マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

上・門屋の巣立ち前燕に玄関の厄除け護符

2020年07月26日 09時31分32秒 | 明日香村へ
昨年も訪れたことがある明日香村の上(かむら)の民家。

度々の民俗取材にいつもご協力をいただいているF家。

初めて訪問したのは平成28年の6月12日

息子さんのFさんと出会いに話してくださったF家の民俗譚にすごく興味を惹かれた。

取材願いも承諾してくださって今日に至る。

挨拶もそこそこに見上げた門屋。

春に渡ってきた野鳥が親子ともども暮らしていた。

親鳥は雄、雌とも出かけては子どもが食べる餌を給餌する。

絶えず往復する。

ちょっと前の時季の行先は田んぼ。

泥田を銜えて巣づくりしていた親ツバメ。

今は、子ツバメの給餌運びが忙しい。

これまで何度も訪問してきたF家にツバメの来訪を拝見するのは初めてだけに思わずシャッター押し。

親を待つ子ツバメは4羽。やがては巣立ち。

落下の糞痕を遺して、みな揃って旅立っていくんだろうな。

頭に糞を落とされはしないだろうと潜った門屋。

庭の飛び石を渡ったそこに玄関がある。

入らせてもらったときにいつもしてしまう見返り。

玄関に貼ってある護符はこれまでも拝見してきた。

見る度に撮らせてもらう護符の一枚が”氷柱”。



何を意味するのか・・。

昭和5年生まれのご高齢婦人につい聞いてしまう”氷柱”。

小さな文字の”氷柱”は、手書きでなく機械打ち。

厄除けにご利益とかで貼っているそうだが、どこで授かったのかは、記憶にないようだ。

”氷柱”の漢字文字はツララ読み。考えられる厄除けは暑気祓いかも・・。

特徴的なお札はまだある。

一枚は縦列が「北守閉止南」。

左右に「東西」。

もう一枚は、何枚も貼り重ねているようにも見える四方型護符の「守」。



“守”文字は四方型のロ枠で囲んでいる。

もう一枚はどなたさまもご存知の馴染みある「立春大吉」。

これもまた重ねて貼っているように見える。

貼ってあった場所は、玄関扉の真上。

扉を閉じて施錠。

やっかいな疫病が、屋外、四方から侵入して来ないようにお家を守る護符。

そう考えてみた戸締り、施錠厳守のお守りでは・・。

今回も高齢婦人に聞いてみた護符の件。

香芝市穴虫の人に拝んでもらった、という。

もう一枚の「守」。

“守”字から思い起こす神社は加守神社。

正式社名の葛木倭文坐天羽雷命神社は葛城市加守が所在地。

穴虫から南側の隣接地である。

葛城市の二上山登り口に行く近鉄電車の二上神社口駅から歩いたところにある神社にあった、と云っていた昨年の思い出話。

どちらかの一枚が神社でたぶんに加守神社。

もう一枚は拝み屋さんでは、と思った次第だが、さてさて真相は・・。

(H30. 6. 3 EOS7D撮影)

上・F家の民俗譚

2019年10月07日 09時27分38秒 | 明日香村へ
この日はお世話になった地域の取材地巡り。

尤も朝いちばんに伺った旧室生の下笠間は再現してもらった植え初め取材。

その流れによばれた行事食に舌鼓。

同行のカメラマンとはここで別れて宇陀市榛原の笠間に向かう。

地区の名称が同じ「笠間」というのも面白い偶然である。

笠間峠を越えて上笠間口。

次の目的地は明日香村の上(かむら)。

来月初めには田植えをされると聞いていた。

ならば水口まつりは、と思って出かけたが特有のまつりはなく、苗代田に白い幌に被せ、育苗中だった。

村では早い家もあるが、F家は遅めにしている、という。

今年のさぶらき田植えは6月の第一日曜日を予定している。

また、今年もお世話になるさぶらき取材である。

玄関軒に貼っている護符にある小さな文字が気になる。

文字は逆さ読みの”氷柱”。

もう一枚は、中央に“閉”文字を配して、その上下に“守”と“止”文字。

周囲四方は、上に北。

下は南に右が東で左は西の方位がある護符。

前年の6月11日に訪れた際に尋ねたその護符に疑問をもったから、またもや聞いたが、結局は・・・。

二上山下の近鉄電車・二上神社口駅、というから近畿日本鉄道の大阪線。

大阪・上本町駅から三重県松阪・伊勢中川駅を結ぶ路線にある駅である。

駅の所在地は奈良・葛城市加守になる。

その駅から西に向かって歩いた。

だらだら登っていけば加守神社にたどり着くが、その手前かどうかわからないが「見てくれる人」が居たという。

おばあさんがいう「見てくれる人」はおそらく祈祷師の拝み屋さんであろう。

もしかとすれば香芝市穴虫かもしれないが、護符はその人からもらったそうだ。

なんの意味を含んでいるのかわからないが、今でもここに貼っている、という。

(H30. 5.12 SB932SH撮影)

明日香村豊浦の水口まつりを探す

2019年09月18日 09時21分12秒 | 明日香村へ
明日香村豊浦。

向源寺より少し北。

狭い路地に侵入してしまった。

そこにあった水苗代にはイロバナもなかった。



付近を散歩している婦人にここから脱出するにはどの道を選択して良いのか尋ねた。

その結果、あちらにある大池の和田池堤に沿っていけば大丈夫ですと教えてくれた。

その角地になにかがあるのか。

4人連れの婦人たちは手を合わせて拝んでいたのは地蔵石仏。



竹で組んだ提灯吊りがあった。

本日は5月1日。

地蔵盆の提灯吊りと思われるが、時季はまだまだだ。

(H30. 5. 1 SB932SH撮影)

岡・祭り終えの産の宮探訪

2018年08月27日 08時59分10秒 | 明日香村へ
飛鳥民俗調査会が調査され、昭和62年3月に発刊された報告書『飛鳥の民俗 調査研究報告第一輯(集)』がある。

明日香村を多方面に亘って調査した年中行事に目が釘付けになった行事があった。

「岡に産の宮と呼ぶ安産の神を祀る祠がある。岡本神社ともいい、祭神は高皇産霊神・素戔嗚神・神功皇后であるという。7月14日に祭典が行われ、明日香村内だけでなく近郷からも妊婦がお参りにくる。元は、花井家三軒と上田家5軒とで祭祀していたが、数年前からは大字で祀るようになった。昼ごろから清掃を行い、孟宗竹の鳥居を立てる(※現在は常設)。妊婦は竹の鳥居に腹帯を吊るし、安産を祈る。夕方に神職による祭典が行われ、おさがりのゴクマキをする。このゴクをいただいても安産に御利益があるという。元は、当屋の主人が、当日の朝、吉野川でミソギをして、鮎を買って帰り供えたという」。

紹介されていた行事は今もされているのだろうか。

されているとすればその在り方を見ておきたい。

そう、思って大字岡を目指すのであるが、神職が夕刻とあるから、その時間帯までに到着して場所探し、とでも思っていたが、結論からいうとお昼過ぎの時間帯にしていたということだった。

大字岡をカーナビゲーションにセットして車を走らせる。

中心部は岡本寺付近の駐車場辺りで「到着しました」のアナウンス。

さて、どうするか、であるが、外を歩いている様子はない。

ないと思えたが散歩されていた女性に「産の宮」さんがある場所を尋ねてみた。

女性がいうには本日の午後1時に祭典があって飛鳥坐神社の飛鳥宮司が祭祀を務めていたという。

「今日来られたのは安産祈願ですか」と云われたが、いやそうではなく民俗行事の探訪ですとお伝えした。

「産の宮」さんは八阪神社であるという。

それならこの日は祇園さん。

夏祭りと称する神社もあるが、7月14日は京都祇園社の祇園さんが名高い。

奈良県内においても八阪神社、八坂神社に牛頭天王を祀る素盞嗚系の神社ではこの日は祇園さんと称する夏祭りが多くみられる。

「産の宮」さんの祭典の行事名は聞かずじまいだったが、祇園さんの夏祭りと考えていいと思った。

女性が教えてくださった「産の宮」がある地。

ここよりに行くには細い道を行かねばならない。

左折れに道を曲がって、すぐでてくる三叉路を左折れ。

急な坂道を下って右に曲がる。

その道は岡寺に向かう参道道。

そこからは細い道。

両サイドにお寺が見えたらすぐ近く。

さらに細い道を左に行けばあると教えてくださった通りに下る。

右側に「花井」の表札が見えた。

その家の下にたまたまおられた老婦人にも宮さんの場所を尋ねる。

そこはここの細い道を行った先にある。

距離は遠くない目と鼻の先。

ふと見上げた電信柱に表示があった矢印の先にある。

車は一時停車もできないくらいの参道道。

老婦人が云った。

下ってきた道の上流に駐車場があるから、そこへ仮停めしていいと云われて駐車させてもらう。

とはいっても民家の駐車場。

場所がわかったので写真を撮るだけと思って一時的仮駐車。

参道を下ったら老婦人が待っていてくれた。



ありがたいことで、案内してあげると云われて後につく。

たしかにあった高台の上に鎮座していた「産の宮」。

社殿はさらに高い高台にある。



社殿下にあったのが孟宗竹で作った鳥居である。

記事の通り、常設のようであるが、付近には切断した数本の青竹が置いてあった。

伐りとった竹片もあることから、近日に建てた竹製の鳥居であろう。

社務所らしき小屋が建っている。

改築した年号は・・・。

これらだけを撮って参道に戻ったら呼び止められた。

「産の宮」さんへ行く道を教えてくださった女性だった。

場所がわかるかどうか、気になって車を出したそうだ。

女性がいうには停めていた駐車場の車が出られなくなっているという。

こりゃえらい迷惑をかけてしまった。

ぎりぎりいっぱいまで寄せていた女性に頭を下げて、即急に対応する。

狭い参道の切り返しが難しかったがなんとか脱出。

もう一度頭を下げて申し上げございませんと声をあげたら笑顔で返してくれた。

短時間にお会いした大字岡の女性の対応に感謝するばかりだ。

だいたいの様相がわかってきた「産の宮」さんの行事であるが、7月14日と安産祈願の関係性が見えない。

八阪神社名は明治時代になってからの名である。

日本全国どこでもそうだ。京都の八坂神社も元の社名は祇園社。

県内事例の多くを見てきたが、まず間違いなく牛頭天王社、若しくは素盞嗚神社。

素盞嗚神社を充てる漢字は違うところも多くあるが、いずれも江戸時代は牛頭天王社。

灯籠などのその痕跡が残っている。

大字岡の「産の宮」さんにそうした痕跡があるのかどうかわからないが、「産の宮」の名は何かのおりに訛ったものではないだろうか。

つまりは〇〇のさんの宮さん。

しかし、〇〇は何であろうか、さっぱりわからない。

ではなく、先にあげた記事中に祭神は三神の高皇産霊神、素戔嗚神、神功皇后とある。

とすれば三神を祀る宮さん。

そう解したら「三神の宮さん」から、神を略して「三の宮さん」さんに産前か産後に参った女性に御利益があったと伝聞さされる。

伝聞はお産の神さんとなって崇められ、いつしか変化した「産の宮」さんではないだろうか。

いささか、勝手な推測であるが・・・。

さて、「サンノミヤサン」で思い出した行事がある。

同じ明日香村の大字平田である。

平成25年11月5日に取材した庚申講の「サンノンサン」行事

地元の話しによれば、お祭りをされる猿石の一つ。

「山王権現」を崇敬する地元民は親しみを込めて「サンノンサン」と呼んでいた。

(H29. 7.14 EOS40D撮影)

飛鳥坐神社の夏越し大祓い

2018年08月09日 09時05分49秒 | 明日香村へ
今年の3月12日

明日香村上(かむら)の薬師堂で行われたハッコウサン行事に出仕されていた飛鳥坐神社の飛鳥宮司さんにお願いした。

その行事は大字飛鳥の飛鳥坐神社で行われる夏越し大祓いである。

茅の輪潜りに藁で作った舟があると知って、それを拝見したくお願いした取材を許可してくださった。

条件は神事の進行を妨げない、参拝者に迷惑をかけない、ということである。

飛鳥坐神社の夏越し大祓いに藁舟があると聞いたのは平成28年だった。

時期は覚えていないが写真家のKさんが、教えてくださった「舟」である。

その「舟は」奉ったあとに近くの川に流すということだった。

これまでまったく存じていなかった飛鳥坐神社の夏越し大祓いである。

ネットをぐぐってみたら、確かに「舟」を奉っているシーンをとらえていたブログがある。

半年間の穢れは身代わりのヒトガタ(人形)に移す。

参拝者、祈願者たちの穢れを「舟」に詰めて川に流すあり方である。

「舟」は祓えつ物(はらえつもの)である。

祓えつ物を直に拝見することはできないが、所作される祓えつ物儀式を拝見した行事がある。

一つは三郷町の龍田大社

もう一つは橿原市曽我町の天高市(あめのたかち)神社である。

いずれも6月30日の大祓。

半年に一度の夏越しの大祓いに見られる神事作法である。

行事は午後4時から始められる。

先に拝見しておきたい茅の輪。

高さは2m以上もある茅の輪の両側に支えの杭を打ち、笹竹を立てていた。

大祓いの儀式が始まる前。



一人の男性が頭を垂れて茅の輪を跨いでいた。

なんでも遠方の地からやってきたという旅行者。

参拝を済ませたいと先に跨いで階段を登っていった。



ちなみに茅の輪は前日までに飛鳥宮司お一人が茅を刈り取ってきて、一人で組み立てた茅の輪。

心棒は竹を3本繋いで立てたという。

参拝者が座る場は2カ所。

一つは立てた茅の輪の真ん前。

もう一つは社務所の前。

暑い盛りに日差しを避けてもらうにテントを立てた場が座る席。

15分前になっても参拝者はまだ来られない。

鳥居のすぐ近くに川がある。

その付近で遊んでいた小学生。

川に何かを落としたようで、木の棒で手繰り寄せて回収していた。

川にはまりなや、と注意すれば素直に応じる子供たち。

もう一つの拾い物は屋根の上にある。

その棒をもって落としてあげたら喜んでいた。

そうこうしているうちに大勢の参拝者が集まってきた。

おかげさまでテント内の椅子は満席である。

祭壇は神事の場になる祓戸社。

祭神は瀬織津比賣神、速開都比賣神、気吹戸主神、速佐須良比賣神の四神。罪や穢れを祓い去る神様とある。

神饌御供は予め供えていた。

上段にお神酒、水に洗い米。

シイタケにコーヤドーフの盛り。

シメジにニンジン、サンドマメの盛り。

トマト、ナスビにチンゲンサイ。

パイナップルにバナナ、夏柑などなど。



献酒の酒が並ぶ前にある造り物は小型の茅の輪。

その横にある朱の色は御守だ。

下段中央に置いたのが、祈願者たちの穢れを納める祓えつ物の「舟」である。

この時点では何も詰めていないので中央は膨れていない。

その左脇にあるのは祈願者が氏名、年齢を書いて送ってきたヒトガタ(人形)であろう。

当日に参拝できない願主が予め送ってきたヒトガタである。



先ずは祓詞に祓の儀である。

次に降神の儀、献饌と続いて夏越の祝詞を奏上される。



次に参拝者の人たちに切幣・ヒトガタを配布される。

参拝者それぞれが身の汚れを払う儀式である。

身の汚れは穢れである。

我の穢れはヒトガタにふっと息を吹きかけて移す。

それをそっと紙に包み込む。

その次に祓い清めるキリヌサ。

穢れを払う作法である。

半年間の暮らし。

知らず知らずに身についた穢れを払ったそれを回収して藁で作った「舟」に詰め込む。

穢れを封じ込めたということであろう。



参拝者たちの身を清めたキリヌサは足元に散らばった。

次は大祓詞の奏上である。



本来は参列者に向かって大祓詞を奏上するのであるが、祓戸社の四神に向かって奏上された。

夏越しの大祓は神さんの祭りではなく、村人や参拝者に対する祭りごとであると聞いている。

教えてくださったのは田原本町の村屋坐弥冨都比売神社の守屋宮司だった。

実際、飛鳥坐神社・神職の飛鳥宮司は「ほんとは皆さん方に向かって申し上げないといかんのですが・・・」と神事後に伝えられた。

これより始まるのが茅の輪潜りである。

宮司が、その作法を解説される。

茅の輪は本来、3度潜る。

まずは茅の輪の正面から入って左に廻る。

ぐるっと廻ってまた正面に戻る。

次の廻りは右回り。

茅の輪を潜ったら右へ旋回して、再び後尾につく。

そして再び茅の輪の正面に立つ。

茅の輪を跨いで一番初めと同じ左に旋回して正面に戻る。

つまり、左、右、左に廻る8の字廻りの3度潜りの作法であるが、2度廻りの作法の場合はこうするのです、と説明される。

まずはじめの廻りは右に旋回。

その場合の茅の輪潜りは右足から跨ぐ。

ぐるっと廻って後尾につく。

正面に戻って今度は左回り。

その際の足は左足から入って跨ぐ、と話されたら、参拝者は、足が右、左、どっちなのか、もつれそうになるわ、と声をあげたら会場はどっと笑いに包まれた。

そして宮司を先頭に前総代、氏子らに一般参拝者が茅の輪を潜る。



茅の輪潜りに唱和する唱詞がある。

「みな月の 夏越のはらひする人は 千歳(ちとせ)の命 延ぶといふなり」である。

つまりは「6月の夏越しの祓いをする人は、寿命が延びて千歳の命を得るということである。



ところで大祓詞に「瀬織津比賣神」や「速開都比賣神」の名が詠みあげられる。

その名は飛鳥坐神社の祓戸社の四神にある。

「罪と言ふ罪は在らじと 科戸(しなど)の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く 朝の御霧 夕の御霧を 朝風 夕風の吹き払ふ事の如く 大津辺に居る大船を 舳解き放ち 艫解き放ちて 大海原に押し放つ事の如く・・・」。

「速川(はやかわ)の瀬に坐す瀬織津比賣(せおりつひめ)と言ふ神 大海原に持ち出でなむ 此く持ち出で往なば 荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百會に坐す速開都比賣(はやつあきつひめ)と言ふ神・・云々」である。

民の穢れを詰めた祓えつ物の「舟」は、ここ飛鳥の寺川から流されて大河の大和川へ。

そして大阪湾の瀬に流れつく。

そういうことだと、田原本町の守屋宮司に教わったことがある。

飛鳥の川も田原本町の川も皆、大和川に合流。

風が吹きほこる大海原の浪速の津に流れついて大阪湾に。



布引き裂き納めの作法はいつされたのか、わからなかった祓えつ物の「舟」を大事に抱えて、寺川に流す場に向かう。

総代に氏子、そして参拝者が後続について行列する。



寺川の今は水を堰き止めているから流れていない。

「舟」を流すにはある程度の水流が要る。

そこは前総代の権限で堰を開放した。



所定の地に着いたら流す場所に向けて榊で祓う。



その場から投げ入れる「舟」。

参拝者は物珍しそうに覗き込む。



流れる水流に身を任せて下流にくだった祓えつ物の「舟」はこうして見送られた。

大祓の式は流すことで〆るわけでもなく、皆揃って神社に戻る。



座っていた席に戻って始まった昇神の儀。

頭を垂れて式典を終えたが、茅の輪はそのままの形でしばらくは残される。



その茅の輪を潜る村の人。

観光客も交えて潜っていた微笑ましい情景を撮っていたが、その方向は逆向きだよ・・。



祭典を終えた時間帯は午後6時ころ。

長い影が伸びていた。



ちなみに式典にいただいた小型の茅の輪がある。

どうぞ持ち帰って祭ってくださいと云われた茅の輪はありがたく賜り、玄関に吊るした。

(H29. 6.30 EOS40D撮影)

上・庚申さんのさなぶり参り

2018年07月16日 08時44分45秒 | 明日香村へ
ナワシロジマイと呼んでいる家さなぶりの在り方は、今年も無事に田植えが終わりましたので当家の豊作を願う家の祭りごとである。

住居を建て替えたことによってこれまであった竃から炊事場のコンロに移ったものの、今でもこうして祭りごとをしてきたのはFさんのお母さんだ。

昭和5年生まれの母親はこの年の2カ月前に圧迫骨折を患って難義していたという。

なんとか歩けるようになったものの、以前よりは身の安全を考えて行動するようになったという。

その母親が、いつもなら一夜明けた翌日に供える庚申さん参りをしてくださる。

私の記録・取材する点を考慮されて実施してくださる。

前年に取材させてもらった先祖送りや小正月の小豆粥御供参拝も気遣ってくれた。

ありがたいことであるが、外歩きに無理して出かければ、何らかのリスクを伴うのが怖い。

慌てないように、介助するつもりで同行させていただく庚申さん参りである。

昔は4軒の講中でしていた。

それぞれが家の田植えを終えたらF家と同じように竃に供えた苗さんを庚申さんにも供えていたという。

添えものなどを持って庚申さんに向かう。

急な坂道であるが、杖を搗いて歩く婦人の歩きに合わせて登る。

距離はそんなに遠くない。

F家より上にある家は3軒。

うち2軒が庚申さんの前に建つ。

広い場の崖上にあるのが庚申さんであるが、階段の高さに婦人は登ることもできない。

頼まれて私が供えることになった。



三把の苗さんを供えた庚申さんにある花立ては四カ所。

それぞれにお家に咲いていた花を立てる。

お花はカーネーションであろうか。

いろんな色が混ざっているカーネーションが綺麗。



線香立ては三つ。

それぞれにマッチで点けた火を移す。

燭台は二つ。

それぞれにローロクを立てて火を点ける。

準備が調ったところで庚申下に居る婦人に声をかける。



それを合図にそっと手を合してお念仏。

静かに唱える念仏は般若心経であるが、声は聞こえない。

心で念じる心経である。

できる限りお参りをしてきたが、お参りできない場合もある。

そのときは若い人が庚申さんに奉ってくれるので、私は下でこうして参っているという。

(H29. 6.11 EOS40D撮影)

上・ナワシロジマイの家さなぶり

2018年07月15日 09時24分02秒 | 明日香村へ
明日香村の上(かむら)に、今もなお家さなぶりをされている家がある。

そのお家であるとわかったのは2年前に訪れた平成28年の6月12日だった。

家さなぶりを探すキカッケは我が家にあった蔵書である。

昭和62年4月刊の『明日香風22号』の中に毎季連載していた「明日香の民俗点描」に載っていた写真に喰いついた。

撮影並びに調査・執筆者は大阪城南女子短期大学講師の野堀正雄氏である。

私はお会いしたことがない。

31年前は仕事をしていたビジネスマンの私がお会いすることはない。

ましてや民俗どころか、写真にも興味をもたなかったサラリーマン時代。

大阪から越してきて大和郡山市内に住まいする。

そのころはとにかく奈良の歴史・文化を知ることであった。

どちらかと云えば古墳に興味があった。

そのときの出会いの本が季刊誌の『明日香風』であった。

だから、民俗の写真が掲載されていてもまったく頭に入っていないから「明日香の民俗点描」記事があったことさえ覚えていない。

ふとしたことから我が家の蔵書にあった『明日香風』の頁をめくることになった。

さて、その22号に掲載された「家さなぶり」である。

「明日香村の上(かむら)では田植えが終わると、苗三把を一つに結び、赤飯のおにぎりを三つ重ね、燈明、お神酒などと一緒に、竃の上に供えてお祭りをする。竃がなくなった現在も供える場所は替わったが、カミをまつる人々の心は今も変わらず、丁寧に神饌を調製し、供えてカミにまつる」とキャプションがあった。

三把の苗さんに三段重ねの赤飯が3皿もある。

3、3、3の数が並んだ御供である。

お神酒を供えてローソクに火を灯す。

その写真に品種らしきものを表示する札がる。

小さな文字であったが、拡大したら「四月弐拾五日 蒔キ■■秋晴」であった。

その頁をもって伺ったら、「うちでは・・・」ということだった。

掲載された写真は建て替える前の様相。

なんとなく覚えているが正確には・・、ただ、母親は今でもしていると云ったFさんの出会いは奇跡としか思えない。

その出会いから数々ある上(かむら)の村行事や垣内並びにF家の習俗を記録・取材をさせてもらった。

気都和既神社の村さなぶりに、薬師堂のハッコウサンの他、先祖迎え法要先祖送り、小正月の小豆粥御供参拝である。

そして、ようやく拝見するF家の家さなぶりであるが、この習俗を昭和62年3月に財団法人飛鳥保存財団が発行した『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(※集)-』によれば「ナワシロジマイ」と呼んでいた。

誌面の記載文は「田植えが終わると、苗を三把持って帰り、荒神さんに供える。苗はそのまま残しておき、七日盆の仏具みがきに用いるとよく汚れが落ちるという。上(かむら)では、苗三把、苗松(※飛鳥坐神社・おんだ祭の苗松)、お神酒、灯明、三つ重ねの赤飯のおにぎり、を荒神さんに供え、さらに、翌日、ムラの庚申さんに再度供えられ、稲の無事成長・豊作を祈願される。これは上(かむら)だけで見られる行事である。荒神と庚申さんの音が似ていることと、さらに庚申さんが百姓の神さんとして信仰されているために、生じてきた信仰行事と考えられる」である。



上(かむら)に着いた時間は午後1時。

Fさんは忙しくしていた。

朝から始めた田植えは奥さんと息子さんが手伝ってできる作業。

棚田は自宅より離れている。

午前中いっぱいどころか午後の時間帯もたっぷりかかる作業である。

家の前にある田んぼは田植えを一番最後にする場である。

例年、この場を苗代田にしている。

4月後半にしている苗代田。

育苗機は一切使わない自然にまかせる苗代作り。

今年は生育が遅かった。

水溜めしたのもこの月の3日から5日間の期間。

息子さんに応援を仰がなくてはならないし、自然相手に悩ませる毎年のこと。

「ナワシロジマイ」の日に田植えをすると一旦決めたら日程を覆すことはない。

当日が雨降りになってもカッパ着こみで作業をする。

昔は汗蒸れしない蓑であったが、現在はかいた汗でむんむんしながらでもしやんと・・と、いう。

本来なら田植えのすべてが終わった段階で母親がする苗取りであるが、この日は私の記録・取材のために作業を早めてくれた。

ありがたいことである。



何枚か畦に並べておいた一枚を門屋の前まで運ぶFさん。

置いたら、これから始めますので、と云った母親。

苗箱から適当に掴んで取り出した苗。



「こないぐらいに掴んで・・」と見せてくれる苗の本数は正確に数えられないが、割り合い多いように見えた一掴み量である。

根分けするような感じで、少しずつ解きほぐして苗箱から取り出した苗束である。

画面ではその取り具合がわかり難いが、右手、左手とも親指と人差し指を動かして数本ずつの苗を手前に、手前に取り寄せるという感じである。

その繰り返しで束にしてゆく。

手のにぎりいっぱいに寄せる苗の根を引き離すという具合。

根分けというか、株分けの方法である。

両手いっぱいに掴んだ苗束。

根分けした苗の根に土がいっぱい付着している。

両手にあった苗束を一つに合わせる。

そして、土付き苗を持ったままの状態で、手元に置いていた藁を手にする。



「こないして・・」と云いながら稲と根の間辺りにぐるぐる回して締める。

一本の藁では足りない場合もあるが、だいたいが3回締めで括って、外れないように挿しこんで止める。



苗束は三把。

「昔からそうしている・・」という苗三把はこうして取り揃える。

昔は水田の水で根洗いをしていたが、今は山から流れてくる水で洗っている。

流れる水は田んぼの間に造った水路。

そこに電動ポンプを設置している。

スイッチを入れたら吸い上げられた谷水が勢いよくホースから出てくる。



排出するホース水で根を洗う。

洗うというよりも泥落しである。

根に絡まった砂や土を水の勢いで落とす。

あらかたしたら、水を汲んだバケツに根を浸して洗う。

バケツに入れて上下に振ってジャブジャブ。

これこそ根洗いのジャブジャブにすっかり泥が落ちて綺麗になった。

昔は、直播きだったという母親。

撒いたモミダネが生育した直播き田に入って同じように何本かを集めて束にしていた。

今のような密集するようなものではなさそうだから、根絡みはそれほどでもなかったろう。

苗取り作業をしながら、かつてしていたことを話してくださる。

「昔は、今のような機械植えでなく、田んぼに入って手で植えていた。育った苗を採って、この日のように苗を集めていた。苗を摘んでは集める。集めた苗が相当な量になれば、それで1把。揃えた3把を竃に供えたという。その際には育苗した品種を札に書いて立てた」と話す。

品種の札を立てていた当時の様相は前述した『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(※集)-』に掲載された写真がそうだった。

「籾を蒔いたときにイロバナを立てる。立てた端っこに品種名を書いた竹の棒を苗代に挿していた」と云うから、供える段階で書いたわけでなく、苗代作りの段階で品種札を立てていたということだ。

苗が育って田植えをする。

田植えのすべてが終われば、3把の苗を竃に供える。

そのときに品種札は供えたところに移したということになる。

当時の品種は「穂の柔らかいアサヒボ。穂が堅かったのがカメジ。いずれも粳米だったけど、他に糯米もあった」」と思いだされる。

しばらくして当時の情景を思い出したように「昔は赤飯おにぎりをしていた・・」と云った。



門屋で三把の苗束を作った母親は玄関にたどり着く前にもう一度根洗いをする。

さらに綺麗にした苗さんは力強く地面に振って水を切る。



一旦は玄関にある靴箱の上に置いた三把の苗さん。

大きくなった金魚もびっくりする苗さん。



初めて見たわけではないと思うが、じっと見ている姿が面白くて撮っていた。

撮らせてもらっていた三把の苗さんはとてもお綺麗になった。

綺麗さっぱりに泥を落とした三把の苗は倒れないように纏めて一括りにしておけば、何十年も前にとらえられた「明日香の民俗点描」と同じような姿になった。

まずは、荒神さんに供える。

かつて竃があった時代の祭り方は、蓋の上に、であった。

今の竃はガスコンロ。

コンロの上に荒神さんはないから祭られないという。



仕方ないから荒神さんに最も近いその下にある水屋のところに供えようとローソクに火を灯した。

今までそうしていたが、今回は特別に、ということで、コンロの荒神さんに供えることにした。

竃は今ではガスコンロ。

昨今は現代的文明のIHコンロもあるが、火の神さんを祭る現代の“竃“である。

火があるところには”火の用心“の護符もある炊事場のコンロに丸盆で供えた苗三把。



傍に塩、洗米を揃えて、燭台のローソクに火を灯した。

手を合わせて拝むこともない荒神さんの祭り方であるが、誌面にあった赤飯はみられない。

こうした習俗は一般的民俗でいえば“家さなぶり”と呼ぶ在り方である。



平成22年5月10日に取材した奈良市旧都祁村・藺生T家の家さなぶりであった。

田植えのすべてを終えたTさんが供えた場はかつての竃さん。

今では炊事場になっているが、戎大黒さんを祭っている下に供えていた。

藺生はその場に煎った青豆とお米を包んだフキダワラも供えていた。

(H29. 6.11 EOS40D撮影)

稲渕の苗代イロバナ

2018年06月02日 08時35分52秒 | 明日香村へ
この日は特に水口まつりを調査しに行ったわけではなかった。

目的地は吉野町の小名であったが、やはりというか、ずいぶん前に消滅していた卯月ヨウカのテントバナである。

何度か取材で世話になった総代の話しによれば、それなんやというぐらいだった。

代わりといえばなんであるが、榛原萩原の玉立(とうだち)に小鹿野(おがの)地区。

榛原ではもう一カ所の笠間で拝見した水口まつりに設える藁束である。

あれは「マクラ」だと云っていたのが嬉しい。

榛原から南へ下った吉野町の小名でも水口まつりをしていたという証言である。

「マクラ」の呼び名は大宇陀の平尾もそうであった。

地域を離れて同一表現があったのが嬉しい。

吉野町を離れてもう一つの目的地は明日香村の桧前。

着いた時間は午後6時半。

訪ねる家が見つからず断念した。

その代わりといっちゃあなんだが、桧前に来るまでに見つかった苗代田のイロバナ。

場所は稲渕である。

前年、取材したドウコウ(堂講)のお札は今年もあった。

もう一つ取材した苗代田は荒れたまま。



そこより少し離れたところにあった苗代田のイロバナ。



飛鳥坐神社のマツノナエもないが、イロバナがあっただけでも嬉しいのだ。

(H29. 5. 8 EOS40D撮影)

八釣の情景を巡る

2018年04月30日 09時23分36秒 | 明日香村へ
明日香村八釣の苗代作業を見始めてから1時間が経過した。

すぐ傍を走る旧道を南に走って山越えをしたら飛鳥らしい風景が現われる。

辺り一体を巡る観光客が目につく飛鳥の石舞台である。

そんな観光地と違って、ここ八釣は農村風景が一面に広がる。

ときどき飛鳥坐神社へはどこの道を行けばいいのですか、と尋ねられることも多いそうだ。

この日も一台の車が迷い込んで尋ねていた。

カーナビゲーション全盛の時代にまだまだ不慣れな人もいるのだろう。

苗代作業の進展を見計らって、合間に八釣集落をぶらぶらする。

今年の1月15日も訪れていた八釣集落。

その日は小正月。

小豆粥を供える風習を撮っていた。

引計皇子神社、浄土宗妙法寺、庚申石、地蔵石仏、稲荷社などなどだった。



小正月の日の集落は真っ白だったが、苗代の日はレンゲ畑が一面に染めていた。

ニホンミツバチもぶんぶん飛んでいたと思われるが、この日は自然観察をする余裕はない。

地蔵尊辺りを歩く二人の女性がおられた。

一人はご高齢の女性。

板一枚を乗せた運搬車を綱で曳いていた。

箱運搬はソリではなく小型の4輪である。

空気入りの車輪だからたやすく運搬できる。

傍には若い女性が付いていた。

一人では危ないと判断されて共にしていた。

周回して苗代田に戻ったときには畑におられた。



その運搬機に腰かけて作業をしていた二人の後ろ姿が妙に愛おしくて撮らせてもらった。

横にある籠には丸々太ったタマネギがいっぱい。



二人は栽培した玉ねぎの収穫だった。

一服、休憩中に何を語っているのだろうか。

(H29. 4.30 EOS40D撮影)

八釣・M家の苗代作りにイロバナ立て

2018年04月29日 09時44分25秒 | 明日香村へ
前日に訪れた明日香村の八釣。

以前もお願いしたが、あらためて苗代作りの取材願いをした八釣の総代家。

朝は9時前から作業をしていると云っていた。

長男、長女に次男も支援して苗代田作りの作業である。

種蒔は前日にしたという苗箱の枚数は700枚。

前回が430枚だったところを700枚に増やしたそうだ。

できるだけ例年に倣ってしているという苗代田。

すべてが終わったときに水口に立てる豊作願い。

それを拝見したくて願った記録取材である。

大字飛鳥に鎮座する飛鳥坐神社で行われる奇祭。

私はそう呼びたくないが、正式行事名は御田植祭り。

一般的には「おんだ祭」が充てられている。

奇祭の内容は当ブログでは触れないが、豊作を願う奉りものがある。

所作は見られない御供は稔る稲に見立てた松苗である。

八釣もそうだが、稲渕の住民もそれを「ナエノマツ」と呼んでいた。

松苗読みよりも相応しい読みと思った「ナエノマツ」である。

御田植祭りを終えた「ナエノマツ」は大字飛鳥の総代が持って来てくれるそうだ。

昨年の5月初めである。

稲渕の住民Mさんが苗代作りをすると聞いて訪れた日である。

稲渕に向かう道すがら。

走る車窓から見えた八釣に苗代があった。

その際にこれはと思って拝見したのが、水口まつりの松苗だった。

イロバナも添えていたので、近くに住む人であろうと思って尋ねたら、総代家だった。

応対してくださった婦人に伺った苗代のナエノマツを是非とも取材させていただきたくお願いした。

苗代作りの日は変動すると思われた。

念のためと思って訪れた4月29日。

明日、30日にすると云われて・・。

明日香村八釣の苗代作りの取材は一年越し。

ようやく実見できる総代家の有難さに感謝する。

朝の9時ころからパレットと呼ぶ苗箱を運ぶ。

品種はヒノヒカリ。

モミオトシは山土を使用する。

以前というか、時期はわからないが、昔は直蒔きだった。

苗代田の水は池水、若しくは吉野川分水の水をひく。

池は古池に新池もある。

“かじる”というのは耕すこと。

苗代田を平たんに均す道具はレーキ。

T字型のトンボとか、エブリ、サラエのことだろう。

始めに穴あきシートを敷く。

新聞紙を敷く。

防鳥に黒色の寒冷紗を張る。

白い幌シートの寒冷紗もある。

苗箱の枚数は多く、すべてを並べ終える時間帯は午後1時ころになる。

苗が育ってから田植えをするが、時期的には6月10日くらい。

概略を話してくれたのであらかたは想像できるが、やはり現地で間近に拝見するのが一番である。

少しでも早めに着きたいと思って出発した。



が、到着した午前の8時50分にはすでに苗代田にご家族が作業を始めていた。

予め均しておいた苗代田。

整えた苗床にまずは穴開きシートを敷いていく。

ロール状になっている穴開きシートがずれないように気をつけながら広げていく。

キャタピラを回転させて移動する、最大積載能力が300kgの三菱製運搬機のBP416ピンクレデイ

銘板に軽井沢・・ではなく、軽井技とある。

型番から探したら㈱築水キャニコム社製。

オークションにあったが、現在は終了している。



この運搬車に積み込んだパレットは40枚。

育苗している所から直接ここまで運んだわけではなく、軽トラの荷台にたくさんのパレットを運搬して、この運搬車に移し替えていた。

なぜに2度手間のようなことをされるのか。

近いところであれば、身体で抱えて運ぶのだが、パレットを置く度に戻って、次のパレットを運ぶので何度も往復しなくてはならない。

その労力を避けるために、一旦は運搬車に移し替え、そして遠くまで移動する運搬車の力を借りる。



これまでいくつかの地域でパレット運びを見てきたが、人から人へ手渡すか、数枚ほど重ねて運ぶ人力である。

どこともそうだが、距離が伸びるほど作業に負担がでる。

ある田んぼでは一輪車に載せて運搬していたが、畦道を転がすには不安定。

支える力も要るし、押す力も。

その点、この運搬車利用によれば、安全に、しかも負荷をかけずに済む。

中古でもお高い商品であるが、高齢でなくとも作業軽減にお勧めしたいと思った。

総代家の苗代作りは家族総出。



弟さんはこの方が動きやすいと靴、靴下を脱いで裸足姿。

私の小さい時の体験でも感じたぬるっと感。

妙にそれが気持ち良かったことを覚えている。

昨日、総代が話していた均す道具のレーキを見せてくださる。



回転するので操作に負担はなく楽々。

水を引いた苗代田はくるくる回している間にいつの間にか平らに均してくれる。

パレットを並べる前にしておいた苗床はこうして平らにしていたという。

力をかけることなく水平にコロコロ転がすだけで苗床が綺麗に整地される。

この農具の元々は種籾転圧機

目の細かい金網(※縦横2ミリほどの網目)を筒状にして押すことにより回転する、種籾を転圧し、表面を均一化して苗の伸び具合が全体的整えることを容易にするための道具である。

T字型のトンボとか、エブリ、サラエであれば、力が要る。

道具の荷重もあるし、力も要るが、この道具はとても簡単である。

総代が云うには、かれこれ40~50年間も使い込んだ道具。

市販品のようだ。



実演してくださった種籾転圧機を置いたところにある太い塩ビ製パイプは水路に流れる水を苗代田に引き込むために繋いだもの。

上流に据えた塩ビ製パイプの受け入れ口は紐で結わえていた。



必要な場合は紐を解いて水路に落とす。

そうすれば流れてきた水は勢いをつけて流れていく。

なるほど、と思った仕掛けである。

そうこうしているうちに軽トラで運んできたパレットのすべてを並べ終えた。

ひとまず戻る作業場は農機具などを納めている小屋である。

小屋には何段にも積み上げた苗箱パレットがあった。

前日にしていたモミオトシ(※タネオトシとも)作業は半日も費やしたという。

その前にしておくのは土入れだった。

品種は粳米がヒノヒカリ。

糯米はハブタエモチだという。

量的に多いヒノヒカリのすべてを終えてからハブタエモチに移る。



軽トラに載せる前にしておく水撒き。

ジョウロで注ぐのは単に水ではなく、薬剤散布。

立ち枯れを防ぐ液剤商品の「タチガレ」を混ぜた水を撒くことによって稲の病気を防ぐ。

小屋の外にパレットを並べては薬剤散布をしていた。

今年の作付け枚数に応じて苗箱の数量が決まる。

粳米はおよそ400枚。

糯米は30枚であるから総量430枚にもなる。

薬剤散布を済ませたパレットは軽トラに積んで運ぶ。

荷台に載せられる枚数は約160枚。

量的に3回も往復しなければならない。

作業の進展具合は並べたパレットの数でわかる。

手前の苗床はロングレール。

半分整えるだけで1時間もかかる。

集落を巡っていたら会所の場所がわかった。



そこから眺めさせてもらった農小屋の様相。

忙しく動き回る積み込み作業。

とらえていた私の姿を見たご家族は、そこに居たんかいなと笑って返してくれた。

それから1時後は2列目の水苗代に入っていた。



3度目のパレット運搬である。

運搬してはキャタピラ駆動の運搬車に乗せ換える。



苗床傍を移動してパレットを並べる。

単調な作業の繰り返しであるが、体力が要る。

ご家族は休憩することもなく作業をしていた。

すべてのパレットを並べたら白い沙を苗床一面に広げて被せる。

この紗もロール状。

回転させて伸ばしていく。

一面を被せ終えたときにご婦人が動いた。



水口辺りでなく苗床の端っこに立てたイロバナ。

お家で栽培していた2種のツツジにコデマリと洋もののフリージア。

そのときに咲いているお花でイロバナを立てた。

今年の水口まつりはこれだけである。

えっ、である。

昨年の水口まつりにはナエノマツもあった。

実は今年はナエノマツが手に入らなかったからイロバナだけになったというのだ。

ナエノマツは飛鳥坐神社で2月第一初めの日曜日に行われるおんだ祭(御田植祭)に奉られたもの。

そのナエノマツは大字飛鳥の総代が各村に配る。

ところが今年はナエノマツが届くことはなかった。

理由は何であったのか。

実は今年の総代はサラリーマンらしい。

農業の営みを知らずに失念したようだ。

そういうわけで今年はイロバナだけになったということだ。

水口まつりをするのは奥さんと決まっているわけではない。

誰がしても構わないという。



さて、沙は敷くだけでなく、風に煽られて飛ばされないようにしなくてはならない。

苗床にある泥土を沙に寄せていくか、乗せるという作業である。

飛ばないように泥土をもって重しにするわけだ。

要は隙間を開けずに、ということで、ところどころに乗せていく。

昔はロール状に仕立てた新聞紙を利用していたそうだ。

最後にする作業はトリオドシの据え付け。

苗床の四方、数か所に亘って枯れ竹を埋め込む。

ハンマーで打ちこんで倒れないようにする。



そして釣り糸のようなテグス糸を張っていく。

鳥には見えにくいテグス糸を張り巡らしてようやく終える。



ちなみに隣村の大字豊浦では苗代の〆にヨモギダンゴとキリコをお盆に盛って供えているらしい。

さらにカヤの実もあるというから、随分前の様相である。

今どきカヤの実があるとは思えないが、ツツジやナエノマツも立てると聞いたので、いずれは調査したいと思った。



小屋裏にあった唐箕がある総代家。

今も現役の唐箕は10月15日前後に再稼働するらしい。

収穫を終えた稲籾の殻落しもするし、小豆や大豆の豆落としにも活躍しているという。

ちなみに9軒集落だった八釣。

今は7軒の営みになった八釣に行事がある。

今年は1月14日にされたという明神講の行事である。

藤原鎌足公謂れの般若心経をしているそうだ。

時間帯は午後。

講の寄り合いを済ませてからとんど焼きをする。

時間帯は夕刻。

アキの方角の言い方もあるその年の恵方に向けて火点けをするという。

機会があれば、是非とも取材させていただきたい行事である。

(H29. 4.30 EOS40D撮影)