二草庵摘録

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チェーホフ「ワーニャおじさん」(小野理子訳 岩波文庫2001年刊)を読む

2019年04月03日 | 座談会・対談集・マンガその他
若いころから念願であったチェーホフの「ワーニャおじさん」を、ようやく読むことができたので感想を書いておく。

なんといっても、戯曲は小説に較べて読みにくい。
お芝居(新劇)など観覧したことのないわたしには、舞台の様子が脳裏に浮かんでこないのだ。
要するにお芝居を上演するため、セリフと、わずかなト書きからなっている。だからある意味、自分が演出家とならなければならない。

「たぶんこうだろう。いやこうかな? うーん、違うか・・・」
しかも、詳しい説明がなされているわけではないから、登場人物たちの経歴やこれまでのいきさつ、生活ぶりや事件などを推測しなければならない。つまり登場人物は「過去」を背負って、ステージの上に立っている(ノ_-)。
想像力をはたらかせ、セリフから、その過去を再現しないといけない。その“想像力”がなかなかはたらいてくれないのだ。

これは「オイデプス」だろうが、シェークスピアだろうが、戯曲はすべて同じ。
したがって、舞台演劇やTVドラマ化、映画化されたものを観ないで、戯曲を本で読むというのはどうしても抵抗がある。

「ワーニャおじさん」は、「かもめ」や「桜の園」とならんで、十代の終わりころから、ずーっと読みたい作品であった。本は神西清訳の新潮文庫を、活字が大きくなるたび買い替えていた。
しかし、十数ページすすむと、そこからさき、ハードルを越えることができない。
そういう「読みにくさ」を感じている読者が多いのではなかろうか?

そこでこの岩波文庫と出会った(^^)/
ステージ写真が、数葉入っているのがありがたい。その上、小野理子さんの解説が、簡にして要を得たすばらしいもの♪ むろん訳もいい。時代背景が頭に入っていないと、彼らがなぜもめているのか、よくわかないからだ。
何で、何でワーニャ(イワン・ペトローヴィチ・ヴォイニーツキイ)が、セレヴリャコーフに対してピストルをぶっ放すのか(?_?)
それが、本書においてようやく腑に落ちたのだ。

まあ、それでもやや唐突の感は否めない。小野さんの解説によると、初演直後にもこの「唐突さ」については批判があったようだが、チェーホフは頑として聞き入れなかった。
当時のロシアは革命前夜といった、急激な社会的変貌にさらされていた。
学者というか、インテリとしての生活に没頭してきたセレヴリャコーフの価値は、時代の変貌で無意味なものと化してしまう。「インテリであること」を断念し、農夫として生きる道を選んだワーニャは、セレヴリャコーフにつくしてきたことが許せない。
ワーニャは何しろ何十年も仕送りを続けてきたのだ。

ところでチェーホフは、一人、たいへん興味深い人物を創造している。それが、年とった乳母、マリーナである。
小神さんの解説から引用する。
《ヴォイニーツキイとセレヴリャコーフの“命がけ”の争いも、「雄のガチョウどもは、ちいとばかりガアガア騒いで、おさまります」》
乳母マリーナは、このドラマのいわば外側に立っているのだ。彼女は生活に対しても、社会の変革に対しても、何ら幻想を抱いてはいない。

ロシアの広大な農地の経営を、じっさいに仕切ってきたのは、この年とった乳母であり、没落地主のテレーギンであり、ちらと姿を見せる下男である。
すべて端役にすぎないこういう人物を登場させることで、作者はこの戯曲を本当に奥行きあるものにしたのだ。
もう一人、この作品を書いたチェーホフが描き出したおもしろい人物がいる。だれだって気が付くと思うが、医者のアーストロフである。これがチェーホフその人の自画像なのだ。

彼は医者としての自分にうぬぼれてはいない。だからアーストロフを、美女エレーナにいい寄る好色な人物として、辛辣に描き出している(^^;)
しかし一方では、自分にできる最高の行為は、人につくすこと、そしてロシアの豊かな自然、縮小し荒廃しつつある森林を守ること・・・という高い志をもつ人物であるという、二面性をあたえた。「ワーニャおじさん」における、チェーホフのもっとも顕著なメッセージは、これである。
それを見逃してしまえば、ドラマの大半は“ガチョウどものちょっとした騒ぎ”、ドタバタにすぎなくなる。



「ワーニャおじさん」は、時代と自分を鋭く見つめたチェーホフのほろ苦い一幅の絵画であろう。われわれは、なぜ、何のために生きているのか、そしてこれから、どうするのか?
チェーホフはそのことを、他の時代、他の人びとに問いかけている。


評価:☆☆☆☆☆

※なお、最後にひとこと。本書では注釈が見開きページの左隅にレイアウトされ、とても利用しやすくなっている。岩波でもほかの文庫では見られないので、おそらく訳者小野理子さんの提案であろう。
この文庫本と出会うことがなければ、「ワーニャおじさん」は一生読まなかったかもしれない。ありがとうございました、小野さん。

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