<EMIクラシクスのホームページから引用>
このあいだの日記でも取り上げたけれど、mixiがほんとうに使いにくくなってしまった。
トップページ(mixi home)はほとんど“ごみ箱”である。
つぶやきを優先して表示するからこうなるのだけれど、他の人たちは、どうお感じなのだろう?
ごみ箱の中からあふれてくるのは、「こういうブログを(他のサイトに)アップしました」
「どこやらへ写真を投稿しました」「スイカを食べたけれど、まずかった」「**さんとお友達になりました」といった類の、中身をともなわない断片化されたごみばかり。
つまり投稿した本人にしか意味がない、洟をかんだあとのテッシュか、たばこの吸い殻か・・・90%はそういうものでうめつくされる。
会社が開設しているメールが、やっぱりごみ箱化しているので、「必要な情報」にたどりつくのは、容易ではない。
しっかり内容をともなった日記と写真アルバムしかフォローしていないわたしのようなユーザーは、mixiを開くたびに、ちょっと暗澹とした気分になってしまう(=_=)
読み応えのある日記や、すぐれたアルバムのアップ率が減少し、ごみばかりが幅をきかせている。「mixiも地に墜ちたものだなあ」とわたしなどは考えているけれど、むろん、こういうごみ箱を歓迎しているユーザーもあるのだろう(^_^)/~う
こんな愚痴めいたことを書いたとて、仕方ない。
今日はジャクリーヌ・デュ・プレについて、ほんの少し書いておこう。
わたしはじつは、彼女のチェロによって、この楽器の真の表現力に目覚めた無知蒙昧の徒である。
カザルスや、ロストロポーヴィチや、ヨーヨー・マも、それぞれにすごい天才なのだろうが、感動の質がまるで違う。
彼女のチェロの魅力を、どんなことばで表現したらいいのだろう。
そこで考えついたのが「呻吟する魂のしらべ」ということばだった。
テクニックだけなら、デュ・プレ以上の演奏者はほかにいるだろうが、音が出てくる場所というのか・・・胸の奥底のようなところからしぼり出されるしらべの重みがまるで違うのである。
なぜこんなことを書く気になったかというと、これまたYouTubeで、つぎのような動画を発見し、食い入るように見つめ、耳をすました、その結果である(^^;)
■Jaqueline Du Pre
http://www.youtube.com/watch?v=mOLc1VGacq8&feature=fvwrel
http://www.youtube.com/watch?v=_J-Iwtzzge8&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=63oyKi6fyD8
わたしはデュ・プレについては、音楽事典に掲載されている程度の知識しかないし、CDも、2枚しか聴いていない。
しかし、その2枚、ドボルザークとエルガーのチェロ協奏曲は、すばらしい音楽である。
これは神がチェロを弾かせるために生み出した、ただそのためだけに生まれてきた天才である・・・といいたくなるほど、デュ・プレがつくり出す音色は、凄絶な響きをもっている。
「いや、彼女の後半生、多発性硬化症で夭折したというエピソードを知っていて聴くから、余計にそうおもえるのだろう」
そういう人がいることは否定はしない。しかし、どう考えても、ただそれだけではない。
デュ・プレが使ったストラディバリは、現在ヨーヨー・マの手に渡っているそうである。
興味がある人は、たとえば、エルガーのチェロ協奏曲を、デュ・プレとヨーヨー・マで聴き比べてみるがよろしい。YouTubeで聴ける。
うっかり聴いていると、はじめは熱演型のパセティックな演奏と区別がつきにくい。
しかし、そうではない――なにかがいわば、彼女にのり移っているといってみたくなるような、一音から一音へとつながって生まれる流れが、音楽的な必然性にのって響く、その見事さといったら。チェロとは、こういう楽器だったのか・・・と、わたしは再認識せずにはいられなかった。
むろん、YouTubeでこの動画を見たのは、これがはじめて。
音楽には無知蒙昧な素人であるわたしのようなファンは、こういうところから、デュ・プレ理解のきっかけをつかむしかない。
呻吟する魂のしらべ、Jaqueline Du Preのチェロ。
・・・いやはや、そう何回もつづけて、お気軽に聴ける音楽ではないけれど。
このあいだの日記でも取り上げたけれど、mixiがほんとうに使いにくくなってしまった。
トップページ(mixi home)はほとんど“ごみ箱”である。
つぶやきを優先して表示するからこうなるのだけれど、他の人たちは、どうお感じなのだろう?
ごみ箱の中からあふれてくるのは、「こういうブログを(他のサイトに)アップしました」
「どこやらへ写真を投稿しました」「スイカを食べたけれど、まずかった」「**さんとお友達になりました」といった類の、中身をともなわない断片化されたごみばかり。
つまり投稿した本人にしか意味がない、洟をかんだあとのテッシュか、たばこの吸い殻か・・・90%はそういうものでうめつくされる。
会社が開設しているメールが、やっぱりごみ箱化しているので、「必要な情報」にたどりつくのは、容易ではない。
しっかり内容をともなった日記と写真アルバムしかフォローしていないわたしのようなユーザーは、mixiを開くたびに、ちょっと暗澹とした気分になってしまう(=_=)
読み応えのある日記や、すぐれたアルバムのアップ率が減少し、ごみばかりが幅をきかせている。「mixiも地に墜ちたものだなあ」とわたしなどは考えているけれど、むろん、こういうごみ箱を歓迎しているユーザーもあるのだろう(^_^)/~う
こんな愚痴めいたことを書いたとて、仕方ない。
今日はジャクリーヌ・デュ・プレについて、ほんの少し書いておこう。
わたしはじつは、彼女のチェロによって、この楽器の真の表現力に目覚めた無知蒙昧の徒である。
カザルスや、ロストロポーヴィチや、ヨーヨー・マも、それぞれにすごい天才なのだろうが、感動の質がまるで違う。
彼女のチェロの魅力を、どんなことばで表現したらいいのだろう。
そこで考えついたのが「呻吟する魂のしらべ」ということばだった。
テクニックだけなら、デュ・プレ以上の演奏者はほかにいるだろうが、音が出てくる場所というのか・・・胸の奥底のようなところからしぼり出されるしらべの重みがまるで違うのである。
なぜこんなことを書く気になったかというと、これまたYouTubeで、つぎのような動画を発見し、食い入るように見つめ、耳をすました、その結果である(^^;)
■Jaqueline Du Pre
http://www.youtube.com/watch?v=mOLc1VGacq8&feature=fvwrel
http://www.youtube.com/watch?v=_J-Iwtzzge8&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=63oyKi6fyD8
わたしはデュ・プレについては、音楽事典に掲載されている程度の知識しかないし、CDも、2枚しか聴いていない。
しかし、その2枚、ドボルザークとエルガーのチェロ協奏曲は、すばらしい音楽である。
これは神がチェロを弾かせるために生み出した、ただそのためだけに生まれてきた天才である・・・といいたくなるほど、デュ・プレがつくり出す音色は、凄絶な響きをもっている。
「いや、彼女の後半生、多発性硬化症で夭折したというエピソードを知っていて聴くから、余計にそうおもえるのだろう」
そういう人がいることは否定はしない。しかし、どう考えても、ただそれだけではない。
デュ・プレが使ったストラディバリは、現在ヨーヨー・マの手に渡っているそうである。
興味がある人は、たとえば、エルガーのチェロ協奏曲を、デュ・プレとヨーヨー・マで聴き比べてみるがよろしい。YouTubeで聴ける。
うっかり聴いていると、はじめは熱演型のパセティックな演奏と区別がつきにくい。
しかし、そうではない――なにかがいわば、彼女にのり移っているといってみたくなるような、一音から一音へとつながって生まれる流れが、音楽的な必然性にのって響く、その見事さといったら。チェロとは、こういう楽器だったのか・・・と、わたしは再認識せずにはいられなかった。
むろん、YouTubeでこの動画を見たのは、これがはじめて。
音楽には無知蒙昧な素人であるわたしのようなファンは、こういうところから、デュ・プレ理解のきっかけをつかむしかない。
呻吟する魂のしらべ、Jaqueline Du Preのチェロ。
・・・いやはや、そう何回もつづけて、お気軽に聴ける音楽ではないけれど。