小林よしのりについては、もうOFFモードにしておこうと考えていた。
感想といっても「ふんふん」という以上、あまりいうべきことがない。
たまたま本書と「沖縄論」が、BOOK OFFの105円コーナーに出ていたのだ。
それで、ついふらふらっ、と手にとってしまった。
大東亜戦争肯定論の立場から書かれた、単純明快な靖国論。
「戦争論2」や、「新ゴーマニズム宣言」vol.11~14などから、靖国論として再録した章がかなりある。吉本さんは、小林の論をおおすじでは認めながら、こういった言辞のくり返しは「戦前思想への復帰」でしかない、とうけとめているようである。
「共同幻想論」の著者としては、わかりやすい、当然の批判だろう。俗耳に入りやすい感情論が幅をきかせているからである。
小林さんは、本来は倫理の地平で論じられるべき問題に対するこだわりが、非常に強烈。朝日新聞をはじめとする、風見鶏的な新聞・マスコミの論調は、たしかに「まやかし」に満ちている。戦前はすべてのマスコミが、戦争推進の太鼓持ち記事を書いたではないか?
そして敗戦。手のひらを返したように、アメリカに寄り添って、人権と民主主義の鼓吹者に一変する。小林さんは、「大朝日」に論戦をしかけ、孤軍奮闘しているようにみえる。
読んでいくとわかるが、既成の右翼にも左翼にもいっさい配慮していない。だから、孤軍奮闘というのである。むろん「靖国問題」の高橋哲哉にも食いさがっている。
しかし、こういった手法は、はてしない左右両派との論戦に結局はうもれてしまい、「言論界」の一エピソードとして消え去っていくのではないか?
そういった危惧を、わたしはいだいてしまう。マンガは若い世代に対し、大きな影響力をもっている。本書を読んで「保守化」する読者は、どのくらいの数にのぼるだろうか。その影響力については、いわゆるインテリ評論家の比ではあるまい。
若くして戦死したり、自死を選んだりした人たちの手記がある。
だが、そのほとんどすべてが「型にはまった遺書」となってしまうのは、なぜだろう。自分の頭で必死に考えたというより、お手本を踏んで、「納得のうえの死」であることを、自他に宣言するための儀式――というふうに見えてしまう。
ここで思い出すのは、森鴎外の「かのように」の哲学。
小林さんのマンガにここまでつきあってきて、しだいに明らかになってきたのは、まさにこの「かのように」ふるまえ、という倫理的な姿勢である。単純な「復古思想」ではない。
少なくとも、わたしには、そうとしか思えないのである。
踏み込んでこまかいことをあげつらえば、賛成したい部分もあるし、反対意見もある。それに対し、いちいちリアクションをしるそうとは思わない。
小林さんのゴーマニズム宣言は「思想マンガ」といわれているらしい。
わたしとしては、活字離れがいちじるしいといわれる若い世代が、この人のマンガを手にし、それにインスパイアされて、他の本へとすすんでくれることを願わずにはいられない。
考えるとは、まさにことばを獲得するプロセスそのものでもあるからだ。
ところで・・・。わたしは過去にいちどだけ、靖国詣をしている。
そのときは、名所だから、いっぺんは足をはこんで、この目でたしかめておこう、という程度の関心しかなかった。
本書を読んで、いずれまた、靖国詣をしたいものだ、と考えはじめた。
失礼ないい方かもしれないけれど、これはすごい「効用」ではないか!
評価:★★★★
感想といっても「ふんふん」という以上、あまりいうべきことがない。
たまたま本書と「沖縄論」が、BOOK OFFの105円コーナーに出ていたのだ。
それで、ついふらふらっ、と手にとってしまった。
大東亜戦争肯定論の立場から書かれた、単純明快な靖国論。
「戦争論2」や、「新ゴーマニズム宣言」vol.11~14などから、靖国論として再録した章がかなりある。吉本さんは、小林の論をおおすじでは認めながら、こういった言辞のくり返しは「戦前思想への復帰」でしかない、とうけとめているようである。
「共同幻想論」の著者としては、わかりやすい、当然の批判だろう。俗耳に入りやすい感情論が幅をきかせているからである。
小林さんは、本来は倫理の地平で論じられるべき問題に対するこだわりが、非常に強烈。朝日新聞をはじめとする、風見鶏的な新聞・マスコミの論調は、たしかに「まやかし」に満ちている。戦前はすべてのマスコミが、戦争推進の太鼓持ち記事を書いたではないか?
そして敗戦。手のひらを返したように、アメリカに寄り添って、人権と民主主義の鼓吹者に一変する。小林さんは、「大朝日」に論戦をしかけ、孤軍奮闘しているようにみえる。
読んでいくとわかるが、既成の右翼にも左翼にもいっさい配慮していない。だから、孤軍奮闘というのである。むろん「靖国問題」の高橋哲哉にも食いさがっている。
しかし、こういった手法は、はてしない左右両派との論戦に結局はうもれてしまい、「言論界」の一エピソードとして消え去っていくのではないか?
そういった危惧を、わたしはいだいてしまう。マンガは若い世代に対し、大きな影響力をもっている。本書を読んで「保守化」する読者は、どのくらいの数にのぼるだろうか。その影響力については、いわゆるインテリ評論家の比ではあるまい。
若くして戦死したり、自死を選んだりした人たちの手記がある。
だが、そのほとんどすべてが「型にはまった遺書」となってしまうのは、なぜだろう。自分の頭で必死に考えたというより、お手本を踏んで、「納得のうえの死」であることを、自他に宣言するための儀式――というふうに見えてしまう。
ここで思い出すのは、森鴎外の「かのように」の哲学。
小林さんのマンガにここまでつきあってきて、しだいに明らかになってきたのは、まさにこの「かのように」ふるまえ、という倫理的な姿勢である。単純な「復古思想」ではない。
少なくとも、わたしには、そうとしか思えないのである。
踏み込んでこまかいことをあげつらえば、賛成したい部分もあるし、反対意見もある。それに対し、いちいちリアクションをしるそうとは思わない。
小林さんのゴーマニズム宣言は「思想マンガ」といわれているらしい。
わたしとしては、活字離れがいちじるしいといわれる若い世代が、この人のマンガを手にし、それにインスパイアされて、他の本へとすすんでくれることを願わずにはいられない。
考えるとは、まさにことばを獲得するプロセスそのものでもあるからだ。
ところで・・・。わたしは過去にいちどだけ、靖国詣をしている。
そのときは、名所だから、いっぺんは足をはこんで、この目でたしかめておこう、という程度の関心しかなかった。
本書を読んで、いずれまた、靖国詣をしたいものだ、と考えはじめた。
失礼ないい方かもしれないけれど、これはすごい「効用」ではないか!
評価:★★★★