二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

正岡子規・在宅ケアの文学 ~2016年晩秋の読書から

2016年11月23日 | 俳句・短歌・詩集
このあいだから、正岡子規の周辺を徘徊している。まあ、無知な輩が、100年ばかり昔の本の周辺をうろついているわけである。
さて、今回は彼の著書の内容に立ち入るのはやめておく。もっと彼の著作を読み込んでから、腰を据えて感想を述べようとかんがえているからである。

子規における病床の著作は、いまふうにいえば「在宅ケア」の賜である。しかし、そのことはあまり、正面切って取り上げる批評家がいないようである。
父は彼が5才のとき死んでいるため、主として母方の支援を受けながら、子規が家族の輿望を担うかたちとなった。
「家族を養っているのはわしだ」という意識があるから、彼は母八重、妹律に対し、たいへん威張っている。いかにも明治の士族といった姿勢がぷんぷんにおっている。
読みすすめていればだれにでもわかることだが、子規の看護・介護にあたった女性二人が、舞台裏で彼をささえてくれなければ、彼の文学は成立しようがなかった。
脊椎カリエスという病とたたかっているのは、一人子規ばかりではなかった。このことは、いくら強調したとしても、しすぎることはないだろう。
「病床六尺」の世界は、母と妹あっての世界であった。

昨日、前橋の紀伊國屋書店に、とり寄せを依頼しておいた岩波文庫「漱石・子規往復書簡集」(和田茂樹編集)を受け取りにいった。
夕べぱらぱらとそのページをめくってみたが、往復書簡のすべてが残存しているわけではなく、伝わらないもの、失われてしまった書簡もあるようである。彼ら二人が出会った当初の書簡は、漱石が子規に宛てたもののみ収録されている。今後、新たに発掘される可能性があるのではないだろうか。

粟津則雄さんの解説は、文庫本のそれとしては委曲を尽くした解説になっていて、読者を導いてくれるのは歓迎できる。
それにしても、文語文、候文、難読漢字のオンパレードである。句読点をおぎない、ルビを振ってくれているから、わたしにもなんとか読めるが・・・。

そして「獺祭書屋俳話・芭蕉雑談」があったので、ついでにこれも買っておくことにした。
子規をろくに知らない人は、獺祭書屋とはなんのことだ・・・第一どう読むのだとお思いだろう。だっさいしょおくと読み、「獺祭書屋主人」は若きころの子規の俳号の一つなのである。

一方でわたしは漱石が漱石になる前の時代に関心を深めている。混沌未分の可能性の芽が、やがてどういう経路をへて、あの重苦しい反心理小説ともいうべき秀作「明暗」を生み出すにいたったのか?
青春期には子規との稀有な交流があったが、晩年の漱石には、そういう人物との交流はない。若い取り巻きは大勢集まってきたとはいえ、彼らが、師漱石のこころのすべてを受け止めてくれる存在であったのではない。



修善寺の大患後、漱石はかなりの量の漢詩をつくっている。晩年「明暗」を連載しているときも、午後は漢詩の作成に励んでいたようである。
そういった思いにとらわれながら、昨夜岩波新書で「新唐詩選」を読んでいたら、李白のこういう五言古詩と遭遇した。



《擬古》

今日風日好
明日恐不如
春風笑於人
何乃愁自居
吹簫舞彩鳳
酌醴鱠神魚
千金買一醉
取楽不求餘
達士遺天地
東門有ニ疏
愚夫同瓦石
有才知卷舒
無事坐悲苦
塊然涸轍魚

《古(いにしえ)のうたに擬(なぞら)えて》

今日(こんにち)風日(ふうじつ)好(よ)ろし
明日(みょうにち)は恐らく妙(し)かざらん
春風(しゅんぷう)は人に向かって笑う
何(なん)ぞ乃(すなわ)ち愁(うれ)いて自(み)ずから居(い)るやと
簫(ふえ)を吹いて彩(あや)ある鳳(おおとり)を舞わしめ
醴(あまざけ)を酌みて神(たえ)なる魚を鱠(なます)とせん
千金をもて一醉(いっすい)を買い
楽しみを取(もと)めて余(あと)を求めず
達(すぐ)れし士(ひと)の天地を遺(す)てたるためしは
東門にニ疏(そ)あり
愚かなる夫(おのこ)は瓦と石に同(ひと)しく
才有るもののみ卷舒(けんじょ)を知る
坐(い)ながらに悲しみ苦しみて
塊然(かいぜん)として涸(か)れたる轍(わだち)の魚のごときを事とする無からん


李白のこの詩が、わたしのこころの琴線をかき鳴らした。
晩年の漱石の胸中を、こういう風が吹いていたのであろうか?
《今日(こんにち)風日(ふうじつ)好(よ)ろし
明日(みょうにち)は恐らく妙(し)かざらん
春風(しゅんぷう)は人に向かって笑う
何(なん)ぞ乃(すなわ)ち愁(うれ)いて自(み)ずから居(い)るやと》



それにしても、明治という、この時代人の気骨はたいしたものである。昭和も戦後に生まれた現在の日本人とは比較しようもないだろう。漱石ばかりでなく、子規もずば抜けた秀才であったから、別格といえば、別格。
少壮のころから、彼らは漢詩を書いて閲覧し合っている。つまり漢学の伝統は、脈々として生きていたといことは見逃せない。

残念ながら、現代人の日本力は、彼らに遠くおよばない。では伝統としての日本語力が落ちた代わりに、英語力が上がったかといえば、そうともいえない。ヘミングウェイが好きだ、フィッツジェラルドのファンだと称する人たちだって、原文で読める語学力を身につけた人がはたしてどれほどいるだろう?
「和魂洋才」そして「教養」ということばがあるが、戦後も平成の世となって、どちらもほぼ完全に死語と化した。


ところで、文学をあいだにはさんだすばらしい知性のせめぎ合いは、子規の若過ぎる病死によって幕を下ろす。正岡子規35才、夏目漱石35才・・・子規が倒れたところから、小説家漱石の14年間の歩みがはじまる。






※なお、李白「擬古」は、つぎのサイトからお借りしています。
http://blogs.yahoo.co.jp/rnrtc497/53025007.html

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