旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

岡山城

2014年09月06日 | 旅 歴史
 岡山城は最初はもっと西にある石山という小さい丘の上にあり、大永年間(1521-28)金光備前によって築かれた石山城が始まりといわれています。当時、沼城に居城を置いていた宇喜多直家は金光宗高を謀殺し、天正元年(1573)に石山城に入り、城の改修と城下町造りを始めました。
 現在の岡山城の姿にしたのは直家の息子である宇喜多秀家だといわれています。岡山という丘に本丸が建てられたことから岡山城と称され、城下町も岡山と呼ばれるようになったようです。
 天正18年(1590)から城の大改修を始め、慶長2年(1597) に完成させました。旭川の流路を現在のように直し、三重の堀を廻らしました。天守閣は、野面積みの石垣を持つ平面不等辺五角形の天守台に、3層6階で安土城を模して天守閣を築いたのです。黒い下見張りの外観を持つことから「烏城」とか「金烏城」と呼ばれました。
 五大老でもあった宇喜多秀家は関ヶ原の戦いでは西軍に組しました。慶長5年(1600)この合戦に敗れ、八丈島へ流されました。代わって筑前国名島より小早川秀秋が52万石の大名として入封しました。2年後の慶長7年(1602)に秀秋は急死し、嫡子がいなかったため没収されてしまいました。
 慶長8年(1603)池田忠継(ただつぐ)が28万石で入城しました。忠継はこの時わずか5歳でした。忠継の母は徳川家康の娘の督姫であったことから城主になれたようです。異母兄の池田利隆が藩政を代行し、慶長9年(1604)領内検地を実施し、兵農分離、夫役の廃止などを行いました。
 わずか17歳で忠継は病没し、元和元年(1615)、同母弟の池田忠雄(ただかつ)が家督を継ぎました。寛永7年(1630)小姓の渡辺源太夫が河合又五郎に殺害されるという鍵屋の辻の決闘事件があり、脱藩した又五郎をかくまった旗本と外様大名の争いに発展しました。寛永9年(1632)忠雄は31歳の若さで没しました。
 忠雄の嫡男光仲が家督を継ぎましたが、幼小であることから因幡国鳥取へ転封となり、代わって鳥取から池田家宗家である池田光政が入封しました。光政は寛文10年(1670)日本最古の庶民の学校として閑谷学校を開き、教育の充実と質素倹約を旨とした「備前風」といわれる政治姿勢を確立しました。
 岡山郡代官・津田永忠を登用し、干拓などの新田開発、百間川(旭川放水路)の開鑿などの治水を行い、産業の振興も奨励しました。光政は水戸藩主・徳川光圀、会津藩主・保科正之と並び、江戸時代初期の3名君と称されました。
 以来池田氏が32万石をもって代々この地を治め、明治まで続きました。明治維新になり廃城になりましたが、天守閣、月見櫓、西丸西手櫓、石川門は残りました。しかし太平洋戦争中の昭和20年(1945)6月29日の空襲で天守閣と石山門が焼失してしまいました。
 西丸西手櫓と月見櫓だけは戦災を免れ、ともに国の重要文化財に指定されています。また本丸、櫓、門、旧本丸などの石垣、内濠及び日本3名園の一つの後楽園は国の特別名勝となっています。
 昭和41年(1966)岡山大学に残されていた設計図を基にして鉄筋コンクリート造りの天守閣が再建されました。内部は展示品を展示し、5・6階の展望室からは、後楽園が見えます。平成9年(1997)築城400年を機に、金箔瓦と金の鯱に改修され、かっての「金烏城」を再現させました。
 岡山城は天守を中心にして櫓35棟・多門6棟・城門32棟で固めた天下の堅城でした。三重6階の天守閣は全国的に見てもめずらしい不等辺5角形の天守台となっています。また荒々しい野面積の石垣も魅力です。城址は烏城公園として整備されています。

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