松代城は戦国時代には海津城と呼ばれ、北信濃に進出した武田信玄が永禄3年(1560)軍師の山本勘助に命じて築かせたものです。武田二十四将の一人高坂弾正を海津城主として上杉謙信の信濃への侵攻に備え、川中島四郡の要の地の最前線根拠地として築いた城です。
永禄四年九月の川中島激戦の際は、武田信玄の本陣となり、妻女山に陣営を張る上杉軍に相対して、ここで軍を二手に分け、一手は妻女山攻撃隊となり一手の軍勢は武田信玄自ら率いて八幡原の直戦地へ進出した根拠地です。
天正10年(1582)の武田氏滅亡後は、織田信長の武将森長可(ながよし)が海津城主となりましたが、同年6月に本能寺の変で信長が亡くなると、海津城は上杉景勝が支配するところとなりました。その後、豊臣秀吉を経て徳川家康が支配する時代になると、家康は上杉景勝を牽制するために森長可の弟森忠政を海津城主にしました。そして川中島四郡13万7千石を与えたのです。
慶長8年(1603)森忠政が美作津山に移りました。替わって入封したのは徳川家康の六男松平忠輝でした。その後、城主は松平忠昌・酒井忠勝と入れ替わりました。
元和8年(1622)真田幸村の兄で、関ヶ原の合戦・大坂の陣で徳川方についた真田信之が信州上田から10万石で入封しました。以後、真田氏10代の居城として明治維新を迎えます。城の名を松代城と改めたのは正徳元年(1711)真田家三代幸道の時からです。
永禄四年九月の川中島激戦の際は、武田信玄の本陣となり、妻女山に陣営を張る上杉軍に相対して、ここで軍を二手に分け、一手は妻女山攻撃隊となり一手の軍勢は武田信玄自ら率いて八幡原の直戦地へ進出した根拠地です。
天正10年(1582)の武田氏滅亡後は、織田信長の武将森長可(ながよし)が海津城主となりましたが、同年6月に本能寺の変で信長が亡くなると、海津城は上杉景勝が支配するところとなりました。その後、豊臣秀吉を経て徳川家康が支配する時代になると、家康は上杉景勝を牽制するために森長可の弟森忠政を海津城主にしました。そして川中島四郡13万7千石を与えたのです。
慶長8年(1603)森忠政が美作津山に移りました。替わって入封したのは徳川家康の六男松平忠輝でした。その後、城主は松平忠昌・酒井忠勝と入れ替わりました。
元和8年(1622)真田幸村の兄で、関ヶ原の合戦・大坂の陣で徳川方についた真田信之が信州上田から10万石で入封しました。以後、真田氏10代の居城として明治維新を迎えます。城の名を松代城と改めたのは正徳元年(1711)真田家三代幸道の時からです。