『国木田独歩のカメラ・アイ』
このシリーズ第2回は国木田独歩「忘れえぬ人々」である。
国木田独歩は明治4年(1871)に生まれ明治41年(1908)に37才で死去している。
「武蔵野」一編がとくに有名で、はじめて読んだのは20才前後のころ。
小説というより、エッセイだな・・・という印象をうけた。本文中で独歩が断っているように、だれが読んでも、二葉亭四迷訳のツルゲーネフの影響が色濃いとネタがばれている。それに「枕草子」以来のわが国の自然観がシンクロしたのであろう。
当時独歩は渋谷村に住んでいたというが、そのころの渋谷は家並みのそこここに田畑が残っているような農村であった。そういう時代を生き、早世した小説家である。
《武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへゆけばかならずそこに見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある。武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当《あて》もなく歩くことによって始めて獲《え》られる。春、夏、秋、冬、朝、昼、夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、ただこの路をぶらぶら歩いて思いつきしだいに右し左すれば随処《ずいしょ》に吾らを満足さするものがある。これがじつにまた、武蔵野第一の特色だろうと自分はしみじみ感じている。》(「武蔵野」引用は青空文庫より)
たいへん有名で、よく引用される一節である。
とくに「武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない」というところは、街歩きしながら写真を撮るときのわたしのキャッチフレーズみたいなものである。やや美文調だなと感じはするものの、名文と称していいだろう。事業ではことごとく失敗して貧窮にあえいだ時期があったようだけれど、こういった天性の詩人は本来事業家には向かない。
わたしは独歩の愛読者ではない。 新潮文庫には「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯・酒中日記」の二冊があるが、わたしが読んでいるのは、そのうち10編かそこいらだけ。
しかし、どういうわけか「武蔵野」と「忘れえぬ人々」の二編はお気に入りで、これまで数回読み返している。
この二編は短編作家独歩の代表作たるにふさわしい名編である。
まず、こんな描写がある。
《客が足を洗ッてしまッて、まだふききらぬうち、主人《あるじ》は、
『七番へご案内申しな!』
と怒鳴ッた。それぎりで客へは何の挨拶《あいさつ》もしない、その後ろ姿を見送りもしなかった。真っ黒な猫《ねこ》が厨房《くりや》の方から来て、そッと主人《あるじ》の高い膝《ひざ》の上にはい上がって丸くなった。主人《あるじ》はこれを知っているのかいないのか、じっと目をふさいでいる。しばらくすると、右の手が煙草箱《たばこいれ》の方へ動いてその太い指が煙草を丸めだした。
『六番さんのお浴湯《ゆ》がすんだら七番のお客さんをご案内申しな!』
膝の猫がびっくりして飛び下《お》りた。
『ばか! 貴様《きさま》に言ったのじゃないわ。』
猫はあわてて厨房《くりや》の方へ駆けていってしまった。柱時計がゆるやかに八時を打った。》(「忘れえぬ人びと」引用は青空文庫より)
いかがです? こんなダイナミックな文章の書き手が明治の作家でほかにだれがいるだろう。映画の場面転換のように視点が移動する。しかし、読者に少しもせわしない印象をあたえない。本作が発表されたのが、明治31年であることを考慮に入れてほしい。夏目漱石の名作「坊っちゃん」の発表が明治39年である。それに先んじること約8年で、これだけ見事な言文一致の文章が書けた。
新潮文庫の解説にもあるように、独歩の作品は「同感の人」を相手に物語るという形式にあてはめたものが多い。この「忘れえぬ人々」の場合では、たまたま旅先の宿でいっしょになった「同感の人」に向かって思い出話をするという、いわば“額縁小説”である。
そこに「忘れえぬ人」三人が登場する。一人目は瀬戸内を航行する船舶の甲板から目撃した島の磯をあさっている人物、二人目は阿蘇山ですれ違った馬子の若者、三人目は四国松山・三津ケ浜で、咽ぶように琵琶を奏でていた琵琶僧。
独歩は「忘れて叶うまじき人」(忘れてはいけない人)と「忘れえぬ人」を区別している。
旅先でたまたま見かけたり、すれ違ったりした人のうち、この三人が「なぜか」彼の印象に深く刻み込まれている。
こういう場面を読んでいると、もし独歩の時代にライカのような小型カメラがあったら、彼はかならずや写真を撮っていたろうとおもえること。こんどみたび本編を読み返していて、わたしの考えはほぼ確信に変わった。独歩のまなざしは、フォトグラファーのまなざしである。
「忘れえぬ人々」を読んでいると、独歩が目撃した光景が、じつにあざやかに読者の脳裏に甦ってくる。そのことばの喚起力たるや、たいしたものだとおもう。
いまのわたしには、とても、とてもこんな表現力はない。再度「忘れえぬ人々」の引用文を読み返してほしい。一筆書きであっさりした描写だけれど、必要なものだけでできている装飾品のように美しい。ムダなことばは一語たりともない。読者はその場のイメージを、――必要にして十分なイメージを手に入れる。
本編のラストシーンもすばらしい。
この作品は、円環構造になっているのである。ラスト数行を読んだ読者は、また冒頭にもどって、宿の主人(あるじ)に会いにいく。きっとそうせずにはいられない・・・というふうに書いてある。こういう手法を独歩はどこで知ったのだろう?
芥川龍之介の例を持ち出すまでもなく、日本の小説家、学者の多くは、西洋小説の模倣者、追随者であり、粉本、タネ本をお手本にしてあるケースがままある。
この「忘れえぬ人々」の場合も、なにかにヒントをえて書いている可能性が大きいが、それがだれのなんという作品か、寡聞にしてわたしは知らない。
国木田独歩は、マイナーな作家で、いまでは読まれることも少ないかもしれない。
しかし、わたしはこれからさき、また読み返すことがあるだろう。ここに挙げた二編は、フォトグラファー(写真を撮る人)たるわたしの心の奥深くに、いつのまにか、食い込んでいる。明治の傑作短編として推奨する所以である。
このシリーズ第2回は国木田独歩「忘れえぬ人々」である。
国木田独歩は明治4年(1871)に生まれ明治41年(1908)に37才で死去している。
「武蔵野」一編がとくに有名で、はじめて読んだのは20才前後のころ。
小説というより、エッセイだな・・・という印象をうけた。本文中で独歩が断っているように、だれが読んでも、二葉亭四迷訳のツルゲーネフの影響が色濃いとネタがばれている。それに「枕草子」以来のわが国の自然観がシンクロしたのであろう。
当時独歩は渋谷村に住んでいたというが、そのころの渋谷は家並みのそこここに田畑が残っているような農村であった。そういう時代を生き、早世した小説家である。
《武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへゆけばかならずそこに見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある。武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当《あて》もなく歩くことによって始めて獲《え》られる。春、夏、秋、冬、朝、昼、夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、ただこの路をぶらぶら歩いて思いつきしだいに右し左すれば随処《ずいしょ》に吾らを満足さするものがある。これがじつにまた、武蔵野第一の特色だろうと自分はしみじみ感じている。》(「武蔵野」引用は青空文庫より)
たいへん有名で、よく引用される一節である。
とくに「武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない」というところは、街歩きしながら写真を撮るときのわたしのキャッチフレーズみたいなものである。やや美文調だなと感じはするものの、名文と称していいだろう。事業ではことごとく失敗して貧窮にあえいだ時期があったようだけれど、こういった天性の詩人は本来事業家には向かない。
わたしは独歩の愛読者ではない。 新潮文庫には「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯・酒中日記」の二冊があるが、わたしが読んでいるのは、そのうち10編かそこいらだけ。
しかし、どういうわけか「武蔵野」と「忘れえぬ人々」の二編はお気に入りで、これまで数回読み返している。
この二編は短編作家独歩の代表作たるにふさわしい名編である。
まず、こんな描写がある。
《客が足を洗ッてしまッて、まだふききらぬうち、主人《あるじ》は、
『七番へご案内申しな!』
と怒鳴ッた。それぎりで客へは何の挨拶《あいさつ》もしない、その後ろ姿を見送りもしなかった。真っ黒な猫《ねこ》が厨房《くりや》の方から来て、そッと主人《あるじ》の高い膝《ひざ》の上にはい上がって丸くなった。主人《あるじ》はこれを知っているのかいないのか、じっと目をふさいでいる。しばらくすると、右の手が煙草箱《たばこいれ》の方へ動いてその太い指が煙草を丸めだした。
『六番さんのお浴湯《ゆ》がすんだら七番のお客さんをご案内申しな!』
膝の猫がびっくりして飛び下《お》りた。
『ばか! 貴様《きさま》に言ったのじゃないわ。』
猫はあわてて厨房《くりや》の方へ駆けていってしまった。柱時計がゆるやかに八時を打った。》(「忘れえぬ人びと」引用は青空文庫より)
いかがです? こんなダイナミックな文章の書き手が明治の作家でほかにだれがいるだろう。映画の場面転換のように視点が移動する。しかし、読者に少しもせわしない印象をあたえない。本作が発表されたのが、明治31年であることを考慮に入れてほしい。夏目漱石の名作「坊っちゃん」の発表が明治39年である。それに先んじること約8年で、これだけ見事な言文一致の文章が書けた。
新潮文庫の解説にもあるように、独歩の作品は「同感の人」を相手に物語るという形式にあてはめたものが多い。この「忘れえぬ人々」の場合では、たまたま旅先の宿でいっしょになった「同感の人」に向かって思い出話をするという、いわば“額縁小説”である。
そこに「忘れえぬ人」三人が登場する。一人目は瀬戸内を航行する船舶の甲板から目撃した島の磯をあさっている人物、二人目は阿蘇山ですれ違った馬子の若者、三人目は四国松山・三津ケ浜で、咽ぶように琵琶を奏でていた琵琶僧。
独歩は「忘れて叶うまじき人」(忘れてはいけない人)と「忘れえぬ人」を区別している。
旅先でたまたま見かけたり、すれ違ったりした人のうち、この三人が「なぜか」彼の印象に深く刻み込まれている。
こういう場面を読んでいると、もし独歩の時代にライカのような小型カメラがあったら、彼はかならずや写真を撮っていたろうとおもえること。こんどみたび本編を読み返していて、わたしの考えはほぼ確信に変わった。独歩のまなざしは、フォトグラファーのまなざしである。
「忘れえぬ人々」を読んでいると、独歩が目撃した光景が、じつにあざやかに読者の脳裏に甦ってくる。そのことばの喚起力たるや、たいしたものだとおもう。
いまのわたしには、とても、とてもこんな表現力はない。再度「忘れえぬ人々」の引用文を読み返してほしい。一筆書きであっさりした描写だけれど、必要なものだけでできている装飾品のように美しい。ムダなことばは一語たりともない。読者はその場のイメージを、――必要にして十分なイメージを手に入れる。
本編のラストシーンもすばらしい。
この作品は、円環構造になっているのである。ラスト数行を読んだ読者は、また冒頭にもどって、宿の主人(あるじ)に会いにいく。きっとそうせずにはいられない・・・というふうに書いてある。こういう手法を独歩はどこで知ったのだろう?
芥川龍之介の例を持ち出すまでもなく、日本の小説家、学者の多くは、西洋小説の模倣者、追随者であり、粉本、タネ本をお手本にしてあるケースがままある。
この「忘れえぬ人々」の場合も、なにかにヒントをえて書いている可能性が大きいが、それがだれのなんという作品か、寡聞にしてわたしは知らない。
国木田独歩は、マイナーな作家で、いまでは読まれることも少ないかもしれない。
しかし、わたしはこれからさき、また読み返すことがあるだろう。ここに挙げた二編は、フォトグラファー(写真を撮る人)たるわたしの心の奥深くに、いつのまにか、食い込んでいる。明治の傑作短編として推奨する所以である。