初午、或はニノ午の日に奈良県の稲荷社行事にハタアメ(旗飴)を供える地域が存在することが判ってきた。
すべての稲荷社ではなく、特定の地域のようである。
これまでに拝見した地域は桜井市箸中・稲荷神社、同市三輪・成願稲荷神社のニ社。
かつてはあったとされる地域に高取町丹生谷・赤穂大明神がある。
箸中は新暦2月の初午の日、三輪や丹生谷は新暦3月のニノ午の日に行われている。
他所にもあるのではと思ってネットを駆使して探してみた。
一つは広陵町中に鎮座する小北(こぎた)稲荷神社で、もう一つは葛城市山田に鎮座する三神社が見つかった。
小北(こぎた)稲荷神社に出仕されている三郷町の坂本巫女の話しによればニノ初午の日だった。
この年は主治医より車の運転をしてはならないと厳命されていたので訪れることはできなかった。
もう一社の三神社に出仕・奉職される宮司は大字笛吹の持田宮司。
当地では村の都合もあってニノ午の日ではなく、だいたいが第二日曜のようだ。
五日前の診断で主治医から許可された。
近距離でという条件付きだ。
持田宮司に連絡をとって出かけた大字山田。
地図でだいたいの在所は判るが、村の人が集まる三神社の位置はどこであるのか。
近い付近に来たものの行先が判らない。
庭におられた男性に場所を尋ねたら、ここより山の方へ行ったところだと云う。
その場はすぐにわかった。
三神社境内には村の人たちが集まって何やら仕掛をしていた。
木材を組み立てている男性たちが云うにはこの日の初午祭の供えられたモチを撒く場の櫓である。
何年か前に村にいた大工さんが作ってくれたという。
紅白の御供餅は当番の人が搗いた。
杵ではなく器械で搗いたというモチゴメの量は六斗。
三升で一臼搗いたというから相当数の量になる。
三神社の名がある通り、三神柱を祀っている。
祭神は伊邪那岐命、大山咋命、豊受姫命の三神であると、調べられた神社役員が平成22年に書き残されている。
葛城市のHPによれば、江戸時代は日吉大権現、明治三年には熊野祠、明治十二年に現社名の三神社になったそうだ。
大字山田は明治十三年の行政区域は忍海郡の山田村であった。
現在の葛城市内の一部に属しているのは山田村以外に忍海村、新町村(南花内村一部が独立)、南花内村、薑村、林堂村、西辻村、平岡村(平岡村の一部が独立して寺口村に)、山口村、笛吹村、脇田村、梅室村である。
一方、現在の御所市内に属している一部の地域は東辻村、北十三村、柳原村(今城村・新村・出屋敷村の合併)である。
山田の三神社に出仕される持田宮司は大字笛吹に鎮座する葛木坐火雷神社は周辺大字14ケ村の総鎮守社。
夏祭りや秋祭りに十二振提灯を献灯する氏子圏は多い。
大字山田もその一つ。
大字笛吹の他、南花内、新町、林堂、南新町、薑(はじかみ)、山口、西辻、脇田、平岡、忍海、梅室、東辻がある。
大字山田の戸数は昔も今もほとんど変わらずの17戸。
荒れた土地であったゆえ、酪農を主に生業とする地域は今でも4軒が乳牛を飼って生産する酪農家があるという。
ゴクマキ櫓を組み立てて宮司を待つ村人たち。
三神を祀る社殿の他、不動明王や灯籠などにはやや大きめの紅白餅を供えていた。
ありとあらゆる箇所だけにその数は多く、19ケ所にもなるそうだ。
三神社社殿はその一つ。
三神社社殿に同等ぐらいの社殿にも紅白餅を供えている。
正一位白髭大明神の名がある社殿だ。
白髭大明神は稲荷社。
他にも白主大神、白光大神などの名がある石神もある。
それぞれの稲荷社は信者さんたちが建てたようだと村の人がいう。
鳥居付近に建つ碑文塔がある。
供養塔と思われるそれには「西川タツ刀自之碑 大正十五年三月建之」とある。
村人曰く、当地に住んでいた碑文の女性に信仰を寄せていた講中が建てたという。
碑文建之の金額多寡は判らないが村費用も入っていたそうだ。
女性は拝みさん。
拝んでもらったら願いが叶ったといって、多くの信者さんが集まって仕えるようになり、講として徐々に膨れ上がったようである。
行をしていたと伝わる行場はおそらく不動明王の石仏を祀る滝であったと思われる。
現在の神社下は駐車場になっているが、かつては水田だった。
土地を宮さんに寄付されて土地利用を転じたそうだ。
前述した白髭大明神などの稲荷社は総本宮とされる京都伏見の伏見稲荷大社から寄せたらしい。
ちなみに白髭大明神拝殿に大太鼓がある。
大太鼓の台や太鼓を吊るす側面もあるが、肝心かなめの太鼓がない。
いつ盗られたのか判らないが、空洞である。
その台には四人の施主名が朱書きされていた。
山田の隣村にある新庄(吉川平蔵・川井リ□)が二人。
道穂(正本峯郎)と平岡(岡本国松)はそれぞれ一人ずつの計四人だ。
表面には「白髭大明神 代師 忍坂 こま 中井伊七」の名が記されていた。
「忍海」ではなく「忍坂」である。
「忍坂」は現桜井市の忍阪に違いない。
大太鼓がいつ寄進されたのか年代を示すものはなかったが、それほど古くはないだろう。
それにしても大字山田にあった大太鼓によって周辺近隣の平岡や新庄に道穂(みつぼ)。
しかも、稲荷信仰の師と考えられる人物は桜井市の忍阪。
周辺に住む信仰者によって支えられていたのであろうか。
この日は初午祭。
場は信者たちによって建てられたと思われる建物内で行われる。
何年か前までは信者さんがおられた。
その人を中心に村の人たちが行事の場に集まって般若心経を唱えていたという。
場の一角にある社殿は三つ。
中央にも左右の社殿にもお供えがある。
中央に供えたハタアメ(旗飴)。
これを探していた。
信者さんが生きていたころは、大勢の村の子供がいた時代。
お下がりのハタアメを貰いに来る子どもでいっぱいになったと話す。
ハタアメはそれぞれ色柄が異なる五色の幟旗。
5本揃って1組になる。
お店から購入したハタアメは50本というから10組である。
最近は貰いに来る子どももみなくなった。
そういうことで、昨年までは100本を供えていたが、この年は50本にしたそうだ。
村の厄年の人が供えるハタアメであるが、対象者がなければ村の費用から捻出するようだ。
ハタアメは村人が作ったものではない。
販売しているお店から購入する。
この年は御所市東辻の「あたりや」。
お菓子などを売っているそうだが、調べてみれば総合食品センターというから地域のスーパーのように思える。
この店になければ他店になる。
高田高校のすぐ近くにある大和高田市大中南東の森食品。
ここも地域のスーパーのようで販売店。
ハタアメを製造している店ではなさそうだ。
右の社殿の謂れは伝わらないが、左は「レイジンサン」の名がある。
充てる漢字は判らないという村人たち。
もしかとすればだが「レイジンサン」は「霊人さん」かもしれない。
その社殿だけはご飯を供えるようにと講中から伝えられている。
その場にはパンも供えているし、稲荷寿司に巻き寿司もある。
ご飯であれば何でも構わないそうだが、かつてはアブラゲとともに炊いたアブラゲゴハンだった。
ニンジン、シイタケなども入れて醤油、味醂で味付けしたアブラゲゴハンはイロゴハンとも呼んでいた。
当地のほとんどが稲荷社、しかも信者が亡くなって講組織が消滅した今も村人が継承している初午の供え方である。
信者さんがおられた時代はお供えを置く場所も決まっていたが、誰もいなくなった今ではどれが正解なのか誰も判断ができずに、だいたいがこういう感じだったと云って供えている神饌は生鯛、紅白二段餅、洗米、シイタケ・スルメ・コーヤドーフなどの乾物、野菜に果物だ。
建物はこうしてみると三つの社殿が並んでいる位置は拝み殿のようだ。
社殿前の導師が座る場もないぐらいに御供を置いている。
はみ出た御供で拝み殿は半分ほどだ。
信者さんがおられたころの、この場では毎月の1日と15日に拝んでいたそうだ。
その社殿の鴨居に般若心経の書を掲げてあった。
書体や配置、台紙の色合いを見て思いだした。
大和郡山市石川町の観音堂で拝見した般若心経の卓台とそっくり同じなのだ。
山田の台紙は額に入れられているものの若干ことなる。
左端に「祈願交通家内安全白髭講信者一同 昭和五十三年歳次戊午秋日 歳雄謹書」が書かれてある。
講中の名称は「白髭講」だったのだ。
この日、拝み殿に集まったのは女性がほとんど。
男性は僅かの数人。
奥の離れにも座っているが写角に入らない人数だ。
ハタアメの話題に一人の女性が話してくれた出里の思い出話。
御所市の玉手の体験である。
「お稲荷さんを祀っている家を廻ってハタアメを貰っていた」というのである。
何軒あったのか、どこから入手したのか覚えていない子どもの頃の記憶。
機会があれば地域を巡ってみたいものだ。
村には無住の浄土宗法城寺がある。
どちらかと云えば村の会所として利用しているのは同寺になるそうだ。
時間ともなれば持田宮司が到着された。
すでに供えてあった御供の並びに手をつけることはない。
村人が継いだ信者さんの並べ方を踏襲するということである。
宮司の務めは行事もそうだが村人への祓い清めが主である。
修祓、宮司一拝、祝詞奏上、代表区長の玉串奉奠を終えて拝み殿を降りる。
これより壇上にあがるのは村人である。
導師が一人、太鼓打ちも一人。
大正十三年生まれの老婦人が後ろに就く。
祭壇に立てたローソクに火を灯す。
稲荷社と思われる祭壇の神さんに向かって般若心経を三巻唱える。
座敷いっぱいに広がった村人たちの手には拍子木。
カチ、カチ、カチと叩く音が大きいのか、太鼓を打つ音や導師が唱える声は打ち消されていた。
最後に「はらえたまえ きよめたまえー かんこん しんそん にかんたん(そう聞こえたが・・・)」を唱えて祭典を終えた。
これより始まるのは村人楽しみのゴクマキ(御供撒き)。
この年は友人関係にある外国の人も参加していた。
どう思われたのか、感想を聞きたかったが、言葉は通用しないと思って遠慮した。
ゴクマキの場の後方は鳥居がある。
その向こうは参道だ。
染めた赤旗の文字は黒抜きの「正一位白髭大明神」。
今でこそ僅か数本になったが、かつては集落内どころか山麓線を越えて東に下った境界地あたりまで、ずらりと旗が連なっていたそうだ。
ちなみにいただいた一本の旗飴は帰宅して家で食べた。
想像していた味はキャンデイに近いのでは、と思っていたが、そうでなく和菓子屋さんの味。
ザラメなのかどうか判らないが、どこか懐かしい味がする。
なお、持田宮司の話しによれば隣村の大字山口にもハタアメ御供があるという。
当地には稲荷社がある。
行事は2月の初午だ。
同じく兼務社の梅室も初午にハタアメ御供があったが、宮さん行事が負担になった長老たちはやむなく中断したらしい。
(H28. 3.13 EOS40D撮影)
すべての稲荷社ではなく、特定の地域のようである。
これまでに拝見した地域は桜井市箸中・稲荷神社、同市三輪・成願稲荷神社のニ社。
かつてはあったとされる地域に高取町丹生谷・赤穂大明神がある。
箸中は新暦2月の初午の日、三輪や丹生谷は新暦3月のニノ午の日に行われている。
他所にもあるのではと思ってネットを駆使して探してみた。
一つは広陵町中に鎮座する小北(こぎた)稲荷神社で、もう一つは葛城市山田に鎮座する三神社が見つかった。
小北(こぎた)稲荷神社に出仕されている三郷町の坂本巫女の話しによればニノ初午の日だった。
この年は主治医より車の運転をしてはならないと厳命されていたので訪れることはできなかった。
もう一社の三神社に出仕・奉職される宮司は大字笛吹の持田宮司。
当地では村の都合もあってニノ午の日ではなく、だいたいが第二日曜のようだ。
五日前の診断で主治医から許可された。
近距離でという条件付きだ。
持田宮司に連絡をとって出かけた大字山田。
地図でだいたいの在所は判るが、村の人が集まる三神社の位置はどこであるのか。
近い付近に来たものの行先が判らない。
庭におられた男性に場所を尋ねたら、ここより山の方へ行ったところだと云う。
その場はすぐにわかった。
三神社境内には村の人たちが集まって何やら仕掛をしていた。
木材を組み立てている男性たちが云うにはこの日の初午祭の供えられたモチを撒く場の櫓である。
何年か前に村にいた大工さんが作ってくれたという。
紅白の御供餅は当番の人が搗いた。
杵ではなく器械で搗いたというモチゴメの量は六斗。
三升で一臼搗いたというから相当数の量になる。
三神社の名がある通り、三神柱を祀っている。
祭神は伊邪那岐命、大山咋命、豊受姫命の三神であると、調べられた神社役員が平成22年に書き残されている。
葛城市のHPによれば、江戸時代は日吉大権現、明治三年には熊野祠、明治十二年に現社名の三神社になったそうだ。
大字山田は明治十三年の行政区域は忍海郡の山田村であった。
現在の葛城市内の一部に属しているのは山田村以外に忍海村、新町村(南花内村一部が独立)、南花内村、薑村、林堂村、西辻村、平岡村(平岡村の一部が独立して寺口村に)、山口村、笛吹村、脇田村、梅室村である。
一方、現在の御所市内に属している一部の地域は東辻村、北十三村、柳原村(今城村・新村・出屋敷村の合併)である。
山田の三神社に出仕される持田宮司は大字笛吹に鎮座する葛木坐火雷神社は周辺大字14ケ村の総鎮守社。
夏祭りや秋祭りに十二振提灯を献灯する氏子圏は多い。
大字山田もその一つ。
大字笛吹の他、南花内、新町、林堂、南新町、薑(はじかみ)、山口、西辻、脇田、平岡、忍海、梅室、東辻がある。
大字山田の戸数は昔も今もほとんど変わらずの17戸。
荒れた土地であったゆえ、酪農を主に生業とする地域は今でも4軒が乳牛を飼って生産する酪農家があるという。
ゴクマキ櫓を組み立てて宮司を待つ村人たち。
三神を祀る社殿の他、不動明王や灯籠などにはやや大きめの紅白餅を供えていた。
ありとあらゆる箇所だけにその数は多く、19ケ所にもなるそうだ。
三神社社殿はその一つ。
三神社社殿に同等ぐらいの社殿にも紅白餅を供えている。
正一位白髭大明神の名がある社殿だ。
白髭大明神は稲荷社。
他にも白主大神、白光大神などの名がある石神もある。
それぞれの稲荷社は信者さんたちが建てたようだと村の人がいう。
鳥居付近に建つ碑文塔がある。
供養塔と思われるそれには「西川タツ刀自之碑 大正十五年三月建之」とある。
村人曰く、当地に住んでいた碑文の女性に信仰を寄せていた講中が建てたという。
碑文建之の金額多寡は判らないが村費用も入っていたそうだ。
女性は拝みさん。
拝んでもらったら願いが叶ったといって、多くの信者さんが集まって仕えるようになり、講として徐々に膨れ上がったようである。
行をしていたと伝わる行場はおそらく不動明王の石仏を祀る滝であったと思われる。
現在の神社下は駐車場になっているが、かつては水田だった。
土地を宮さんに寄付されて土地利用を転じたそうだ。
前述した白髭大明神などの稲荷社は総本宮とされる京都伏見の伏見稲荷大社から寄せたらしい。
ちなみに白髭大明神拝殿に大太鼓がある。
大太鼓の台や太鼓を吊るす側面もあるが、肝心かなめの太鼓がない。
いつ盗られたのか判らないが、空洞である。
その台には四人の施主名が朱書きされていた。
山田の隣村にある新庄(吉川平蔵・川井リ□)が二人。
道穂(正本峯郎)と平岡(岡本国松)はそれぞれ一人ずつの計四人だ。
表面には「白髭大明神 代師 忍坂 こま 中井伊七」の名が記されていた。
「忍海」ではなく「忍坂」である。
「忍坂」は現桜井市の忍阪に違いない。
大太鼓がいつ寄進されたのか年代を示すものはなかったが、それほど古くはないだろう。
それにしても大字山田にあった大太鼓によって周辺近隣の平岡や新庄に道穂(みつぼ)。
しかも、稲荷信仰の師と考えられる人物は桜井市の忍阪。
周辺に住む信仰者によって支えられていたのであろうか。
この日は初午祭。
場は信者たちによって建てられたと思われる建物内で行われる。
何年か前までは信者さんがおられた。
その人を中心に村の人たちが行事の場に集まって般若心経を唱えていたという。
場の一角にある社殿は三つ。
中央にも左右の社殿にもお供えがある。
中央に供えたハタアメ(旗飴)。
これを探していた。
信者さんが生きていたころは、大勢の村の子供がいた時代。
お下がりのハタアメを貰いに来る子どもでいっぱいになったと話す。
ハタアメはそれぞれ色柄が異なる五色の幟旗。
5本揃って1組になる。
お店から購入したハタアメは50本というから10組である。
最近は貰いに来る子どももみなくなった。
そういうことで、昨年までは100本を供えていたが、この年は50本にしたそうだ。
村の厄年の人が供えるハタアメであるが、対象者がなければ村の費用から捻出するようだ。
ハタアメは村人が作ったものではない。
販売しているお店から購入する。
この年は御所市東辻の「あたりや」。
お菓子などを売っているそうだが、調べてみれば総合食品センターというから地域のスーパーのように思える。
この店になければ他店になる。
高田高校のすぐ近くにある大和高田市大中南東の森食品。
ここも地域のスーパーのようで販売店。
ハタアメを製造している店ではなさそうだ。
右の社殿の謂れは伝わらないが、左は「レイジンサン」の名がある。
充てる漢字は判らないという村人たち。
もしかとすればだが「レイジンサン」は「霊人さん」かもしれない。
その社殿だけはご飯を供えるようにと講中から伝えられている。
その場にはパンも供えているし、稲荷寿司に巻き寿司もある。
ご飯であれば何でも構わないそうだが、かつてはアブラゲとともに炊いたアブラゲゴハンだった。
ニンジン、シイタケなども入れて醤油、味醂で味付けしたアブラゲゴハンはイロゴハンとも呼んでいた。
当地のほとんどが稲荷社、しかも信者が亡くなって講組織が消滅した今も村人が継承している初午の供え方である。
信者さんがおられた時代はお供えを置く場所も決まっていたが、誰もいなくなった今ではどれが正解なのか誰も判断ができずに、だいたいがこういう感じだったと云って供えている神饌は生鯛、紅白二段餅、洗米、シイタケ・スルメ・コーヤドーフなどの乾物、野菜に果物だ。
建物はこうしてみると三つの社殿が並んでいる位置は拝み殿のようだ。
社殿前の導師が座る場もないぐらいに御供を置いている。
はみ出た御供で拝み殿は半分ほどだ。
信者さんがおられたころの、この場では毎月の1日と15日に拝んでいたそうだ。
その社殿の鴨居に般若心経の書を掲げてあった。
書体や配置、台紙の色合いを見て思いだした。
大和郡山市石川町の観音堂で拝見した般若心経の卓台とそっくり同じなのだ。
山田の台紙は額に入れられているものの若干ことなる。
左端に「祈願交通家内安全白髭講信者一同 昭和五十三年歳次戊午秋日 歳雄謹書」が書かれてある。
講中の名称は「白髭講」だったのだ。
この日、拝み殿に集まったのは女性がほとんど。
男性は僅かの数人。
奥の離れにも座っているが写角に入らない人数だ。
ハタアメの話題に一人の女性が話してくれた出里の思い出話。
御所市の玉手の体験である。
「お稲荷さんを祀っている家を廻ってハタアメを貰っていた」というのである。
何軒あったのか、どこから入手したのか覚えていない子どもの頃の記憶。
機会があれば地域を巡ってみたいものだ。
村には無住の浄土宗法城寺がある。
どちらかと云えば村の会所として利用しているのは同寺になるそうだ。
時間ともなれば持田宮司が到着された。
すでに供えてあった御供の並びに手をつけることはない。
村人が継いだ信者さんの並べ方を踏襲するということである。
宮司の務めは行事もそうだが村人への祓い清めが主である。
修祓、宮司一拝、祝詞奏上、代表区長の玉串奉奠を終えて拝み殿を降りる。
これより壇上にあがるのは村人である。
導師が一人、太鼓打ちも一人。
大正十三年生まれの老婦人が後ろに就く。
祭壇に立てたローソクに火を灯す。
稲荷社と思われる祭壇の神さんに向かって般若心経を三巻唱える。
座敷いっぱいに広がった村人たちの手には拍子木。
カチ、カチ、カチと叩く音が大きいのか、太鼓を打つ音や導師が唱える声は打ち消されていた。
最後に「はらえたまえ きよめたまえー かんこん しんそん にかんたん(そう聞こえたが・・・)」を唱えて祭典を終えた。
これより始まるのは村人楽しみのゴクマキ(御供撒き)。
この年は友人関係にある外国の人も参加していた。
どう思われたのか、感想を聞きたかったが、言葉は通用しないと思って遠慮した。
ゴクマキの場の後方は鳥居がある。
その向こうは参道だ。
染めた赤旗の文字は黒抜きの「正一位白髭大明神」。
今でこそ僅か数本になったが、かつては集落内どころか山麓線を越えて東に下った境界地あたりまで、ずらりと旗が連なっていたそうだ。
ちなみにいただいた一本の旗飴は帰宅して家で食べた。
想像していた味はキャンデイに近いのでは、と思っていたが、そうでなく和菓子屋さんの味。
ザラメなのかどうか判らないが、どこか懐かしい味がする。
なお、持田宮司の話しによれば隣村の大字山口にもハタアメ御供があるという。
当地には稲荷社がある。
行事は2月の初午だ。
同じく兼務社の梅室も初午にハタアメ御供があったが、宮さん行事が負担になった長老たちはやむなく中断したらしい。
(H28. 3.13 EOS40D撮影)