中古屋さんの棚をみていたら背表紙に『十字架と復活の音楽 2008年春 / 山本 護』とあった。クラシックの棚だけどどんな音楽かは皆目わからない。てにとって裏をみれば「チェロのための〈十字架上の七つの言葉〉演奏 チェロ 山本 護』とある。これを手にとるのはお導き、迷わず500円で買いました。
日本基督教団八ヶ岳伝道所の牧師である山本護さんが作曲し、演奏したチェロの曲とチェンバロの演奏のようです。チェンバロの方は杉本周介
さんという方が演奏されている。
1曲目、ハイドンの楽曲構成を借用したそうだけれど、山本さんの作曲、現代音楽を作曲されるそうなので、ちょっとびびったけれど、序奏はゴスペルを感じる曲でした。
2曲目、現代音楽もはいっているのだろうけれど、力強いチェロのおとで下の解説にもあるように小さな日本の会堂での黙想という感じです。
3曲目なお一層の黙想感、ちょっと日本民謡のようなところが面白い。4曲目、5曲目、愁いを深めていくキリストの最後の七つの言葉を牧師さんが音楽にしているのだから、その心に沁みていくようなメロディ。
6曲目“われ渇く”もキリストの悲しみの声として沁み渡る。
序奏から7つのキリストの言葉の後、最後は“地震”はマタイ伝でこれは描写的な音楽になっているので、復活に至る部分なのだろうな。
そして続く2曲がチェンバロの演奏で復活の音楽なのでしょうがとても清々としながら力強い良い曲だと感じます。
演奏者について「複雑な山本作品を演奏させられ、神経症を悪化させた。」なんてこれは山本氏がかいているのだろうから、なんか懐ふかい牧師さんかもしれません。
どのような経緯でこのCDができたのか解らないけれど、録音も山本氏の自宅、ある意味自主制作なのだろうけれど、これもお導きなのだろう。
アーメン
CDにチェロ曲の題材、十字架上の七つの言葉について書かれていたのだ、まるでわからないけれど書き写しておきます。
<十字架上の七つの言葉>は、J.ハイドンの同名管弦楽曲(弦楽四十奏曲版、オラトリオ版もある)の楽曲構成を借用している。ハイドン作品は1780年、スペイン・カディスの聖堂から、四旬節(最終週か受難週)のための黙想曲の作曲依頼を受けて作られたもの。その時期には、聖書七箇所からキリスト最後の言葉が読まれ、黙想と音楽が融合する。チェロで奏される十字架の言葉は、カディス聖堂での七つの聖書箇所に準じつつ、小さな日本の会堂での黙想を想定したもの。言葉の意味性だけでなく、文語訳の韻文だからこそ染み入るキリストの味わいを重視している。」
十字架と復活の音楽 (2008年春) 作曲 山本 護
<曲目>
チェロのための <十字架上の七つの音楽> 演奏 チェロ:山本護
1.序奏 1:30
2.第一の言葉 『彼らを赦し給へ』 3:40
「斯くて言ひ給ふ『父よ、後らを赦し給へ。その為す所を知らざればなり』。ルカ傳福音書23章34節
3.第二の言葉 『パラダイスに在るべし』 2:22
「イエス言ひ給ふ『われ誠に汝に告ぐ、今日なんぢは我と偕にパラダイスに在るべし。』ルカ傳福音書23章43節
4.第三の言葉 『視よ、なんぢの子なり』 2:40
「イエスその母とその愛する弟子との近くに立てるを見て、母に言いたまふ『をんなよ、視よ、なんぢの子なり』。」ヨハネ傳福音書19章26節
5.第四の言葉 『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』3:24
「三時にイエス大聲に『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』と呼はり給ふ。之を釈けば、わが神、わが神、なんぞ我を見棄て給ひし、との意なり。」マルコ傳福音書15章34節
6.第五の言葉 『われ渇く』 3:52
「この後イエス萬の事の終りたるを知りて=聖書の全うせられん為に=『われ渇く』と言ひたまふ。」ヨハネ傳福音書19章28節
7.第六の言葉 『事畢りぬ』 2:46
「イエスその葡萄酒をうけて後いひ給ふ『事畢りぬ』遂に首をたれて霊をわたしたまふ。」ヨハネ傳福音書19章30節
8.第七の言葉 『わが霊を御手にゆだぬ』 4:20
「イエス大聲に呼はりて言ひ給ふ『父よ、わが霊を御手にゆだぬ』斯く言ひて息絶えたまふ。」ルカ傳福音書23章46節
9.地震 2‥36
「視よ、聖所の幕、上より下まで裂けて二つとなり、また地震ひ、磐さけ、墓ひらけて、眠りたる聖徒の屍體おほく活きかへり」マタイ傳福音書27章51節
鍵盤音楽のための <復活の日の前奏とフーガ> 演奏 チェンバロ:杉本周介
10.前奏 1:57
11.フーガ 7:17
「息を吹きかけ言ひたまふ『聖霊を受けよ。汝ら誰の罪を赦すとも其の罪ゆるされ、誰の罪を留むるとも其の罪とどめらるべし』」ヨハネ傳福音書20章22節
total 37:15
批評「詩的芸術の世界化と音楽」 中村不二夫