熊本県人吉市麓町にある人吉城跡です。
人吉城は別名繊月城と呼ばれ、北側の球磨川を天然の外堀とし東側と南側は丘陵の断崖に堀をめぐらせた要塞堅固な城で国の史跡に指定されています。
鎌倉時代から明治維新までの670年間球磨地方を治めたのは、源頼朝に仕え地頭として赴いた相良(さがら)一族です。
最初に城を築いたのは平頼盛の家臣の矢瀬主馬佑でした。元久2年(1205)肥後国人吉荘の地頭に任ぜられた相良長頼は鵜狩りと称して主馬佑を謀殺し、城を拡張して原城と呼ばれる城を人吉城跡東南の台地上に築き上げました。
相良氏は天正9年(1581)に島津氏に降伏し、天正15年(1587)の九州征伐の際に島津の臣下として羽柴秀吉と戦いました。
降伏しましたが人吉城と領地を安堵され領主に戻りました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは石田三成に味方して伏見城など攻めたりしましたが西軍が敗れると徳川方(東軍)に内応し、戦功として徳川家康から2万2千石で領地を安堵されました。
文久2年(1862)の「寅助火事」と呼ばれる大火で城は全焼し、一部の建物が再建されはしましたが、明治10年(1877)の西南戦争で西郷隆盛軍の拠点となり灰塵に帰しました。城跡は人吉城公園として整備され、隅櫓や大手門脇多聞櫓と続塀が復元されています。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
人吉城は別名繊月城と呼ばれ、北側の球磨川を天然の外堀とし東側と南側は丘陵の断崖に堀をめぐらせた要塞堅固な城で国の史跡に指定されています。
鎌倉時代から明治維新までの670年間球磨地方を治めたのは、源頼朝に仕え地頭として赴いた相良(さがら)一族です。
最初に城を築いたのは平頼盛の家臣の矢瀬主馬佑でした。元久2年(1205)肥後国人吉荘の地頭に任ぜられた相良長頼は鵜狩りと称して主馬佑を謀殺し、城を拡張して原城と呼ばれる城を人吉城跡東南の台地上に築き上げました。
相良氏は天正9年(1581)に島津氏に降伏し、天正15年(1587)の九州征伐の際に島津の臣下として羽柴秀吉と戦いました。
降伏しましたが人吉城と領地を安堵され領主に戻りました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは石田三成に味方して伏見城など攻めたりしましたが西軍が敗れると徳川方(東軍)に内応し、戦功として徳川家康から2万2千石で領地を安堵されました。
文久2年(1862)の「寅助火事」と呼ばれる大火で城は全焼し、一部の建物が再建されはしましたが、明治10年(1877)の西南戦争で西郷隆盛軍の拠点となり灰塵に帰しました。城跡は人吉城公園として整備され、隅櫓や大手門脇多聞櫓と続塀が復元されています。
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