先々月の2月26に行われた天理市勾田町の初午行事。
勾田町で初めて拝見する行事であるがハタアメの風習は見られなかった。
そのときに伺った区長や評議員らが話していた春日神社の祭典である。
春と秋の祭典に行われる当屋座行事である。
その行事に先立つ作業がある。
必要な祭りの道具を作って揃える作業も十人衆もお勤めである。
かつては頭屋座を勤める頭屋家が作業の場であった。
当時というか取材した日は平成17年の4月9日だった。
今では頭屋座ではなく、充てる漢字を換えて「当屋座」表記になっていた。
私の古いHPにはこう書いてあった。
「一老、二老、三老たちは御幣やヤナギの牛玉宝印作り、細竹に洗米を入れるなどの作業を行ない、四老から十老たちは庭で四臼の餅を搗き、神社へ供えます。直会を終えると一老のご婦人の挨拶で祭事が始まります。ご婦人からの神酒杯を順に酌み交わす所作は区長、一老から順に十老まで行なわれ、再び戻って二回杯します。その後、座中和やかに塩で煮た泥芋、牛蒡やアラメを食します。そして、神官を先頭に頭屋衆は旧道を通り、春日神社に参拝します。石上神宮神官による奉幣神事が行なわれた後、頭屋衆は再び同じ酒を酌み交わす所作を行ないますが、最期に粗餅を食する違いがあります」だった。
一老、二老、三老は御幣にヤナギの木に挟む牛玉宝印書を版木で摺って作る。
四老以下はカドニワで臼を設えて杵で餅搗きをしていた。
12年前とは現在の様相はずいぶんと変化したと区長が話していた。
大きな違いは座や作業の場である。
頭屋家に負担をかけずに行うには場を換える。
椀や座布団などの接待道具が揃っている神社社務所に移された。
ただ、そうすることでお渡りの行程が短くなったことは否めない。
久しぶりにという気持ちもあるが、変化を受け止めて現況を知る。
当時の取材では気がつかなかったこともあるから、再確認。
そういうことも大切と考えて再訪することにした。
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朝8時半、社務所に集まった人たちは壮年齢の十人衆。
一老を務めるNさんは昭和39年生まれの53歳。
実にお若い一老である。
三老は親戚筋の従弟になるNさん。
同姓である。
一老、三老家は大正3年に創業した製綿製造業のふとん店にリネン業を営む家系であった。
もっと若い方は十老。
年齢は41歳とあるから壮年どころではない若手層である。
12年前に伺ったときはもっと年老いていたように思える。
老いていたといっても、現在の私の年齢(66歳)くらいのように見えていた。
年々、下がった年齢は当時よりずいぶんと若返ったものだと話す区長や十人衆であった。
会所でもある神社社務所の玄関前に手水を設える。
水を張った木製の手水桶に一個の石を沈めていた。
かつては頭屋家のお風呂をいただいて潔斎をしていた。
禊ぎの入浴を済ましてから行う祭り道具の調整作業であった。
そのときの時代、風呂桶に入れていたのが手水桶に沈めた禊ぎ石である。
朝の6時の潔斎。
頭屋家のたいへんさの一つであったが、9年前に辞めたという。
この禊ぎ石は大切に保管、継承するために箱を作った。
その箱に「平成16年10月吉日 当屋座 禊石」と書いてあるから、私が取材した平成17年はすでに入浴潔斎はせずに手水潔斎に移っていた。
ところで、ここら辺りには車を停める場所がない。
十人衆に尋ねてみれば、うちの駐車場に少し余裕があるから、そこなら大丈夫と云われて停めさせてもらった。
ありがたいことである。
ちなみに停めた駐車場は会社従業員らが停める場所。
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その傍ら外れの一角に大木があった。
樹木が何の木であるのかわからないが、小社が建っていた。
その社下に「八王子」文字を刻んだ石標があった。
ここは祭典を終えた十人衆一行が回礼巡拝する場であった。
八王子回礼は春日神社境内を入れて5場所もある。
一カ所に複数の八王子もあるそうだ。
作業の服装は普段着。
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会所前の広庭にブルーシートを拡げて作業に移る。
この日は曇天。
せっかく咲いた桜の花は雨に打たれかけていた。
今にも本降りになりそうな曇天に作業は外でするしかない。
外で作業する材はごーさん札を挟むカワヤナギの枝木と八王子回礼に立てる小幣用の細い竹である。
細竹は神社付近にお住まいのM家に譲ってもらう。
まずは幣作り。
残しておいた見本を参考に伐り出す。
細竹は枝を落とす。
見本に合わせた長さに整えるが、節目の位置も合わせておく。
行事仕様によれば根元より1/3程度の長さになるように伐るようだ。
両先端を鉈で伐って尖らせるが、形状は異なる。
下部側になる部分は斜めに角度をつけてそぎ落とす。
一方は深い山型というか、U字型に伐りこむ。
その部分は幣を挟むために縦に割れ目を入れておく。
そして、内部に適量の洗い米を入れてできあがる。
これを16本も作る。
次の作業はカワヤナギ。
『当屋座行事』帳によれば、枝の根元を3~4等分に切れ目を入れ、そこに印を押した和紙を半分に折って挟み込み云々とある。
ナタで切り目を入れるのは意外と難しい。
カワヤナギの枝は細いから切れ目の深さをどこまでにするか。
それもあるが真っすぐに伐らないと折れてしまうからおそるおそるだ。
ここで気になるのが切れ目の等分である。
ヤナギの根元に挟むのはこれより一老たちが版木で摺って作るごーさん札である。
これまで数十カ所を調査してきたオコナイ行事がある。
挟む木の違いは見られるが、伐り込みは三つである。
四つはあり得ないが、二つは数か所で見つかった。
基本は三つの伐り込み。
T字型が尤もであるが、これもまた違って三方に拡がるようにして伐り込みを入れる地域もあった。
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外の作業はもう一つある。
サカキに幣付けである。
幣は一老らが幣切りするのではなく、市販品を購入するそうだ。
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会所座敷で作業されるのは一老、二老、三老の3人。
見本に残していたごーさん札を拝見する。
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版木で摺った文字は「牛玉 常樂寺 寶印」である。
朱の寶印は三つある。
「牛玉」と「寶印」の位置に押した印と中央に配置した「常樂寺」に押した印とは明らかに違うのがわかった。
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これより始まる版木摺りの合間に拝見した朱印はたしかに二つ。
綺麗な方は近年において作られたものと推測できる寶印。
それに対して印が崩れているのは形、色具合からして古いものである。
ところで、牛玉寶印書にある「常樂寺」とは一体どこにあるのであろうか。
春日神社の年中行事を支えているのは勾田町の当屋座である。
神社行事に「常樂寺」にかつて存在していたということであるが、記録はない。
あった、と考えるべき遺構が神社会所裏の小高い丘にある。
数々ある石塔の残欠などなど。
寺様式と判断できるが、それが常楽寺の遺構であるのか、確かめようがなかった。
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区有文書に「寺」関係の存在を示すような文でも発見されれば・・と思うのであるが、ただ中興の祖と思われる「中興明堂撤老和尚禅師」名の碑が立っていた。
一老らと「常楽寺」の話題を交わしていたときである。
「昔し、尼さんがいてはって・・」と先代から聞いていると話されたが、詳しいことはわからないようだ。
また、「常楽寺」の話題続きに、勾田町には善福寺があって、「薬師堂の地蔵まつり」があると云っていたが、詳しいことは聞かずじまい。
後日、あらためて確認したい行事である。
それはともかく版木で摺る枚数は20枚程度になるそうだが、集めるカワヤナギが18本であれば、牛玉寶印書は18枚になろう。
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その版木に墨書文字がある。
「寛政九丁巳年(1797)正月二〇日 奉再興牛王版木 施主松岡儀右エ門」であるが、文字字体が新しいように思えるし、「再」の文字より、新調した可能性も拭えない。
版木摺りは3人がそれぞれ役割分担して作業する。
版木に墨汁を塗って奉書に押し当てる。
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一枚、擦りあがれば寶印に墨汁の朱墨液を刷毛で塗って押す。
前述したように2種類の寶印の位置を間違えないように押す。
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そのころともなれば小雨降り模様になっていた。
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外の作業を終えてできあがったサカキに八王子回礼するときに供える竹の幣などは雨に当たらないように会所の軒下に並べていた。
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祭りの道具のすべてを作り終えたら、神社の清掃である。
綺麗に掃いた拝殿に並べて揃える。
半分に折った奉書は古そうな大きな皿に敷く。
そこに盛った洗い米の量は多い。
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手前の三つだけは山盛りの洗い米の上に、これもまた古くから使われてきたと思える素焼きのカワラケである。
蓋のような感じで乗せたかと思えば、そうではなかった。
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「酒」を注がれたので、皿の扱いであった。
これは本社殿に二盃を供える。
もう一盃は右にある末社になる。
三方に載せたのは白い大皿。
これらは薬師堂と観音堂に供える。
ただ、神饌御供を供えるのは神事の直前。
先に供えたら猫とか鳥獣の餌になってしまうから、後に、である。
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カワヤナギの根元に挟んだごーさん札こと牛玉寶印書。
県内各地にみられる寺行事の「オコナイ」と同じように奉られるごーさんである。
お寺行事であれば、僧侶が祈祷する。
だいたいが正月の月に行われる年頭行事の初祈祷である。
版木に正月実施されたと考えられる「寛政九丁巳年(1797)正月二〇日」日付けが物語る。
村の安寧を願って豊作を祈願する行事であるが、ここ勾田町では僧侶の姿は見られない。
石上神宮の神職によって行われる春の祭典である。
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提灯は雨に当たっても大丈夫なようにビニール袋を被せた。
こうして一連の準備を終えたら、一旦は会所で昼食を摂って午後の祭典に入るが、昼食は区長招きの会食である。
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十人衆の慰労の昼食会のようでもある。
天気が良ければ桜を愛でる祭典となったのだが、この日の天候は午後に本降り予報が出ていた。
(H29. 4. 8 EOS40D撮影)
勾田町で初めて拝見する行事であるがハタアメの風習は見られなかった。
そのときに伺った区長や評議員らが話していた春日神社の祭典である。
春と秋の祭典に行われる当屋座行事である。
その行事に先立つ作業がある。
必要な祭りの道具を作って揃える作業も十人衆もお勤めである。
かつては頭屋座を勤める頭屋家が作業の場であった。
当時というか取材した日は平成17年の4月9日だった。
今では頭屋座ではなく、充てる漢字を換えて「当屋座」表記になっていた。
私の古いHPにはこう書いてあった。
「一老、二老、三老たちは御幣やヤナギの牛玉宝印作り、細竹に洗米を入れるなどの作業を行ない、四老から十老たちは庭で四臼の餅を搗き、神社へ供えます。直会を終えると一老のご婦人の挨拶で祭事が始まります。ご婦人からの神酒杯を順に酌み交わす所作は区長、一老から順に十老まで行なわれ、再び戻って二回杯します。その後、座中和やかに塩で煮た泥芋、牛蒡やアラメを食します。そして、神官を先頭に頭屋衆は旧道を通り、春日神社に参拝します。石上神宮神官による奉幣神事が行なわれた後、頭屋衆は再び同じ酒を酌み交わす所作を行ないますが、最期に粗餅を食する違いがあります」だった。
一老、二老、三老は御幣にヤナギの木に挟む牛玉宝印書を版木で摺って作る。
四老以下はカドニワで臼を設えて杵で餅搗きをしていた。
12年前とは現在の様相はずいぶんと変化したと区長が話していた。
大きな違いは座や作業の場である。
頭屋家に負担をかけずに行うには場を換える。
椀や座布団などの接待道具が揃っている神社社務所に移された。
ただ、そうすることでお渡りの行程が短くなったことは否めない。
久しぶりにという気持ちもあるが、変化を受け止めて現況を知る。
当時の取材では気がつかなかったこともあるから、再確認。
そういうことも大切と考えて再訪することにした。
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朝8時半、社務所に集まった人たちは壮年齢の十人衆。
一老を務めるNさんは昭和39年生まれの53歳。
実にお若い一老である。
三老は親戚筋の従弟になるNさん。
同姓である。
一老、三老家は大正3年に創業した製綿製造業のふとん店にリネン業を営む家系であった。
もっと若い方は十老。
年齢は41歳とあるから壮年どころではない若手層である。
12年前に伺ったときはもっと年老いていたように思える。
老いていたといっても、現在の私の年齢(66歳)くらいのように見えていた。
年々、下がった年齢は当時よりずいぶんと若返ったものだと話す区長や十人衆であった。
会所でもある神社社務所の玄関前に手水を設える。
水を張った木製の手水桶に一個の石を沈めていた。
かつては頭屋家のお風呂をいただいて潔斎をしていた。
禊ぎの入浴を済ましてから行う祭り道具の調整作業であった。
そのときの時代、風呂桶に入れていたのが手水桶に沈めた禊ぎ石である。
朝の6時の潔斎。
頭屋家のたいへんさの一つであったが、9年前に辞めたという。
この禊ぎ石は大切に保管、継承するために箱を作った。
その箱に「平成16年10月吉日 当屋座 禊石」と書いてあるから、私が取材した平成17年はすでに入浴潔斎はせずに手水潔斎に移っていた。
ところで、ここら辺りには車を停める場所がない。
十人衆に尋ねてみれば、うちの駐車場に少し余裕があるから、そこなら大丈夫と云われて停めさせてもらった。
ありがたいことである。
ちなみに停めた駐車場は会社従業員らが停める場所。
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その傍ら外れの一角に大木があった。
樹木が何の木であるのかわからないが、小社が建っていた。
その社下に「八王子」文字を刻んだ石標があった。
ここは祭典を終えた十人衆一行が回礼巡拝する場であった。
八王子回礼は春日神社境内を入れて5場所もある。
一カ所に複数の八王子もあるそうだ。
作業の服装は普段着。
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会所前の広庭にブルーシートを拡げて作業に移る。
この日は曇天。
せっかく咲いた桜の花は雨に打たれかけていた。
今にも本降りになりそうな曇天に作業は外でするしかない。
外で作業する材はごーさん札を挟むカワヤナギの枝木と八王子回礼に立てる小幣用の細い竹である。
細竹は神社付近にお住まいのM家に譲ってもらう。
まずは幣作り。
残しておいた見本を参考に伐り出す。
細竹は枝を落とす。
見本に合わせた長さに整えるが、節目の位置も合わせておく。
行事仕様によれば根元より1/3程度の長さになるように伐るようだ。
両先端を鉈で伐って尖らせるが、形状は異なる。
下部側になる部分は斜めに角度をつけてそぎ落とす。
一方は深い山型というか、U字型に伐りこむ。
その部分は幣を挟むために縦に割れ目を入れておく。
そして、内部に適量の洗い米を入れてできあがる。
これを16本も作る。
次の作業はカワヤナギ。
『当屋座行事』帳によれば、枝の根元を3~4等分に切れ目を入れ、そこに印を押した和紙を半分に折って挟み込み云々とある。
ナタで切り目を入れるのは意外と難しい。
カワヤナギの枝は細いから切れ目の深さをどこまでにするか。
それもあるが真っすぐに伐らないと折れてしまうからおそるおそるだ。
ここで気になるのが切れ目の等分である。
ヤナギの根元に挟むのはこれより一老たちが版木で摺って作るごーさん札である。
これまで数十カ所を調査してきたオコナイ行事がある。
挟む木の違いは見られるが、伐り込みは三つである。
四つはあり得ないが、二つは数か所で見つかった。
基本は三つの伐り込み。
T字型が尤もであるが、これもまた違って三方に拡がるようにして伐り込みを入れる地域もあった。
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外の作業はもう一つある。
サカキに幣付けである。
幣は一老らが幣切りするのではなく、市販品を購入するそうだ。
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会所座敷で作業されるのは一老、二老、三老の3人。
見本に残していたごーさん札を拝見する。
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版木で摺った文字は「牛玉 常樂寺 寶印」である。
朱の寶印は三つある。
「牛玉」と「寶印」の位置に押した印と中央に配置した「常樂寺」に押した印とは明らかに違うのがわかった。
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これより始まる版木摺りの合間に拝見した朱印はたしかに二つ。
綺麗な方は近年において作られたものと推測できる寶印。
それに対して印が崩れているのは形、色具合からして古いものである。
ところで、牛玉寶印書にある「常樂寺」とは一体どこにあるのであろうか。
春日神社の年中行事を支えているのは勾田町の当屋座である。
神社行事に「常樂寺」にかつて存在していたということであるが、記録はない。
あった、と考えるべき遺構が神社会所裏の小高い丘にある。
数々ある石塔の残欠などなど。
寺様式と判断できるが、それが常楽寺の遺構であるのか、確かめようがなかった。
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区有文書に「寺」関係の存在を示すような文でも発見されれば・・と思うのであるが、ただ中興の祖と思われる「中興明堂撤老和尚禅師」名の碑が立っていた。
一老らと「常楽寺」の話題を交わしていたときである。
「昔し、尼さんがいてはって・・」と先代から聞いていると話されたが、詳しいことはわからないようだ。
また、「常楽寺」の話題続きに、勾田町には善福寺があって、「薬師堂の地蔵まつり」があると云っていたが、詳しいことは聞かずじまい。
後日、あらためて確認したい行事である。
それはともかく版木で摺る枚数は20枚程度になるそうだが、集めるカワヤナギが18本であれば、牛玉寶印書は18枚になろう。
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その版木に墨書文字がある。
「寛政九丁巳年(1797)正月二〇日 奉再興牛王版木 施主松岡儀右エ門」であるが、文字字体が新しいように思えるし、「再」の文字より、新調した可能性も拭えない。
版木摺りは3人がそれぞれ役割分担して作業する。
版木に墨汁を塗って奉書に押し当てる。
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一枚、擦りあがれば寶印に墨汁の朱墨液を刷毛で塗って押す。
前述したように2種類の寶印の位置を間違えないように押す。
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そのころともなれば小雨降り模様になっていた。
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外の作業を終えてできあがったサカキに八王子回礼するときに供える竹の幣などは雨に当たらないように会所の軒下に並べていた。
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祭りの道具のすべてを作り終えたら、神社の清掃である。
綺麗に掃いた拝殿に並べて揃える。
半分に折った奉書は古そうな大きな皿に敷く。
そこに盛った洗い米の量は多い。
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手前の三つだけは山盛りの洗い米の上に、これもまた古くから使われてきたと思える素焼きのカワラケである。
蓋のような感じで乗せたかと思えば、そうではなかった。
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「酒」を注がれたので、皿の扱いであった。
これは本社殿に二盃を供える。
もう一盃は右にある末社になる。
三方に載せたのは白い大皿。
これらは薬師堂と観音堂に供える。
ただ、神饌御供を供えるのは神事の直前。
先に供えたら猫とか鳥獣の餌になってしまうから、後に、である。
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カワヤナギの根元に挟んだごーさん札こと牛玉寶印書。
県内各地にみられる寺行事の「オコナイ」と同じように奉られるごーさんである。
お寺行事であれば、僧侶が祈祷する。
だいたいが正月の月に行われる年頭行事の初祈祷である。
版木に正月実施されたと考えられる「寛政九丁巳年(1797)正月二〇日」日付けが物語る。
村の安寧を願って豊作を祈願する行事であるが、ここ勾田町では僧侶の姿は見られない。
石上神宮の神職によって行われる春の祭典である。
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提灯は雨に当たっても大丈夫なようにビニール袋を被せた。
こうして一連の準備を終えたら、一旦は会所で昼食を摂って午後の祭典に入るが、昼食は区長招きの会食である。
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十人衆の慰労の昼食会のようでもある。
天気が良ければ桜を愛でる祭典となったのだが、この日の天候は午後に本降り予報が出ていた。
(H29. 4. 8 EOS40D撮影)