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世界に誇れる日本の便所文化・・・狂歌編

2015年02月14日 08時07分00秒 | 失われゆく風景

 旅先のドライブインの便所にこんな張り紙が貼ってあった。

便器の外を小便で汚すなという婉曲的表現の注意書きだが、手書きの五七調の狂歌である事に注目したい。

 

いいぢゃないか。

風流である。

ドライブインは年季のいった古い焼肉屋だったが、店のオヤジさんが書いたのだろうか。

女性は知らないだろうが、男子トイレにはたまにこんな狂歌が貼られている事があり、俺の母校の糸魚川中学にも貼ってあった。

糸中の張り紙は、「一歩前進 心静かに手を添えて 外に散らすな 竿の露」とかと書いてあったと記憶している。

こっちは諧謔や捻りが少ないけど、用務員さんの仕事かな?

対して下は国道沿いの公衆トイレの張り紙・・・プラスチックだけどね。

国道の便所は、カチッとした(印刷?)横書きで、注意事項が直接的に書かれている。無味乾燥として風流じゃない。

 

古典落語「掛取り万歳」にこんな場面がある。

大晦日(オオツゴモリ)に長屋の店賃(タナチン・家賃のこと)を取りに来た家主(イエヌシ)に、貧乏で店賃を払えない男が言い訳をする。

直接的に言い訳をしないで、「人は好きなものには心奪われるっていうじゃねえか。」と、家主の趣味の狂歌で言い訳をするのだ。

男は如何に貧乏をしているかを次々に狂歌を詠みあげる。

「貧乏の この家(ヤ)に風情あり 質の流れに借金の山」・・・男

「いいねえ・・・山水かい。こうなると貧乏も風流だねえ~。」・・・家主

家主は風流な言い訳に関心して、借金返済を待って機嫌よく帰っていく。

己の貧乏でさえも諧謔で笑い飛ばす江戸庶民の文化があってこそ、ありそうでない笑い話が話芸として成立するのだ。

おおらかな時代である。

 

俺の好きな落語の話しをしても、オオツゴモリ?タナチン?質の流れ?という具合に、最近の若者は言葉の意味を知らないので、いちいち説明しないと通じないので苦労しますな。

若者じゃなくても、直接的表現を直接的にしか理解できない日本人が増えてきたように感じる。

まるで異文化の外人と会話している気分になる時がある。

四角四面な堅苦しい世の中になってきたのではないか?

 

子供の頃から落語好きで聴いていたが、子供でも意味の解らない言葉は前後の脈絡から察することができたし、古典落語は江戸から明治大正にかけて語り伝えられているので非常に練られており、誰が聴いても面白く出来ているのだ。

噺家さんも、現代人に馴染の薄くなった言葉や風俗を「まくら」でさりげなく説明をしてくれる。

まくらとは、落語本題に入る前の軽妙で簡素な説明・・・のようなもの。

つまり落語を聴くという事は、江戸庶民の教養講座であったという事ですな。

 

狂歌で婉曲的表現をする文化や古典落語は、共有された生活文化があって初めて同じイメージが持てるというモノ。

基層文化が失われては、言葉が通じないのは道理だ。

昭和の男としては寂しい限りですわ・・・まだ十分若いけどね。

くだんの焼肉ドライブインの便所入口には、昭和の匂いがプンプンするポスターが貼ってあった。

店の構えと雰囲気、客層も昭和そのもの。

駐車場にはカーテンで運転席を隠した長距離トラックがズラリと並んでいる。

運ちゃん達はドライブインで焼肉食って、そして本当はいけない事なのだけど、ビールでも飲んで寝ているのかな。

人間臭い、おおらかな時代の名残り。

運ちゃんのイビキは、古き佳き時代の挽歌だねえ。

 

 

 



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