太平洋戦争の時に、今村均(いまむらひとし)という立派な陸軍大将がいた。
太平洋戦争のインドネシアでは日本軍の占領を歓迎した!アジア解放の聖戦だったのだ!との賛辞がネットで流布している。
実のところ現地で融和的な軍政を敷いた今村司令官(当時中将)の功績なのだが、参謀本部は甘っちょろいと今村を更迭し、以後は人心が離れて反乱もおこるようになった。
次の今村の任務がラバウル方面軍の司令官。早い段階からラバウルが激戦となると踏んだ今村は、兵站が途絶えても自給自足できる体制を構築し、ラバウル全島を要塞化した。
米軍はラバウル手強しと「飛び石作戦」でスルーしたこともあり、終戦後はラバウル守備の5万の将兵はひとりの餓死者も出さずに帰国できた。
今村は10年の禁固刑の戦犯として巣鴨プリズンに入るが、ラバウルに残った将兵が捕虜虐待の戦犯嫌疑で劣悪な環境の捕虜収容所にいると聞き及び、志願してラバウルの収容所に入る。
「部下たちを見捨てて自分だけが東京でのうのうと服役するわけにはいかない。島で服役したい」「我が将兵に罪はない。将兵を罰せず、我を罰せよ」と訴えている。
今村の言動にはマッカーサーは、「日本に来て初めて真の武士道に触れた」と感激している。
日本軍への敵愾心が濃厚なオーストラリア軍による現地の軍事裁判は、弁護人なしで判決を言い渡すだけの一方的なものだったが、今村は死刑判決の下った兵隊を最後まで慰めていたそうだ。
戦後9年目に今村は帰国するが、官位につくことなく自宅につくった小さな庵に籠り、晩年まで戦争犠牲者の供養をしていた。
インパール戦の失敗を部下の戦意の無さと言い逃れした牟田口中将、軍事裁判から海外逃亡をして自民党議員になった辻政信参謀とは対極の軍人。昭和史を調べていくと、戦争指導者たちの特権意識や独断専行に辟易することが多いのだが、今村のような人もいたのが救い。
TPP断固反対!ブレない政治をキャッチフレーズにした自民党が、政権に返り咲いた途端に掌返ししたが、ブレずに信義を貫いた今村均のような人が政治家になって欲しい。