滋賀県大津市坂本に西教寺があります。
戒光山兼法勝(けんほっしょう)西教寺(さいきょうじ)は聖徳太子の創建と伝えられ、全国に450以上の末寺を持つ天台真盛宗(てんだいしんせいしゅう)の総本山です。西教寺は坂本駅の北西約1.5kmの比叡山3塔の一つである横川(よかわ)への登り口に位置しています。
寺伝では、聖徳太子が創建し、のちに天智天皇から西教寺の勅願(ちょくがん)を賜わり、平安時代に延暦寺中興の祖、慈恵大師(元三大師)こと良源(りょうげん)(913-985)が庵を造ったことを始まりとしています。
その弟子の恵心僧都こと源信(げんしん)(942-1017)が伽藍を整え、修行道場としたと伝えられています。その後、長らく荒廃していましたが、室町時代末期、中興の祖であり天台真盛宗の宗祖である真盛(1443-93)が入寺してから栄え再興しました。
真盛(しんせい)は19歳の時に延暦寺に入り、20年間修行を積み、権大僧都(ごんだいそうず)にもなった人です。真盛は「戒称二門」「円戒念仏」という阿弥陀仏の名を一心に称えることと称名念仏の励行を唱えました。以来、西教寺は戒律、念仏の道場となっています。
元亀2年(1571)、織田信長による比叡山焼き討ちの際に西教寺も焼失してしまいました。本堂は3年後に復興し、焼失した旧本尊の代わりに、浄福寺という寺から阿弥陀如来像を迎えて本尊としました。これが現存している丈六の阿弥陀如来像です。国の重要文化財に指定されています。
比叡山焼き討ちの後、近江国滋賀郡は明智光秀に与えられ、光秀はここに坂本城を築きました。坂本城と西教寺は地理的にも近く関係が深まり、総門・大本坊などを寄進し、復興に助力したようです。境内には、光秀の供養塔や明智一族の墓なども建てられています。
天正18年(1590)、後陽成天皇は綸旨を発し、応仁の乱後、荒廃して廃寺となっていた京都の法勝寺をその末寺である西教寺に合併させることにしました。法勝寺の寺籍は西教寺に引き継がれ、仏像、仏具も西教寺に移されました。「兼法勝西教寺」というのはここに由来しています。
江戸時代には徳川氏の庇護を受け、元和3年(1617)に90石の朱印状を与えられました。貞亨年間(1684-1688)にはさらに90余石を加増されています。元文年間(1736-1741)には堂塔が修営され、現存する本堂、祖堂、鐘楼、総門など再建されています。
総門をくぐると、参道の左右に6つの塔頭が並んでいます。参道の正面突き当たりには勅使門があり、その左に宗祖大師殿、奥の小高くなった場所に中心伽藍があります。本堂、客殿、書院などは回廊で結ばれています。中心伽藍を見下ろす高台に真盛上人廟が建てられています。
下記のサイトにもお立ち寄りください!
http://www.ueda.ne.jp/~ogino/japan/
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戒光山兼法勝(けんほっしょう)西教寺(さいきょうじ)は聖徳太子の創建と伝えられ、全国に450以上の末寺を持つ天台真盛宗(てんだいしんせいしゅう)の総本山です。西教寺は坂本駅の北西約1.5kmの比叡山3塔の一つである横川(よかわ)への登り口に位置しています。
寺伝では、聖徳太子が創建し、のちに天智天皇から西教寺の勅願(ちょくがん)を賜わり、平安時代に延暦寺中興の祖、慈恵大師(元三大師)こと良源(りょうげん)(913-985)が庵を造ったことを始まりとしています。
その弟子の恵心僧都こと源信(げんしん)(942-1017)が伽藍を整え、修行道場としたと伝えられています。その後、長らく荒廃していましたが、室町時代末期、中興の祖であり天台真盛宗の宗祖である真盛(1443-93)が入寺してから栄え再興しました。
真盛(しんせい)は19歳の時に延暦寺に入り、20年間修行を積み、権大僧都(ごんだいそうず)にもなった人です。真盛は「戒称二門」「円戒念仏」という阿弥陀仏の名を一心に称えることと称名念仏の励行を唱えました。以来、西教寺は戒律、念仏の道場となっています。
元亀2年(1571)、織田信長による比叡山焼き討ちの際に西教寺も焼失してしまいました。本堂は3年後に復興し、焼失した旧本尊の代わりに、浄福寺という寺から阿弥陀如来像を迎えて本尊としました。これが現存している丈六の阿弥陀如来像です。国の重要文化財に指定されています。
比叡山焼き討ちの後、近江国滋賀郡は明智光秀に与えられ、光秀はここに坂本城を築きました。坂本城と西教寺は地理的にも近く関係が深まり、総門・大本坊などを寄進し、復興に助力したようです。境内には、光秀の供養塔や明智一族の墓なども建てられています。
天正18年(1590)、後陽成天皇は綸旨を発し、応仁の乱後、荒廃して廃寺となっていた京都の法勝寺をその末寺である西教寺に合併させることにしました。法勝寺の寺籍は西教寺に引き継がれ、仏像、仏具も西教寺に移されました。「兼法勝西教寺」というのはここに由来しています。
江戸時代には徳川氏の庇護を受け、元和3年(1617)に90石の朱印状を与えられました。貞亨年間(1684-1688)にはさらに90余石を加増されています。元文年間(1736-1741)には堂塔が修営され、現存する本堂、祖堂、鐘楼、総門など再建されています。
総門をくぐると、参道の左右に6つの塔頭が並んでいます。参道の正面突き当たりには勅使門があり、その左に宗祖大師殿、奥の小高くなった場所に中心伽藍があります。本堂、客殿、書院などは回廊で結ばれています。中心伽藍を見下ろす高台に真盛上人廟が建てられています。
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