大阪と和歌山を結ぶ阪和線に乗りましたが、乗車客は一車両に数人、多いと思う時でも、二人掛けの席に一人。それでも難なく座ることが出来ました。
いつもなら席を取り合うように坐っている時間帯です。
今日のマスクは。もちろんこれもティッシュ絵画でカバーしたものです。
一目で分かるように。今回このティッシュのお絵かきは、思い余って筆を使わずに絵具をぶちまけたものです。
いつまでもしつこいコロナの野郎!と言う思いが浮かんだときでした。勝手に手が動いて絵の具を溶いた容器を持ち上げティッシュの上にドバッと行きました。
紫色がじわーっと拡がり、白い部分に拡がって行きます。
これはまずいと思ったと思います。急いで白い部分に赤色を注ぎました。これは私の意志だったと記憶しています。(制作中のことは覚えていないことが多いいもので・・・)
紫と赤色がティッシュの上でぶつかり合って新しい領域が生まれてきます。その変化を私はただ見ているしかありません。どうなるかは絵の具同士が決めること。大げさですが、宇宙の変化を眺めているような気になります。
赤の領域を支援するように黄色を使いたくなりました。マスクにするとその部分はほとんど見えなくなりましたが・・
赤と紫の戦場、その最前線は、彩度が濁り黒っぽくなってしまいました。その色を生かしてやりたくなったので、黒っぽくなって明度のさがった部分を明るくしてやろうと、考えが動きます。
そこで 黒(最低明度)の容器に筆を浸し、絵具を二色が混ざってくすんだ部分に落としていきました。そのうちに出来る形が面白く見えてきて、なんだろう?なんだろう?と興味本位で形を造って遊びます。
そのうちに、この黒いものは龍だと気付きました。するとそこから創作が始まるのです。手足を描く。目や口を描く、つまりここから作業は無意識から意識的に切り替わる訳ですね。
余談ですが、単なる塗り絵が面白くないのは、この無意識の部分がないからだと思います。誰かに与えられたものをただ意識的に塗る作業だけというのが塗り絵の面白くない理由なのです。もちろん色選びの時点で無意識を楽しめば塗り絵も立派な創作として楽しめます。
私の言う創作とはこういうことです。つまり無意識のままでティッシュと付き合っている間は計算のない自分そのもの。そこには何の意味もない色の変化しかありませんでしたが、そのどこかに、突然自分と関係する何か具体的なものが見えてくるのです。するとそこからすべての色に意味が生まれるのです。それは突然やってきます。すると単なる色が空間に見えるようになる。これが創作なのです。つまり自分への気付きです。
たとえば小学生が箒を持って掃除中に、突然箒がギターになったり、鉄砲になったりするごっこ遊び、あれと同じですね。
今回のマスクを言葉で説明するとこんな感じになります。これから絵を楽しもうと思われている方のヒントになれば、幸いです。
ところで今年小学一年生と幼稚園に上がる二人のお子様を抱えるお母さんのマスクの、歴史に残る奮闘記録(写真)です。
お兄ちゃんは大きなマスク。
弟君は小さなマスク。
きちんと目的に迷いはありません。車や電車、アンパンパンマン。子供の喜びそうな図柄の布を使ってマスクをつくりました。
それもおもちゃ箱に一杯です。写真はほんの一部分。
さあどうですか。喜んでマスクをつける得意満面の子供たち。
100点満点です。
外出自粛が続く日本列島。危機的な医療崩壊を乗り切ってゆるやかに減少傾向です。緊急事態宣言解除の言葉もささやかれるようになってきました。
第二波、第三波を意識しながら、もうひと踏ん張り、明日のために耐え抜きましょう。
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