旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

松本城

2007年10月01日 | 旅 歴史
 松本城は別名「烏城」と呼ばれています。黒々とした外壁は姫路の白鷺城と好対照です。現存する五層の天守閣では日本で一番古く、日本の城の中で最も美しい天守閣だといわれています。外見は五層に見えますが内部は六層になっています。窓は少なく、矢や弾を発射する狭間と呼ばれる小窓や石落としなどがあり実戦用の城であることがわかります。
 松本城は、戦国時代の深志の砦を創始としています。室町時代末期の永正元年(1504)、この地方に大きな勢力を持っていた小笠原貞朝が一族の島立貞永に命じて築城させたといわれています。
 以後、小笠原氏の居城となり、「深志城」と呼ばれました。天文19年(1550)武田晴信(信玄)がここを占領し、信濃支配の前線基地としました。 
 天正10年(1582)のいわゆる「武田崩れ」及び本能寺の変後の混乱に乗じて、長時の嫡男小笠原貞慶が徳川家康の後ろ盾により深志城を回復し、名を「松本城」と改めました。 
 天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼし天下を統一すると、家康を関東に封じ、貞慶の嫡男小笠原秀政も下総の古河へ移されました。
代って秀吉の有力武将、石川数正が松本城に入城し、城の大改築に着手しました。数正は小笠原氏の城づくりを大きく超える本格的な近世城の造営に着手したのです。それは秀吉の威光を天下に示すことでもあったのです。
数正は松本城の完成を見ずして3年後の文禄元年(1592)朝鮮出兵のために出陣した肥前名護屋城で亡くなります。
 数正の嫡男石川康長が父の遺志を受け継ぎ五層の天守が本丸西南隅に完成したのは慶長2年(1597)頃でした。
 徳川幕府の時代になって石川康長は大久保長安の事件に連座した疑いを持たれ、慶長18年(1613)に改易されてしまいました。
代わって松本城主になったのはかってこの城を治めていた小笠原秀政でした。愛着のある松本でしたが二代目の小笠原氏忠真(ただざね)の時には播磨明石へ移封させられてしまいました。
 その後、松本城主は戸田氏になり、松平氏に移ります。寛永10年(1633)に城主松平直政が天守に辰巳附櫓と月見櫓を増築しました。現在も残る「連結複合式」の天守が完成したのです。その後城主は堀田氏、水野氏と交替しました。享保10年(1725)志摩鳥羽より戸田光慈(みつちか)が6万石で入封してからは戸田氏9代の居城となりました。
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