宮崎県日南市飫肥にある飫肥城です。
飫肥城は飫肥の町の北側、酒谷川と山川を臨む海抜60mほどの丘に建っています。康安2年(1362)砦程度のここに反乱兵士が立てこもりこの地方の豪族土持頼宣が平定したそうです。
鎌倉時代、工藤祐経が源頼朝より日向の地頭職に任ぜられました。それ以来日向の国主として支配してきました。6代目の伊東祐持は足利尊氏より都於郡に三百町の領地をもらい都於郡城を築いたのでした。
長禄2年(1458)薩摩の島津氏は伊東氏の南下に備え飫肥城を築き、志布志城の新納忠統を守備に当らせました。文明16年(1484)伊東祐国が都於郡城から飫肥に出陣し攻略しました。
しかしすぐに城は島津氏に奪回されました。伊東祐国は何回も飫肥城を攻めましたが攻略できず逆に戦死してしまいました。
伊東祐国の子尹祐と島津忠国は和睦しましたが尹祐の子義祐は飫肥城を攻め島津氏との間で奪回が繰り返されました。永禄11年には義祐の次男祐兵(すけたけ)が城主になっています。
島津の家督を継いだ義久が反撃を開始しました。元亀3年(1572)の木崎原の合戦で勝利を収め高原城を奪い、野尻城を手中にしました。天正5年(1577)都於郡城をも陥れ、伊東氏は豊後に逃れたのでした。
天正10年(1582)に本能寺の変が起き信長に代わり羽柴秀吉の天下になりつつありました。天正15年(1587)九州討伐で島津氏が降伏し、翌年南九州の国割が行なわれ伊東祐兵は秀吉より再び飫肥の地を拝領したのでした。
城下の形成は、祐兵が5万1千石で入城して本格的な建設がなされました。今でも、江戸時代初期の絵図に描かれた街路がそのまま使用されているのです。
伊東祐兵以後、明治初期まで280年間、伊東家は14代にわたって飫肥藩を治め続けたのです。飫肥城の旧本丸跡は元禄6年(1693)本丸ができるまで藩主の御殿でした。地震による地割れで移転されたそうです。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://ogino.okoshi-yasu.com/
飫肥城は飫肥の町の北側、酒谷川と山川を臨む海抜60mほどの丘に建っています。康安2年(1362)砦程度のここに反乱兵士が立てこもりこの地方の豪族土持頼宣が平定したそうです。
鎌倉時代、工藤祐経が源頼朝より日向の地頭職に任ぜられました。それ以来日向の国主として支配してきました。6代目の伊東祐持は足利尊氏より都於郡に三百町の領地をもらい都於郡城を築いたのでした。
長禄2年(1458)薩摩の島津氏は伊東氏の南下に備え飫肥城を築き、志布志城の新納忠統を守備に当らせました。文明16年(1484)伊東祐国が都於郡城から飫肥に出陣し攻略しました。
しかしすぐに城は島津氏に奪回されました。伊東祐国は何回も飫肥城を攻めましたが攻略できず逆に戦死してしまいました。
伊東祐国の子尹祐と島津忠国は和睦しましたが尹祐の子義祐は飫肥城を攻め島津氏との間で奪回が繰り返されました。永禄11年には義祐の次男祐兵(すけたけ)が城主になっています。
島津の家督を継いだ義久が反撃を開始しました。元亀3年(1572)の木崎原の合戦で勝利を収め高原城を奪い、野尻城を手中にしました。天正5年(1577)都於郡城をも陥れ、伊東氏は豊後に逃れたのでした。
天正10年(1582)に本能寺の変が起き信長に代わり羽柴秀吉の天下になりつつありました。天正15年(1587)九州討伐で島津氏が降伏し、翌年南九州の国割が行なわれ伊東祐兵は秀吉より再び飫肥の地を拝領したのでした。
城下の形成は、祐兵が5万1千石で入城して本格的な建設がなされました。今でも、江戸時代初期の絵図に描かれた街路がそのまま使用されているのです。
伊東祐兵以後、明治初期まで280年間、伊東家は14代にわたって飫肥藩を治め続けたのです。飫肥城の旧本丸跡は元禄6年(1693)本丸ができるまで藩主の御殿でした。地震による地割れで移転されたそうです。
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