二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

生   柳美里(小学館)

2010年03月09日 | ドキュメンタリー・ルポルタージュ・旅行記
「魂」につづいて「生」を読みおえたので、感想を書いておこう。
「ボリュームがかなり大きい。つまみをもっと絞ったほうが、より効果的なのではないか。少なくとも、わたしの好みとして」
「弱いのだなぁ。だから、ストレスを強く感じてしまう」
「被害的な感受性がある。ナゼワタシダケガコンナメニ! と書かれている。『あなただけではありませんよ。あなたよりひどい状況に追い込まれている人は、いくらでもいる』といってみたくなる」

そんな不満がなくはない。
東由多加という人のことも、ほんとうのところはよくわからないし、周辺人物は、すべて点景的に描かれている。
しかし、そこが持ち味なのである。まさに私小説的現実。追いつめられた小動物が、もてる限りの力をふりしぼって、必死にたたかっている。東由多加のために、そして、自身のために。
本書の現実は、「自己劇化」が必要とした背景にすぎないのか? つまり、お芝居でいう、書き割りに。
――そうではあるまい。

1. 医療ノンフィクションあるいはガンの闘病手記
2. スキャンダラスで自虐的な私小説
3. 極限の場所で展開される風変わりな恋愛小説
4. 女流作家が書いた鎮魂のノンフィクション
5. 現代的な家族小説または、子育て奮闘記
6. 家族創成と、喪失の物語

いろいろ考えていくと、こういった要素が渾然一体となった作品なのである。
批評や歴史物を別とすれば、現代小説をめったに読まないわたしが、めずらしく本気モードになった。
読みすすむにしたがって、徐々に露わになっていく関係。
柳美里は、東とのあいだに、4人もの「水子」がいた・・・。
憎しみあい、傷つけあって別れた男女が、なぜ、第二のステージへとあがることになったのだろう。常識的に考えれば「生」というこのノンフィクションそのものが、
人生の深淵であり、男とはなにか、女とはなにかという問いかけになっている。

柳美里は、いわば「大いなる物語」を生き、演じきろうともがいている。いや、そいうふうに、「わたし」を設定している。それに対し、わたしは、やっぱり「私小説的」といってみたい衝動を抑えることができない。
マンションの部屋に侵入した泥棒によって強姦されかけたという事件が発生し、貴重品をすべて入れておいたバッグを盗まれてしまう。彼女は被害届を出し、取り調べをうける。さりげない一挿話として読み過ごしてしまいそうだが、このあたりの描き方には、作家的な力量がほとばしっているといえる。見るべきものがあるとして、それを、しっかり見届けている。

柳美里は、生活費をかせぐために書いている。リアルなお金の話が、要所要所に出てくる。
わたしは、そういうところを、評価する。出版社から、あるいは、友人から、追いつめられた彼女はお金を借りるのだ。「人間って、そういうものだよ。なさけない。だけど、いきることって、そういうことじゃないの? つらい。悲しい。嘘もつくし、はったりもいう。そこまでして生きる価値がほんとうにあるの?」
彼女はつつみ隠さずぶちまける。そうして、読者のこころをゆさぶらずにおかない。
たとえ短い期間であったにせよ、東は柳美里と、彼女が生んだ丈陽のために生きようとしたのである。いや、それを「夢みた」というべきかもしれない。
「この人のためになら、生きられる」
人間は、そう決意する瞬間に遭遇するのだ。運命である。運命とは・・・その人間が選びとったものでもある。病はどんどん重くなっていく。排泄がうまくいかない。東は彼女に浣腸を頼むようになる。健康なら耐えがたい恥辱かもしれないが、彼女に対しては、おのれのそういう姿をさらすのだ。「許し合った仲」でかわされる、滑稽で、じつに奇妙な儀式。逃れようとし、引き戻される。家族は誕生したとたんに、崩壊へとむかう。

柳美里がまねき寄せ、描いてみせた、峻烈なある生の終焉の物語。


評価:★★★★

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