かったかのように思える。

あまりにも堅ければ祖母は食べられないのでは、と思ったぐらいに香ばしい祖母手造りのサナブチモチはとても美味かった。



息子さんの語りの言葉が妙に方言ぽい。

「これ見ぃ、あれ見ぃ」から始まって「ぶにん」。

えっ、「ぶにん」って聞き初めである。

「ぶにん」やから持って帰ってもうらう、というがまだ謎は解けない。

人数が少ないときに「ぶにん」やから食べられへんとか使うらしい。

結局のところ使い方がわからない「ぶにん」である。

うちで「へたがって」といえばつくもることだ。

これはなんとなくわかる。

たぶんに「へたってつくもる」ということであろう。

これとは別に「つくねる」という言葉がある。

「つくねる」はそこへ集めてかためること。

つまりは集めることである。

「身いる」は私も使っている言葉だ。

「おっちゃん、そんな大きなものを持ってたら身いるやろ」という使い方だ。

息子さんが話す方言は留まることを知らない。

本日はここまでだ。

(H28. 8.15 EOS40D撮影)

上の先祖迎え法要

2017年03月18日 09時24分19秒 | 明日香村へ
家さなぶり村さなぶり行事がある明日香村の大字上(かむら)に住むFさんに聞いた当家の先祖迎え。

祖母は朝早くに大字に流れる冬野川に出かけて線香に火を点けて先祖さんを迎えると話していた。

83歳の祖母は杖をついてはいるもののいたってお元気だ。

この日のことやお送りなども話してくださる。

先祖さんをお迎えした時間帯は朝の6時半だったようだ。

線香を持って冬野川で先祖さんを迎えた。

茶碗10杯にお茶を入れた。

カボチャ、ナスビ、キュウリ、サツマイモにソーメンを仏壇前に並べた。



スイカにキマッカはいずれも家の畑でできたもの。

網を潜ったアライグマによってスイカが被害にあったという。

その他にブドウ、イチジク、モモ、トマト、ハウスミカン、トウモロコシ、メロン、ナシなどは買ってきたもの。

盛りが多くて毀れそうになっている御供棚に水鉢がある。



その上に乗せている草花はミソハギ。

これはもうすぐ来られる僧侶がサンパラする道具だという。

同家はこれにキキョウの花も添えた。

他家ではシキビになるらしいが同家に欠かせないサンパラの花である。

野菜や果物を乗せた大きな葉はハスの葉。

今年は貰いもんだという。

厨子に納めてある花立にさした花は菊の花に蓮の花。

蕾だった蓮は今朝になって開いたそうだ。

隣のお厨子は毘沙門天。

お大師さんもそこに納めさせてもらっていますという。

先祖さん迎えした同家は仏壇だけでなくカドにある外の神さんやダイジングサンと呼ぶ大神宮、七福神、お稲荷さん、熊鷹大神を並べた神棚にも灯す。

その棚には癌封じのお札もある。

炊事調理場の棚に大和大峰蛇之倉七尾山の摩王大権現大護摩供養御法砂。

台所の神さんの三宝荒神さん(笠の荒神さんでもなく、三輪山か、それとも立里荒神か)に水の神さんまである。

それぞれの神さんすべてにサカキを祭っている。

他の神さんはお供えがみられないが、水の神さんだけはキュウリ、ナスビ、サツマイモ、トマトを供えていた。

そこには菊の花にコウヤマキも立てていた。

水の神さんにヤカタはない。

こうして祭ってきたが、理由はわからないそうだ。

そうこうしているうちに僧侶がやってきた。

僧侶は大字上(かむら)も兼務している浄土宗派。

島庄にある唯称寺が本寺のようだ。

唯称寺は大字細川にある蓮花寺も兼務しているという僧侶は副住職。

目元が優しい副住職のお勤めが始まった。

ローソク、線香に火を点けてお念仏。



祖母は同部屋に座るが、息子さんは後方。

遠慮しながら座られた。

念仏が始まってからしばらく。

副住職がおもむろに動いた。

水鉢に置いてあったミソハギとキキョウの花を手にした。



オンサンパラ、オンサンパラを唱えながら花を手元に持つ水器の水に浸けては前方に飛ばす。

リンを鳴らして手を合わす。

お念仏は餓鬼さんのために施す。

餓鬼さんに水むけ(手向け)する「さんぱら」の作法は水供養の在り方である。

副住職が云うには家によってはコウヤマキでもシキビでも構わないという。

要は水を飛ばしやすければそれで良いらしい。

木魚を叩いてなむあみだぶ、なみあみだぶを連呼しながら唱えられる。

F家の先祖代々を供養する。

念仏が終われば静寂の部屋。

外ではセミセミセミと鳴きやまない夏の声が聞こえてきた。

上(かむら)の隣村は大字尾曽。

そこには真言宗派のお寺があるそうだ。

寺の境内にある八十八体の地蔵石仏がある。

調べてみれば四国八十八カ所の写し霊場。

一日で八十八寺を参ることができるお砂踏みがあるおうだ。

8月21日がお勤めだというお寺は真言宗豊山派の威徳寺。

江戸時代に毘沙門天を祀って建立した。

本堂前に弘法大師の像がある。

昔は流し灯籠があったという。

また、大字上には百人講があった。

10年に一度は伊勢参り。

2台の大型バスに振り分け乗って伊勢参拝というだけに伊勢講もあった。

伊勢講は一年に一回の伊勢詣り。

予算がなくなって解散したそうだ。

(H28. 8.13 EOS40D撮影)

念仏講を継ぐ越の地蔵さん

2017年02月26日 08時05分29秒 | 明日香村へ
明日香村の下平田で聞いた同村越(こし)の地蔵さん。

同じ日のほぼ同じ時間帯でしているらしいという。

大淀町の西増の場を見てきた帰りに立ち寄った。

午後6時半も過ぎていた。

お祭りはされているのか、それとも・・・。

下平田より近鉄電車線路を越えた西側にあると聞いて街道を急ぐ。

越といえばかつてトンド焼き弁天さんのイノコマツリを取材したことがある。

地域の位置はわかっている。

たぶんにあそこだろうと思って車を走らせたが、地蔵さんをしているようには見えない。

赤い提灯がどこにもない。

仕方なく駅がある方角に向けて走らせた。

前方に見えた赤い提灯。

ここだったのか。

その場におられた婦人に声をかけて撮らせてもらった越の地蔵さん。

かつては念仏講のおばあさんがしていた。

解散されたかどうか聞きそびれたが、若いご婦人たちが引き継いだという。

念仏講がしていたときは提灯に火も灯した。

参拝者もやってきて賑やかだったという。

地蔵さんの祠を建ててからは交通事故もなくなった。

クワを担いだ人が踏切事故に遭遇したこともあったが、地域の子どもたちをいつも守ってくれる先代からと云われて行事を継いでいる。

地蔵尊については詳しく継がなかったので、いつ、どのような理由で建之したのかわからないという。

年代を示すものがあるかも知れないと思って探してみる。

それは地蔵さんの台座にあった。

「大正十四年□月□七日(四七) 奉□□」に「三界万霊」の文字もあることから何らかのことがあって死者を弔って建之したのであろう。

(H28. 7.23 EOS40D撮影)