パパと呼ばないで

再婚した時、パパと呼ばないでくれと懇願した夫(←おとうさんと呼んで欲しい)を、娘(27)「おやじ」と呼ぶ。良かったのか?

死語とダサイ言葉と訛りに関するワタクシ的見解

2016年02月16日 | Weblog
2月16日(火)晴れ

テレビを見ていたら「死語」の話題。
チョッキにとっくりセーター、コール天にスパッツ。
巡り巡るファッションの世界で、「新しさ」をイメージさせるために名前を変えるんだとか。
だからって、最初キュロットスカートから発生したものがガウチョだのスカンツだのスカーチョだのやり過ぎじゃないか?

ワタクシ、小さい頃から言葉に敏感だった。
自意識過剰というか。
両親の言う「湯上げタオル」という言葉、「天花粉」という言葉に嫌悪感というか田舎くささを感じる5歳児だった。
お育ちのよろしい有村病院の一人娘正子ちゃんが言う「バスタオル」とか「シッカロール」、もっと言うならば「パパ、ママ」という呼び方までにうっとりとしておった。
一人で、我が家の物(及び者)の呼び名を変えようと奮闘したが浸透せず。
特に「かあちゃん」を「ママ!」と呼ぶと宣言したら「それはやめて」と即、かあちゃんから拒否された。
未だに憶えている二軒長屋の賃貸ボロ家の練炭で沸かす風呂の中での出来事だ。
小学生になった頃、二つ上の兄(ワタクシに輪をかけてのええかっこしい)が
「僕は今日からとうちゃん、かあちゃんというのをやめてお父さんお母さんと呼ぶ!」と宣言し、嫌がる父を説き伏せた。
便乗してワタクシも「おとうさん、おかあさん」と呼ぶようにした。
ひとつ、クリアできたようでうれしかった。
もうひとつの難関は、「じいちゃん、ばあちゃん」を「おじいちゃん、おばあちゃん」と呼ぶことだ。
学校では当たり前のように「うちのおじいちゃんはね」と言っていた。
しかし、実際は「じいちゃん!ばあちゃん!」と呼んでいるという事実が、純粋な子供心を苦しめていた。
さらには仲良しだったみずえちゃんが「うちのおじいちゃんは昔、町長さんだったんだよ。
nちゃんのおじいちゃんは何をしてた人?」
なんだか敗北感満載で「うちの・・・うちのお、おじいちゃんは・・・農家」と言い、
みずえちゃんの「え?農業?お百姓さん?」とバカにしたような言いっぷりに打ちひしがれる自分。
じいちゃんのことは好きだし、そんなことで落ち込む自分って身分差別をしているんだという変な正義感もあいまってもやもやした。
めんどくさいガキだ。
その後、知り合った久子さんが、「うちのばあちゃんが~」とか平気で使ってて、家と外で使い分けることに疲れ果てていたワタクシが羨ましく思ってると
例のみずえちゃんがまた失笑気味に「ばあちゃんって呼んでるの?」
すると久子さんが「うん!じいちゃんばあちゃん。」と、何の屈託もなく言うのが心底羨ましかった。
屈折している・・・

ワタクシが6年生の頃、学校現場は方言追放の盛んな時期で、「共通語で話しましょう」と
鹿児島弁のアクセントを矯正する教育がされていた。
いまだに方言を恥ずかしいものと思う意識が残っているのは、この時期のせいだと思う。
そういうことを経ての、ワタクシの方言のポリシーってのがあって、
郷里に帰ったら方言で話す。
鹿児島の方以外と話す時は共通語で話す。
これは、ホント人それぞれだなあと思うのだが、同僚だったM嬢はいつでもどこでも鹿児島弁。
ワタクシは、密かにこれを恥ずかしく思い、彼女は彼女で、相手によって言葉を使い分けるnさんのことを恥ずかしいと思ってるようであった。
自意識がどっちを向いているかの違いなのだな。
今、音訳ボランティアをしていて、悩みの種が「アクセント」である。
大きな流れとしてのアクセントは共通語読みできていても、単語で「ん?」と思い悩むことがある。
飴も雨も、箸も橋も端も鹿児島は全部同じなのだ。
アクセント辞典で調べては印をつけて読み直すという作業になる。
サークル内には北は北海道から南はワタクシ鹿児島出身者までと幅広い。
それぞれに苦手な発音(西日本には鼻濁音がないとか)やら、アクセントやイントネーションを、互いに注意し合ったりしている。
秋の講座を終え、今また新しい方が数名入られた。
ここ数年、入会者がいなかったので喜ばしいことだ。
中にお一人、ものすごく訛ってらっしゃる方が・・・
聞くと、東北のご出身らしい。
驚くほど、全部の単語から助詞から語尾から何から何まで、訛っておられる。
あまりに訛り過ぎてて、さすがの先生も10のうち3くらいしか注意できないくらい。
しかし、その注意した3も、彼女はキョトン顔。
治しても治しても注意しても注意しても、そもそも違いがわかっていない風である。
そもそも自分が訛っている、人と違っているということすらわかっていない風である。
彼女は、なぜにわざわざこのボランティアを選んだんだろう?
訛ってるのを自覚して、少しでも治せるものならというならそれはありだ。
しかし、自覚がないというのは厄介だ。
恥ずかしそうでもない。
だんだんワタクシはイライラしてくる。
いや、ワタクシ、方言が恥ずかしい、訛りが悪い、と言ってるのではない。
(たまに関西人の「なんで東京弁使わなあきませんねん?」という強気にはイラッとするけど)
普段、日常会話は方言結構!訛り上等!ですよ。
しかし、この音訳ボランティア活動では共通語のアクセントでお願いしますよということだ。
それができるかできないかくらい、向いてるか向いてないか、サークルに入る前の必須の講座でわかりそうなものだ。
彼女の真意がわからずに、ひたすらもやもやする。

「恥ずかしい」という意識を常に持ち、つい口に出しそうな「湯上げタオル」を一回飲み込み、脳内で「バスタオル」と変換してから言う。
鹿児島弁を脳内で一回変換して共通語にしてしゃべる。
メンドクサイ人間ってことでは、5歳の頃も51歳の今も変わらないなあと少し可笑しく思う。

と、インフルエンザの高熱に依るイライラもあいまっての長文辛口日記でありました。
コメント (2)
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