マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

近内町のヒナアラシ

2012年05月24日 06時45分09秒 | 五條市へ
女の子が居る家に行ってお菓子を貰いに巡るヒナアラシ。

旧暦の4月3日に五條市の近内町で行われている。

近内町は100軒ほどだが、女の子が居る家はおよそ60軒。

各家にはお雛さんが飾られている。

そこを一軒、一軒ずつ巡ってお菓子を貰う子供は男女区別なく小学6年生まで。

大きな袋を抱えて出発する。

小さな子供は乳母車を押す母親もつく。

それぞれの家がそれぞれに出発する。

近内町のヒナアラシは子供会のような団体でもなく組織的な集まりでもない子たちめいめいがバラバラに巡るのだ。

決められているのは出発時間が8時と小学6年生までだ。



他の市町村へお嫁に行った婦人も連れ子と共に近内町へ里帰り。

大和郡山市在住のI親子も楽しんでいる。

お菓子を貰う風習は経験者でなければ嬉しさが判らない。

近内町に嫁入りした人はとても驚いたというヒナアラシ。

かつては100軒も回ったという。



両脇に抱えたお菓子の袋。

持ち切れないほどにいっぱいになれば、一旦は家に戻って戦利品を下して再び町内を回ったそうだ。

この日は不思議と雨が降らないようだ。

小雨であってもヒナアラシをしていれば雨も止む。



「ヒナさん アラさしてー」と家人に声を掛けて家々を巡る。

かつては子供だけで回ったと高齢者は話す。

雛飾りをじっくり見る子はいない。

目的はお菓子貰いだ。

かつてはアラレやキリコを出していた。

それを盗むような感じで取っていったという。

その様相は生駒高山の月見どろぼうと同じようだった。



居間、縁側、玄関などで待ちうける家人たち。

子供たちが喜んで持って帰る姿に目を細める。

お雛さんは神さんのようなものだからご馳走を作って供えていたと話す婦人もいる。

町の下から上へ。上の子らは下へと巡る近内町。

あっちこっちから子供の姿が出没して交差する。



藤岡旧家もヒナアラシたちが来るとお菓子をあげている。

これが楽しみなのだというNPO法人うちのの館の人たち。

ヒナアラシが去った後は、先日まで飾っていた盆梅の鉢やお雛さんを仕舞っている。



次の展示替えが忙しい。

ヒナアラシが終わる時間に決まりはない。

再び襲ってくるかもしれないからと、お菓子を置いておく。

そこにはお内裏さまとお雛さまも。

優しい心づかいである。

歩いた歩数計は6千歩を示していた近内町のヒナアラシの走行時間は1時間半余り。



戻ってきた孫もお家のお菓子を貰う。

最後に立ち寄ったN家で飾っていたお雛さんの話を伺った。

この日はちらし寿司を供えていた。

ヒナアラシが去った後は家族揃ってお花見に出かけた。

近くにあるお宮さんだ。

そこには桜が咲いていた。

ちらし寿司の他、弁当やお茶を持っていって食べていた。

おじいちゃんもおばあちゃんも一緒だった。

農業を営んでいたのでみんなで花見をしていた。

ご主人の母親の話ではオモチを小さく切ってアラレにした。

それを油で揚げていた。

キリコモチとも呼んでいた。

この日の午後、一段落したらいち早く方付ける。

大雨であれば、湿気をすうからといってお内裏さんだけを方付ける。

家によってはお内裏さんだけを後ろ向きにする場合もあるという。

雨が上がって天気のいい日にお雛さんを方付ける。



娘が誕生すると嫁の実家が雛飾りを贈る習慣があった。

また、親戚筋やご近所からはおめでとうと初節句にお人形を贈ってもらう習慣があるという。

その人形も一緒に飾った雛飾りのある家。

贈る期間は3月3日から4月2日までだそうだ。

ヒナアラシが行われる3日までに贈るのは初めに生まれた子だけだった。

婦人は言った。

「何が楽しかったと言えば、ヒナアラシ。普段は出合うことが少なくなったが、子供や孫が同級生を連れてやってくる。あそこで生まれた家やと姉妹同志で盛り上がった。家に帰ったらお菓子を数えるのも楽しみだった。」と笑顔で語る。

ヒナアラシが去った一時間後には雨がポツポツ降りだした。

午後には暴風雨が襲いかかる。

雷も鳴りだした「春の嵐」はほんまもののアラシになった。

それは、それは、おっとろしいほどの強い風で、電車も一時的にストップした。

和歌山友ヶ島では瞬間最大風速が40m以上も吹いた温帯性低気圧。

地域によればヒョウや氷まで降ったようだ。

先日、訪れた南阿田にはヒナアラシの風習は聞かなかったが、宇陀市の本郷はかつてあったと聞いたことがある。

道返寺(どうへんじ)垣内で行われていたヒナアラシだ。

それは3月3日だったと思い出された。

ヨモギで作ったヒシモチや煎ったキリコモチを添えていた。

それを「盗りにくるさかいに置いていた」という。

女の子の楽しみやったヒナアラシにはセリのおひたしもあったそうだ。

(H24. 4. 3 EOS40D撮影)

再訪、藤岡家住宅

2012年05月22日 08時48分00秒 | 五條市へ
NPO法人うちのの館が管理する五條市近内町の藤岡家住宅は俳人の藤岡玉骨の生家。

登録有形文化財である。

施設に感動した昨年の四月。

今年も同月に訪れた。

この時期はお雛さんを飾っている。



今年は花の季節が一週間ほど遅れていたが、樹齢250年とされる長兵衛古梅も美しく咲いている。

藤岡家所有のお雛さんは享保年間(1716~1736年)の製作と伝えられている。



左大臣、右大臣は嘉永元年(1848)だと納めている箱に書かれてあった。

その上に乗せられていたのは蘭陵王(らんりょうおう)。

年代は定かでなく、お雛さんとは別物と思われるが、雛壇に飾られている。

藤岡家は両替商だが、問屋でもあって馬や人足を扱っていた。

五條市の町内に藤井館があるという。

現在も旅館を営む藤井館は江戸時代まで同じような卸問屋だったと解説される。



鴨居上に祀られている「御祈祷之札」の屋形。

そこに吊るされた丸いドーナツのような形。

それは馬鈴。

馬の首や鞍、馬具に下げていた馬鈴だそうだ。



和泉、橋本、五條、御所、橿原、奈良へと続く街道を走る馬。

10時間ほどで着いたというから相当早い。

円形の内部は空洞で玉が入っている。

ヒモで吊るして振ればシャンシャンと音がする。

その音色が聞こえてくれば早駆けの馬が登場したのであろう。

五條は物流運搬の中継地。

川上村から切り出された木々は五條、橋本へと吉野川を筏で流す。

それぞれの地にはイカダバがあった。

カワバタと呼ばれる処は材木屋。

それは新町だったかもと話す。

ヒロセ、タカセという呼び地はおそらく「瀬」。

そこに係留した筏。

昭和21年生まれというご婦人は三つ、四つ覚えているそうだ。

橋本生まれの昭和11年ベルリンオリンピックを報じるラジオから聞こえてきた「マエハタガンバレ」で名高い前畑秀子さんが紀ノ川の急流で泳いでいたという。

筏流しは紀ノ川の河口まで。

流れが緩い処は小さな舟で筏を曳いた。

大阪湾から淀川に入って材木になったという。



そんな話題を提供してくれた藤岡家の土蔵はなまこ壁。

特徴ある形はあまり見かけることない円形の幾何学模様。

一般的にはなまこ壁は四角い菱型である。

斜めから撮ってしまったのでその美しさが反滅したことに悔やまれる。



鴨居には大黒さまに鯛を釣る恵比寿さん。

左側の一体は何であろうか。

話題はつきなく閉館時間の16時を過ぎていた。

二日後にはヒナアラシがやってくる藤岡家住宅。

長居をするわけにはいかない。

次に訪れる機会に尋ねてみよう。

(H24. 4. 1 EOS40D撮影)

南阿田御霊神社の狛犬

2012年05月21日 07時44分45秒 | 五條市へ
南阿田と滝の氏神さんを祀る南阿田御霊神社。

右側の社殿が滝の八幡神社である。

享保六年(1721)の刻印が見られる石燈籠がある神社。

二つの宮座講があるそうだ。

下市から五條にかけて各大字で祀られるお仮屋がある。

下市新住(あたらすみ)八幡神社、東阿田の八幡宮、西阿田の御霊神社に南阿田である。

当地のお仮屋はかつてヒノキの葉で覆われた屋形を建てていたそうだが、現在は屋形になったという。

その南阿田御霊神社には珍しい形の狛犬がある。



子供と思われる(唐)獅子が母親に抱きつくような姿の石造りの狛犬。

左側は丸い石を左足で押さえている。

同じ様式と思われる狛犬は奈良市法蓮町の常陸神社や明日香村栢森の加夜奈留美命神社にもあった。

探せばもっとあるのではないだろうか。

(H24. 4. 1 SB932SH撮影)

南阿田吉野川流し雛

2012年05月20日 07時45分20秒 | 五條市へ
かつては旧暦の4月3日に行われていた五條市南阿田の流し雛。

現在は4月第一日曜日(昭和48年より)になった。

この日は村の農休日。

「休まんと罰金や」というて、絶対に集まれる日を行事の日としたのである。

南阿田では戦前まで伝統の吉野川流し雛を守ってきた。

戦中、戦後も途絶えていた村の行事を昭和44年に復活された亀多桃牛氏の意思を継いで今も行っている。

流し雛を流す吉野川は清流。

流れ、流れて和歌山の淡島へと注いでいく。

南阿田西方数キロメートルからは吉野川は名を替えて紀ノ川となる。

流れる川の水は同じでも地域によって呼称がかわる。

その淡島には加太の淡嶋神社がある。

婦人病やお雛さんの神さんとして崇められている。

吉野川・紀ノ川を通じて生活文化が交流した。

源流から切り出された山の木は五條に着いた。

そこでは材木商が盛んであった。

積み換えられた材木は大型船に移されて大阪湾に沿って住吉大社前の浜から難波の津(港)に着いたという。

川に沿った道は紀州から伊勢に繋がる参勤交代の幹道でもある。

川と道を行き交う交易の文化。

一説によれば加太の淡嶋神社に祀られた「あはしまさま」が流し雛に関係しているようだ。

「あはしまさま」は天照大御神の娘(六女)が嫁がれて住吉大神の妃となった。

その後、婦人の下の病いのために淡島に流されたという妃神の祭日が桃の節句の三日と重なって雛祭りと結びついた。

このことは後世に加えられた伝承であろう。

同神社の祭神は少彦名命。

医薬の神さんだ。

薬と婦人病が結びついたと思われるのである。

やがて江戸時代になれば、「淡島願人(がんじん)」と呼ばれる修行者が、全国に淡島明神の功徳縁起を説き広めるために妃神の姿絵を入れた箱を背負って行脚した。

婦人にご利益があると伝えられて広まった淡島信仰が五條に流れ着いた。

旧暦4月3日の桃の節句にお雛さんを祭る女性たち。

淡島信仰を支える命の川は禊の川でもある。

その川に千代紙で作ったお雛さんを流して罪や穢れを流して祓い清める。

女児による流し雛は亀多桃牛氏(故人)が主催していた俳句会同志らの後押しもあって復活した。

ところが少子化は時代の流れ。

子供会の主催事業として継承されてきたが運営できなくなった。

それでは村の行事が再び廃れる。

そんな危機感から自治会運営にしてはどうかと相談があった。

自治会組織ともなれば役員が替ることもある。

それでは継続するのも支障がでるだろうと保存会を立ち上げて現在に至る。

かつての南阿田の流し雛はヒトカタ(人形)流しであった。

紙で作ったヒトカタは折り紙。

女性が居る家はそれを作って、めいめいが川へ流していた。

前日の夕刻か、当日の朝だったそうだ。

病いを封じて穢れを祓い、心身の健康を願う女人の数のヒトカタを流していた。

淡島信仰が根付いたその風習行為は女性だけだったという。

当時は晴れ着もない、素朴な普段着で流していたと流し雛保存会会長は語る。

大和郡山市に住む岡山出身のFさんの話では鳥取県のモチガセ(※用瀬)でも流し雛をされているという。

そこでは紙のヒトカタを川に流すと話す。

ヒトカタを丸い形のサンダワラに乗せて流すのはひと月遅れの4月3日。

村の人がめいめいにしていたという。

その話の様相と似かよっているかつての南阿田の流し雛であった。

現在の流し雛の主役は小学6年生までの女児。

赤ちゃんはともかく歩けるようになった3歳児から参加する。



女の子の行事であるゆえ晴れ着を纏う。

訪れた大勢のカメラマンの要請に応じて晴れ姿を撮る人も多い。

ウチ孫では少ないからとソト孫も参加される村の行事は賑わいをみせる。

始めるにあたって浄土宗源龍寺に登って法要を勤められる。

かつてはそれもなかった。

形式を整えるようになったのだ。

それは川に張られた結界の注連も同様である。

大豆で象られたお顔のお内裏さまとお雛さまを飾った内陣。



その手前には多数の流し雛が置かれている。

流し雛は二種類ある。

川へ流す流し雛と少し小さめの飾り雛だ。

竹の皮に貼りつけた折り紙のお雛さん。

印刷した寛永通宝銭も張っている竹皮はお雛さんの舟。



一か月前ぐらいから地区の婦人たちが寄って作った舟は、いずれも購入(200円、300円)することができる。

一般の人も流すことができる村の温かい配慮なのだ。

保存会の意向によって南阿田地区以外の子たちも参加を認めている。

大勢来てほしいと願って保育所へも案内している。

この年は10人も集まった。



本尊阿弥陀如来に雛ながし表白を唱える住職の法要。

並んだ女児たちは静かに手を合わせる儀式である。

それが終われば吉野川に向かう。



集落を抜けて畑が広がる畦道を歩む。

素朴で、昔のままの風情をいつまでも残しておきたいという保存会の意思は微塵に打ち砕かれる行為があった。

女児たちが歩む姿を捕えたいと群がるカメラマン。

何人ものレンズがその姿を納めようといている。

まるで高射砲のように見えた。



その人たちが並ぶ目の前に菜の花が・・・。

畦道にどこからか抜いてきた菜の花を植えていたのだ。

行事を終えてその痕跡をみた村の人はカンカンであった。

残念な行為に怒り心頭である。

村の行事を台無しにする行為は、敢えて代弁する形で書かざるを得ない。

河原に着けば禊の吉野川。

お雛さんを流す前に作法をする子供たち。

結界の注連下で年長の子が願文を詠みあげる。



「流し雛さま 私たちの今までの つみけがれを 吉野川の清流の上に おとき下さいまして 清く 正しく 明るく 健やかに育ちますよう お願いいたします どうか私たちの 切なる願いを おきき下さいませ」と。

昔はめいめいがしていたという流し雛。

これも形式化されたのである。

岸辺に並んだ子供たちは抱えてきた流し雛をそっと流す。

祈りを込めて船を浮かべて流す。



一般の婦人たちも岸辺から流していく。

その姿に手を合わせるご婦人。

年齢は違っても健康や安産を願う思いは同じなのであろう。



穢れを乗せた竹の小舟に託した願いは下流に流れていった。

(H24. 4. 1 EOS40D撮影)

藤岡家住宅の長兵衛古梅

2011年05月13日 08時22分34秒 | 五條市へ
JR和歌山線の北宇智駅から金剛山山麓に向けて西へ歩めば、その道中に平成20年11月に開館された登録有形文化財の藤岡家住宅がある。

40年ほど前に金剛山登山をしたことがある。

そのとき、下山する方向を誤って北宇智駅に辿りついたことを今でも鮮明に思い出す。

平成19年(2007)に廃止されたスイッチバックの電車に揺られて王寺駅から大阪に戻ったのだ。

それはともかく元庄屋住宅の佇まいは驚くことばかりだ。

ここを訪れたのはひと月遅れに行われているヒナアラシを探してみることにあった。

在地は近内町。

近所に住む子供たちが雛飾りをしているお家を巡ってお菓子をもらいに行く風習がある。

かつて奈良県内では数多く見られた風習だが現存している個所は少ないという。

当時の子供たちは家々を回ってヒナダンゴやヒナアラレを貰っていたらしい。

その風習は二日前だった。

早朝から団体ではなくめいめいがそれぞれ目指す雛飾りをまつる家を巡る。

母親がついていくのは親ごころ。

昔は子供だけで回っていた。

あっちの筋からこっちの筋へと回っていく。

その中心地にあるのが藤岡家住宅だ。

同施設では4月3日まで当家に残されていたお雛さんを飾っている。

そこへもやってくる子供たちにお菓子をあげるのに用意していたそうだ。

たくさん用意していたので残り物があった。



そうして2日経ったこの日の展示は傍らにかつてなんらかの祭りに使われていたと思われる太鼓を置く武者人形になっていた。

季節に応じて展示物を替えているそうだ。



藤岡家住宅は約3年間の工事を経て拝観できる施設になった。

最後の当主は佐賀、和歌山、熊本県の知事を勤めてきた藤岡長和氏。

俳壇雅号の藤岡玉骨(ぎょっこつ)をもつ人で石川啄木、森鴎外、高浜虚子、北原白秋、与謝野鉄幹・晶子夫妻らと親交があった。

復元工事の際に蔵から出てきた交友の書簡がおっとろしいほど発見されたと施設館のボランテイガイドが話す。

昭和41年に亡くなられた当主。

その後の昭和53年、92歳で亡くなられた奥さまが住んでおられた。

無住になった藤岡家は朽ちる一方だったそうだ。

五條市へ寄贈するにあたり、地域で活用されることならと所有者だった茨城県に住むお孫さんが私費で修復費用をなげだした。

復元された住宅施設は民間委託されてNPO法人うちのの館が運営をしている。

この日は平日。そんな日であっても訪れる人は多い。

次から次へとやってくる。

できれば数人集まったところでスタートしたい施設側の要請に待つ人も・・・。

建物は寛政九年(1797)の内蔵が一番古く、天保三年(1832)の母屋、嘉永六年(1853)の茶房が続く。

貴賓の間は江戸末期で大広間、書斎、米蔵、薬医門などは明治時代だ。

駐車場になった地にも蔵があったそうだ。

修復なかったが、そこには長持などが積み上げられていた。

保管されていたものにはお宝がザクザク。

そうして発見された所有品は内蔵などに期間展示されている。

井戸があった休憩所の壁には出てきたお札を飾っている。



吉祥や家内安全を願った祈祷札だ。

古くは文政八年(1825)からで作州国分寺道場と記されているから岡山県。

文政十年の河州野中邑満願寺もある。これは大阪の河内だ。

天保十三年(1842)、弘化三年(1846)、嘉永五年(1852)、安政二年(1855)、三年、五年を示すものは金剛山で受けたであろう護摩供だ。

これらのお札がどのような交友を経ていたのか、調べるには相当な時間がかかると学芸員は話す。

貴賓室などの建物造りや装飾品などへ見入る人は多くいるがそのお札に興味を示す人はいない。



お札といえば神棚にあった「御祈祷之札」の屋形がある。

鴨神大西で見られた同型のモノを思い起こす。

そこでは一年間祀ったお札を入れておき、とんどの日に燃やすという習慣だ。

ほぼ同じ地域にあるのでそれかもしれないがそのことを語る人はいない。

二頭のトラの絵が描かれている襖絵。

丸山派画家の作であろうかふっくらした面相だ。



その間から母屋を見通せばそこは樹齢250年とされる長兵衛古梅が咲いている。

まるで借景のようだ。

その梅は書斉を通る廊下の丸窓からも眺められる。

発掘調査のように蔵などから出てくる掘り出し物に学芸員は生涯をかけるぐらい。

各方面の専門家に調べてもらうしかないと話す施設は一度見たからそれでえーというものではないぐらい学芸ネタが増えていく。

そうこうしているうちに茶房梅が枝で食事をとられていたお客さんは拝観し始めた。

昼食もとることができなかった学芸員は解説に追われる。

(H23. 4. 5 EOS40D撮影)

大塔惣谷天神社神事初めの正月狂言

2011年03月11日 07時58分44秒 | 五條市へ
復活された狂言は万才(平成21年上演)、鬼狂言(平成15年)、鐘引、かな法師(平成22年)、壺負(平成16年、23年)、鳥刺し(平成15、19年)、狐釣り(平成16年、平成22年民俗芸能大会)の七曲。

他に田植狂言、豆いり狂言、舟こぎ狂言(平成18、20年)、いもあらい狂言、米搗き狂言、花折狂言などがあったという惣谷の狂言。

神事初めの正月に天神社で行われる。

度々の大雪に見舞われた惣谷。

ここへ来るには天辻峠を越さねばならない。

おそるおそるの谷間をぬっていく林道。早朝は凍っていたが日が昇るにつれ快適な山道になった。

先に書いたとおり演目は毎年変わる。

それを見たさに訪れる惣谷。

よー来てくださったと村人たち。

演じる保存会の人たちのなかには服忌で演じることができない人が居る。

この年は二人もそうであった。

祝いごと、神事ごとには触れることもできない。

村の記録を一生懸命に収録している。

神事を終えて舞台の幕があがった。

酒を飲んできた法師は「ざざんだー ざざんだー 酔うた 酔うた」と言って酔いつぶれた格好で登場した。

背負った茶壺を降ろして横になり大の字になった。



通りがかった日本一のばくちうちは壺が気になって仕方がない。

これを手に入れるには・・・と傍らで寝だした。

茶壺を茶と思わずに高価なモノが入っていたと思ったのだろう。

起きた二人は、私の壺だと取り合いになる。

そこへ現れた大名。仲裁に入り言い分を聞く。

それならばと扇を取り出して法師の舞いがはじまった。

長い台詞回しで舞う。

舞いで主張をしているのだ。

そちらも聞こうではないかと命じた結果はといえば。

同じように台詞を吐いて舞う。

聞き分け下され。

どっちも舞ってみよと命ずる大名。

そうなれば二人とも同じ語りで舞い・・・酒を飲んで酔いつぶれたという。

一方が一方の演技を盗んでいたのだから判断はつかんはずだ。

大名が言った。

話しがつかんときは仲裁人のものになるという。

こりゃいかんてなことで二人はそれを奪いとろうとする。



二人が「私にくだされ」と茶壺を抱えたところで演目を終えた。

壺負狂言は反復復唱するやりとり、台詞、表情、動作が滑稽で妙味があるのだろう。

演目は10分間。およそ50名の観客で賑わった惣谷は再び静けさを取り戻した。

(H23. 1.25 EOS40D撮影)

五條吉野川・薫風の鯉のぼり

2010年06月09日 08時06分31秒 | 五條市へ
風そよぐ吉野川。

ようやく穏やかな季節を迎えたこの日、爽やかな風が身体を通り抜けていく。

その風を受けて舞い上がる鯉のぼり。

300匹からなる連なる鯉のぼりが河川敷に立てられている。

高さは14mで約1kmにわたって並んでいる。

家庭で不要になった鯉のぼりが色とりどりに勢揃いすれば圧巻だ。



十年まえから始められた町起こしの鯉のぼりは五條市の風物詩となっている。

(H22. 4.29 EOS40D撮影)

阪本地に伝わる慰霊の踊り

2010年06月08日 07時30分24秒 | 五條市へ
シャクナゲの花が咲き誇る旧大塔村の山の里。

阪本の国道から急坂を登り切ったところが向坂本の地だ。

古野瀬(ダムで水没した)の集落から見て向こう側にあるから向坂本と呼ばれている。

ここは熊野詣での西熊野街道。

近鉄電車が下市まで開通してから寂れていったと長老は語る。

毎年4月29日の政吉法要祭に奉納される阪本踊りが披露される。

村の伝えによれば『淡路から出稼ぎに来ていた文蔵という若者に、阪本の村娘たちが片想いをしたことから村人が嫉妬して、文蔵を水責めにして殺害してしまった。阪本の男たちは五條の代官所へ連行された。働き手を失った村は疲弊し、山林のヒノキまで売らねばならない状況になった。そこに立ち上がった男がいた。中村屋の政吉は村を救うため罪を背負って出頭した。政吉は死罪となり捕らえられていた村人は放免された。政吉は「死罪になったら盆踊りで弔ってほしい」と遺言していた。』それが阪本踊りの始まりとなった。

郷土の義民の哀しい話は踊る姿に蘇る。

政吉法要祭は中垣の専用駐車場上に建てられた墓前で行われる。

お花を飾り、御供を供えて法要が始まった。

祭壇に線香が灯されて佛心寺の僧侶がお経を唱えていく。

はじめに揃って合唱。

「なむしゃむにー、なむしゃむにー」の唱和が青空の下で唱えられる。

昨夜から降り続いた雨は朝方に止んだ。

心配されていた法要は気持ちの良い風がそよぐ日となった。

般若心経を合唱して親類縁者、家内安全、病魔退散を祈る。

修正の儀で焼香していく。



集まった村人は40人を越えた。

焼香の順を待つ人々が並ぶ。

政吉さんのおしょうらい(精霊)回向や先祖代々、過去帳のおしょうらい慰霊を弔った。

法要後の踊りは「やっちょんまかせ」、「はりま」に「かわさき」。

そして、「えー 小代阪本よ 昼寝はよ出来ぬ へエー淡路文蔵がヨ 殺された ショウガヨ ありゃ殺された」 「えー 小代阪本よ 今切るよ桧  へエー淡路文蔵ノヨ 公事ノ金 ショウガヨ ありゃ公事ノ金」 「えー 小代阪本よ 四十とよ八戸 へエーミンナ政吉サンニ 救ワレタ ショウガヨ ありゃ救ワレタ」と歌い踊られる「政吉踊り」の4曲。



短時間で踊り終えた。

ひと休憩してからは楽しみのモチ撒きに移る。



供えたお下がりの御供とともにモチを撒いていく。

コモチを求める手は青空に伸びていく。

ときおり緑色のモチが飛んでいく。

ヨモギを混ぜて搗いたヨモギモチだ。

最後の方にはひときわ大きいオオモチが投げられる。

昔は賽銭のお金を入れて放り投げていた。

だから余計に賑わったのだと長老は目を細める。

(H22. 4.29 EOS40D撮影)

惣谷天神社神事初めの正月狂言

2010年02月25日 07時54分57秒 | 五條市へ
長らく中断されていた伝統行事である大塔の惣谷狂言が復活を遂げるまで人と人による運命的な出合いがあった。

昭和32年、大塔村史編纂調査に訪れた当時郡山農業高校の教諭である保仙純剛氏。

吉野西奥民俗探訪録に「狂言あり」と極めて短い報告を頼りに足を運ばれた。

手紙などのやりとりなど度々の往来で復活への道を歩み出した。

狂言保存会を立ち上げ、抜群の記憶力を発揮して中断されていた狂言をひとつひとつ思い起こされた故辻本可也氏を中心に若い人も集まり、一曲、一曲と上演可能への尽力が続けられ七曲が完成したという。

もともと惣谷と篠原の両地区に伝わり上演されていた狂言。

いつしか篠原は篠原踊りだけが残されて狂言は絶えてしまった。

惣谷は大正天皇御大典祝賀に演じられたのが最後になった。

そのとき少年だった方は老境に入っていた。

惣谷の狂言は廃絶一歩手前で奇跡的に復活したのである。

吉野西奥民俗探訪録に残した人、それを拝見して調査に踏み込んだ保仙氏。

そしてわずかに記憶を残していた辻本可也氏。

この出合いがなければ私たちは今でも見ることができなかったのである。

記録と記憶の出合いがまさに結合した。

これを奇跡と呼べないはずはない。

当時に復活した狂言は万才(平成21年上演)、鬼狂言(平成15年)、鐘引、かな法師(平成22年)、つぼ負(平成16年)、鳥刺し(平成15、19年)、狐釣り(平成16年)の七曲。他に田植狂言、豆いり狂言、舟こぎ狂言(平成18、20年)、いもあらい狂言、米搗き狂言、花折狂言などがあったそうだ。

狂言が演じられる日は旧暦正月25日の神事初めである。

このころの奉納神事はお宮さんで梅の古木、宝踊、花しうての式三番を踊りお寺に移った。

そこでも同様に式三番を踊って狂言を上演。

囃子の笛、太鼓、胡弓が用いられ踊りと狂言が交互に演じられたそうだ。

昭和15年以降に途絶えて今日では踊りが見られないが、復活された狂言を一曲(または二曲)が演じられており、今年はかなぼうし狂言が奉納された。



演場の傍には出合いの氏の一人である保仙氏も参列されている。

集まった狂言観覧者はおよそ50人。

奇跡的な出合いにありがたく感謝して拝見する。

かなぼうし狂言は、お寺を譲られて喜ぶ小僧が教えられた借り物の断り方の順番を間違って、ちぐはぐな応対をする話で、登場人物は住職、小僧と村人の六べえ、七べえ、八べえの五人。



主題のおかしさは、昔話の典型例の粗忽な「一つ覚え」にある。

「かなぼうし」の「かな」は「かなし」で「愛し」。

「ぼうし」は「法師」で愛しい可愛いお寺の子供法師。

配られた保存会解説資料に、金法師、仮名法師などの当て字がされていると記されているが、愛しいお寺の小僧のことだからおそらく鐘法師であろう。

余談になるが、会津地方の郷土玩具に見られる「起き上がりこぼし」の「こぼし」は「こぼうし」であって、当てる字は小坊師。しかしながら小坊師姿の民芸品はあまり見られない。

※ 昭和34年6月大和タイムス社発刊の「大和の民俗」を参照する。

(H22. 1.25 Kiss Digtal N撮影)

大塔天満神社篠原踊り

2010年02月24日 07時30分30秒 | 五條市へ
国選択無形民俗文化財に指定されている篠原踊りは村の神事初めとして天満神社で奉納されている。

かって旧暦正月の2月に行われていたが現在は新暦の1月25日。

男性三人は白足袋に下駄を履いて梅鉢紋の着物に袴姿で、手には小太鼓とバチを持つ。

女性は紫地に白く「しのはら」と染め抜いた着物に帯を締め舞扇で踊る。

昔は太鼓を打つのは若い衆、踊るのは嫁入り前の若い娘だった。

奉納は「梅の古木踊り」、「宝踊り」、「世の中踊り」の三曲で式三番と呼ばれている。

「梅の古木踊り」は人作りをさし、育てる意味がある。

また、その名のごとく長生きできるようにと願っている。



「宝踊り」は氏子の繁栄を祈って財産が増えるように、最後の「世の中踊り」は世の中が平穏、泰平になるようと踊られる。



この三曲以外に入波踊り、御舟踊り、田舎下り踊り、綾取り踊り、哀れ龍田踊り、十七八踊り、俄か踊り、御稚児踊り、小原木踊り、近江踊り、新宮踊りなど30数曲が残されているが、山の里に五穀豊穣を願う奉納曲は式三番の三曲である。

十津川村上野地から宮司を迎えて始まった神事。

アメノウオ(実際は捕れなかったとこぼされる)など地元篠原で採れた神饌を供えて厳かに執り行われた。

音頭取りの方が亡くなられて昨年はやむなく中断されたが、今年は若い太鼓打ちが加わり、残されていたカセットテープの唄をバックに再開された。

神事を終えた村の人は集会センターで直会の宴。

牛肉のすき焼きに篠原で栽培された蒟蒻はご婦人方の手作りコンニャクと豆和えシラタキ。

歯ごたえがあって逞しいコンニャクになった。

ご飯はアゲメシ、アズキゴハンに白飯。

ようけ食べてやと村の接待を受ける。

(H22. 1.25 Kiss Digtal N撮影)