「こころをふるわす街角」というものが存在する・・・とわたしは考えている。
それを、ことばで、うまく定義することはむずかしい。
ことばにはならないというか、定義したつぎの瞬間、水が手のひらからこぼれて消えていくように、ことばが消えていく。
街には「こと」や「もの」があふれている。
今日は1時間100円というパーキングにクルマをあずけて、前橋市の中心街を、ちょうど1時間、歩いてきた。
お天気は、明るい曇り。
かなり肌寒く、買ってまもないマフラーを首に巻き、LX5とニコンD7000(24mmF2.8レンズ)をさげていった。
LX5ではカラー、D7000ではモノクローム。
こんなふうに撮りわけるのは、普段はめったにやらない(^^;)
眼の生理のようなものが違うから、その切り替えが忙しい。
モノクロから2枚、カラーから2枚、この日記にピックアップしておこう。
前橋市の繁華街のはずだが、飲屋街は、店の大部分が撤退してしまって、40代の三毛ネコさんがスナックをハシゴしていたころの賑わいはない。
‘ヒト・モノ・カネ’がここから逃げ出し、別な場所に移動してしまったのである。
しかし、街は鼓動している。衰弱はしているけれど、死んでいるわけではない。
どんな文明、どんな国家、どんな町にも、誕生があり、衰亡があり、死滅がある。
宇宙規模でいえば、恒星や惑星がそうであるように・・・。
かつて、壮年期にバブルを体験したわたしなどは、その後の日本が、ゆっくりとした衰亡への道をたどっているように思えてならない。
「わたしが帰るべき場所」はどこなんだろう。
魂をいこわせる、たましいの故郷のようなものが、きっとどこかにあるという感覚が、わたしをいざなう。
それが、撮影のパッションであり、源泉であるように思われるけれど、ほんとうのところはよくわからない。
無意識の世界には、もしかしたら、わたし自身予想のつかない、意外なものが、たくさん眠っているのだろう。
そうだ・・・来年こそは、東北へいこう。
宮沢賢治の、「遠野物語」と「北国の春」の、そしてイザベラ・バードの、太宰治「津軽」の東北へ。