二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

記憶という迷宮

2018年11月01日 | Blog & Photo
  (いまから何十年か前、このそば屋に入ったことがあるような気がする)


人はだれでも、記憶という迷宮の中をさまよっている。
年をとればとるほど、当然ながら、記憶のローム層は分厚くなっていく。
1960年代、70年代、80年代、90年代・・・そして現在、2018年。

比較的よく覚えていること=A、うろ覚えになっていること=B、ほとんどまったく覚えていないこと=C、としてみよう。
そうすると、Cの部分がもっとも大きな割合を占めることがわかってくる。

しかし、忘れてしまったはずのことが、ある夜、夢となってふっと蘇ってくる。
そうか! そうだ! 
あんなことがあった、こんなこともあった。
わたしが覚えているのは、わたしの経験のほんの数パーセントに過ぎない。まさに氷山の一角といえるだろう(=_=)

最近の脳科学では、記憶のメカニズムはどのくらい解き明かされているのだろうか・・・。





記憶はいつも正しいとは限らない。むしろ変形し、歪み、他の記憶と入り交じったり、部分的に欠落していたり、じつに不完全なのものである。
回想とか回顧録というが、おそらくその多くはあとになって、作りなおしたものではないだろうか(?_?)
作りなおしたものでなければ、首尾一貫した「読み物」にはならないはずである。







ここにpic-upした写真は、ある意味で、わたしの古い記憶を(いや、記憶のかけらを)つれてやってくる。
あいまいで、不完全極まりない記憶の連鎖。捏造、あるいは勘違いということもあるしね(^^♪
たぐり寄せようとすると、ほんの数センチ先でとぎれてしまったり。
だけど、それがある夜の夢の中で、驚くほどはっきりと、ありあり蘇ってきたりする。
“わたし”という存在は、この記憶の総量のことだ・・・といってみたくなるが、それにしてはまことに頼りない、うすっぺらな内容である。
たとえば有名なプルーストの「失われた時を求めて」のようには、過去をあざやかに蘇らせることはできない。そのためには、特殊な能力が必要となるだろう。

記憶という迷宮。
わたしが年をとったせいなのか、別に理由があるのかつまびらかではないが、その迷宮を胸の奥底に抱えたまま、わたしはカメラを手にして、あちこちを歩きまわる。
フィルムのカメラをもっていると余計、記憶の迷宮に敏感になる。
「あのころ見たもの」や「あのころのわたし」や「あのころの風景」「あのころの町」を探している。

老年になるとは、こういうことであったのか!?
いまだ半信半疑ではあるが、正直にいって、心の他の領域では「かくもありなん」と納得してもいる(ノ_-)。
妙ちくりんな生き物なんだな、人間って。


ミカンがなっているのを見あげている92才の母。
その向こうにわたしのクルマ、息子のクルマが止めてある。




<撮影データ>
機材:ニコンFE2 ニッコール45ミリF2.8P。
フィルム:ロモカラー100。
現像、CD化後、階調をととのえるため、レタッチしています。

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