■渡辺京二「逝きし世の面影」平凡社ライブラリー 2005年刊
ここ数年の懸案だった「逝きし世の面影」をようやく読みおえた。
わたしの見るところ、これは異形の一冊というべき本。
なぜか?
理由は2つある。
1.非常に情緒的なタイトルである
2.ほぼ90%が引用文で埋め尽くされている
巻末に添えられた参考文献(邦語文献)の一覧を眺めるまでもなく、幕末・明治初期に日本を訪れた外国人による紀行文、旅行記、見聞録等からの引用である。改行は滅多になく、すべてのページに黒い文字が、息苦しいまでにびっしりと敷きつめられている。
よほど読書なれした人であっても、これを一行一行キチン頭に入れながら目でたどってゆくのはさほど簡単な作業ではないだろう。
《「私にとって重要なのは在りし日のこの国の文明が、人間の生存をできうる限り気持のよいものにしようとする合意とそれにもとづく工夫によって成り立っていたという事実だ」近代に物された、異邦人によるあまたの文献を渉猟し、それからの日本が失ってきたものの意味を根底から問うた大冊。1999年度和辻哲郎文化賞受賞。》BOOKデータベースより
大冊とあるが、一般的な新書に置きなおすと、4冊ないし5冊に相当する分量になるだろう(^^;
平凡社ライブラリー版というのは、新書のサイズにかぎりなく近いが、本書には小見出しはない。一章まるごと、改行なしでつづくのはある意味壮観!
しかもそのほとんどが引用文なのである。
オールコック「大君の都」
ゴロヴニン「日本幽囚記」
ゴンチャロフ「日本渡航記」
サトウ「一外交官の見た明治維新」
ジーボルト(シーボルト)「日本」
ニコライ「ニコライの見た幕末日本」
バード「日本奥地紀行」
ハリス「日本滞在記」
ベルツ「ベルツの日記」
モース「日本その日その日」
etc.
このほか大量の文献を丹念に読み込み、いわば再編集した本がこの「逝きし世の面影」である・・・といってもいいだろう。一つのセンテンスの中に、違った書物からの引用がしばしば混じり込んでいるので、油断できない。
おもしろかったので、途中で振り落とされる心配はなかったが、挫折する読者も少なくないのではないか?
わたしが今回たまたま手に入れた本は、
2018年 初版第38刷
であった。一刷3000部の場合114,000部、5000部の場合190,000部となる。そしてAmazonには448個ものレビュー(評価)が寄せられている。
日本人にとっては「あたりまえのこと」で意識にはのぼらない風習や日常であっても、外国人の目には、新鮮で、異様で、物珍しく映じる。だから旅行記であり、見聞録なのである。渡辺京二さんは、一貫してその在りようを執拗に追いつめてゆく。そのうえ、多くの挿絵がリアリティーをバックアップしている。
そして、あるところで、つぎのように述べる。
《私の関心は日本論や日本人論にはない。ましてや日本人のアイデンティティなどに、私は興味はない。私の関心は近代が滅ぼしたある文明の様態にあり、その個性にある。この視覚の差異は私にとって重要だ。そしてその個性的な様態を示すひとつの文明が、私自身の属する近代の前提であるゆえに、それは私の想起の対象となるのだ。》(516ページ)
またつぎのように書いているのは注目に値する。
《日本について「子どもの楽園」という表現を最初に用いたのはオールコックである。彼は初めて長崎に上陸したとき、「いたるところで、半身または全身はだかの子どもの群れが、つまらぬことでわいわい騒いでいるのに出くわ」してそう感じたのだが、この表現はこののち欧米人訪日者の愛用するところとなった。
事実、日本の市街は子どもであふれていた。スエンソンによれば、日本の子どもは「少し大きくなると外へ出され、遊び友達にまじって朝から晩まで通りで転げまわっている」のだった。》(388ページ)
引用したくなるエレメントはいたるところにあり、渡辺さんは、根気よく文言をつらねている。引用に引用を重ねてもどうかとかんがえるので、これ以上の引用は控える( -ω-)
《日本について「子どもの楽園」という表現を最初に用いたのはオールコックである》という通り、この国から子どもたちが消えた現実をあらためて突き付けられた感が強い。
いつのころからか子どもたちが消えてしまった、街路からも公園からも。
これは由々しき事態である、とわたしは思っている。ひと口に「少子高齢化社会」といってすまされることではない。
長めのあとがきから拝察するに、渡辺京二さんは情の強(こわ)い方である。本書も知情意でいえば、引用は知より情がまさっている。ドスン、ドスンと胸をたたかれている気分にしばしば陥った。江戸時代にはよいところもあったし、悪いところも同じくらいあったはず。よいところをクローズアップし、子細にのぞき込んだら、こういう光景が見えてくるということだ。
もう一度タイトルに注意してみよう。「逝きし世の面影」なのである。
全十四章のうち、
第一章 ある文明の幻影
第九章 女の位相
第十章 子どもの楽園
第十一章 風景とコスモス
生意気なことをいうようだが、このあたりがことに秀逸だと評価しておこう。他にほとんど類例がない著作である。
とにかく引用文だらけ。外国人による旅行記・紀行文・見聞録によって、日本を外側から見つめる。イザベラ・バード「日本奥地紀行」は二度、三度と読み返したくなる魅力にあふれているし、今後、ほかの旅行記・紀行文を読むのを愉しみにしている。
日本の美質だったものが、近代化と引き換えに失われていった。本書はそれに対する挽歌であり、墓碑銘あるいは秘められた慟哭の書(渡辺さんの目には涙は光っていないが)である。
引用文だらけなので、評価は4点にとどめておく。しかし、・・・しかしこういう著作があってはじめて、何がいつ、どのように滅びていったのかわかろうというものである。
最後に渡辺さんのこの労作に深甚なる感謝を捧げよう♪
(渡辺京二さんは1930年生まれ、90歳を超えてもお元気なご様子であります)
評価:☆☆☆☆
※写真はネット検索よりお借りいたしました、ありがとうございました。
ここ数年の懸案だった「逝きし世の面影」をようやく読みおえた。
わたしの見るところ、これは異形の一冊というべき本。
なぜか?
理由は2つある。
1.非常に情緒的なタイトルである
2.ほぼ90%が引用文で埋め尽くされている
巻末に添えられた参考文献(邦語文献)の一覧を眺めるまでもなく、幕末・明治初期に日本を訪れた外国人による紀行文、旅行記、見聞録等からの引用である。改行は滅多になく、すべてのページに黒い文字が、息苦しいまでにびっしりと敷きつめられている。
よほど読書なれした人であっても、これを一行一行キチン頭に入れながら目でたどってゆくのはさほど簡単な作業ではないだろう。
《「私にとって重要なのは在りし日のこの国の文明が、人間の生存をできうる限り気持のよいものにしようとする合意とそれにもとづく工夫によって成り立っていたという事実だ」近代に物された、異邦人によるあまたの文献を渉猟し、それからの日本が失ってきたものの意味を根底から問うた大冊。1999年度和辻哲郎文化賞受賞。》BOOKデータベースより
大冊とあるが、一般的な新書に置きなおすと、4冊ないし5冊に相当する分量になるだろう(^^;
平凡社ライブラリー版というのは、新書のサイズにかぎりなく近いが、本書には小見出しはない。一章まるごと、改行なしでつづくのはある意味壮観!
しかもそのほとんどが引用文なのである。
オールコック「大君の都」
ゴロヴニン「日本幽囚記」
ゴンチャロフ「日本渡航記」
サトウ「一外交官の見た明治維新」
ジーボルト(シーボルト)「日本」
ニコライ「ニコライの見た幕末日本」
バード「日本奥地紀行」
ハリス「日本滞在記」
ベルツ「ベルツの日記」
モース「日本その日その日」
etc.
このほか大量の文献を丹念に読み込み、いわば再編集した本がこの「逝きし世の面影」である・・・といってもいいだろう。一つのセンテンスの中に、違った書物からの引用がしばしば混じり込んでいるので、油断できない。
おもしろかったので、途中で振り落とされる心配はなかったが、挫折する読者も少なくないのではないか?
わたしが今回たまたま手に入れた本は、
2018年 初版第38刷
であった。一刷3000部の場合114,000部、5000部の場合190,000部となる。そしてAmazonには448個ものレビュー(評価)が寄せられている。
日本人にとっては「あたりまえのこと」で意識にはのぼらない風習や日常であっても、外国人の目には、新鮮で、異様で、物珍しく映じる。だから旅行記であり、見聞録なのである。渡辺京二さんは、一貫してその在りようを執拗に追いつめてゆく。そのうえ、多くの挿絵がリアリティーをバックアップしている。
そして、あるところで、つぎのように述べる。
《私の関心は日本論や日本人論にはない。ましてや日本人のアイデンティティなどに、私は興味はない。私の関心は近代が滅ぼしたある文明の様態にあり、その個性にある。この視覚の差異は私にとって重要だ。そしてその個性的な様態を示すひとつの文明が、私自身の属する近代の前提であるゆえに、それは私の想起の対象となるのだ。》(516ページ)
またつぎのように書いているのは注目に値する。
《日本について「子どもの楽園」という表現を最初に用いたのはオールコックである。彼は初めて長崎に上陸したとき、「いたるところで、半身または全身はだかの子どもの群れが、つまらぬことでわいわい騒いでいるのに出くわ」してそう感じたのだが、この表現はこののち欧米人訪日者の愛用するところとなった。
事実、日本の市街は子どもであふれていた。スエンソンによれば、日本の子どもは「少し大きくなると外へ出され、遊び友達にまじって朝から晩まで通りで転げまわっている」のだった。》(388ページ)
引用したくなるエレメントはいたるところにあり、渡辺さんは、根気よく文言をつらねている。引用に引用を重ねてもどうかとかんがえるので、これ以上の引用は控える( -ω-)
《日本について「子どもの楽園」という表現を最初に用いたのはオールコックである》という通り、この国から子どもたちが消えた現実をあらためて突き付けられた感が強い。
いつのころからか子どもたちが消えてしまった、街路からも公園からも。
これは由々しき事態である、とわたしは思っている。ひと口に「少子高齢化社会」といってすまされることではない。
長めのあとがきから拝察するに、渡辺京二さんは情の強(こわ)い方である。本書も知情意でいえば、引用は知より情がまさっている。ドスン、ドスンと胸をたたかれている気分にしばしば陥った。江戸時代にはよいところもあったし、悪いところも同じくらいあったはず。よいところをクローズアップし、子細にのぞき込んだら、こういう光景が見えてくるということだ。
もう一度タイトルに注意してみよう。「逝きし世の面影」なのである。
全十四章のうち、
第一章 ある文明の幻影
第九章 女の位相
第十章 子どもの楽園
第十一章 風景とコスモス
生意気なことをいうようだが、このあたりがことに秀逸だと評価しておこう。他にほとんど類例がない著作である。
とにかく引用文だらけ。外国人による旅行記・紀行文・見聞録によって、日本を外側から見つめる。イザベラ・バード「日本奥地紀行」は二度、三度と読み返したくなる魅力にあふれているし、今後、ほかの旅行記・紀行文を読むのを愉しみにしている。
日本の美質だったものが、近代化と引き換えに失われていった。本書はそれに対する挽歌であり、墓碑銘あるいは秘められた慟哭の書(渡辺さんの目には涙は光っていないが)である。
引用文だらけなので、評価は4点にとどめておく。しかし、・・・しかしこういう著作があってはじめて、何がいつ、どのように滅びていったのかわかろうというものである。
最後に渡辺さんのこの労作に深甚なる感謝を捧げよう♪
(渡辺京二さんは1930年生まれ、90歳を超えてもお元気なご様子であります)
評価:☆☆☆☆
※写真はネット検索よりお借りいたしました、ありがとうございました。