12月22日(火)晴れ
家探しも煮詰まり、自分探しもどん詰まり、夫や老母に喧嘩をふっかけ、荒んだ日々を送っておりますnです。
先日、酒井順子著「Sense of Shame 恥の感覚」の感想文を書こうとしたのですが、中二病からのわけわからん決意表明のような話になって終わってしまった。
違う違う、こんなことを書くつもりではなかった。
「恥ずかしい」「恥」という感覚は、人それぞれで、真逆だったりして驚く。
酒井さんが「恥ずかしい」と思われること全部が、ワタクシも「恥ずかしい」と思うことなので、ワタクシは彼女に勝手にシンパシー感じている。
あれ?シンパシーってこういう使い方していいんだっけ?
こういう、使い慣れない言葉を使うのがぢつは恥ずかしい。
特に外来語(・・・)を使う時、気にする。
間違ってたら恥ずかしい。
だからいつまで経っても英語を話せず、韓国語も中国語も話せないまま。
語学における「恥ずかしい」感覚は上達の妨げだよなあとは言い訳か。
図書館に返してしまったので「ここ!ここ!」と言えないのが残念だが、
「恥ずかしい」という感覚は本当に人それぞれだし、自分の中でさえ年齢とともに変化してきた。
近所に、老舗の和菓子屋さんがあって、開店と同時に「切れ端」が売りに出る。
鹿児島名物軽羹やカステラなどが安くで買える(安いと言ってもそれほど安いわけではない)
老母は手土産にする時、その切れ端があったらワタクシたちに、買ってきてくれる。
老母曰く「『切れ端』だけは買えない。贈答用を買うついでに買う物でしょ。」
まあ、お店側もそういう意図での販売だろうが、でも、ワタクシは『切れ端』だけでも買える。
恥ずかしくない。
だって、売ってるんだもの。ワタクシが値切ったわけでも頼み込んで安くしてもらったわけでもない。
しかし、昨日この話を車の中でしながら老母も夫も口を揃えて「恥ずかしい!」と言う。
買い物で恥ずかしいと思うのは、詰め放題。
明らかにもう袋の口が閉まらないよねというほど詰め込んで、誇らしげな顔の人を見ると恥ずかしくてたまらない。
ワタクシは、この詰め放題には手を出さない。
恥ずかしいから。
と、書いていたら、老母が買い物から帰ってきた。
今夜は、義弟Aが来るのですき焼きにしようということで買い物に行ってきたのだ。
いつも、牛肉買った時にサービスの牛脂を取り忘れるので「忘れないでね」と言って送り出した。
今、帰ってきて・・・誇らしげにポケットから牛脂を5つ。
は、は、恥ずかしいっっっ。
1個でいいんだよっ!まあ2パック買ってるから2個までなら許す。
さらには、ワタクシだったら店内の買い物カゴに入れる。
「ひとついただきましたよ」の意味を込めて。
それなのに、あの場でポケットに入れるとは・・・
恥ずかしいっっ。
恥ずかしいという感覚のベクトルが真逆だなあと思ったのが方言に関して。
ワタクシは「鹿児島弁」が恥ずかしい。
ちょうど育った頃「方言追放!」的な時代だったせいもある。
国語の時間「共通語で発表しましょう」が当たり前だった。
その後、「方言万歳!」「方言ってすばらしい!」「方言は財産!」的な教育に変わっていった。
ワタクシの基本姿勢は、鹿児島県人同士では方言で話す。
県外の人とは共通語で話す。
以前働いてた職場のM嬢は、一貫して鹿児島弁だった。
そして、社員旅行とかで東北、東京、名古屋、の社員が一堂に会した時も鹿児島弁だった。
そして、東京の人達と共通語で話すワタクシに「恥ずかしくないですか?」とのたまった。
ワタクシは心の中で「わたしゃ鹿児島弁のあなたが恥ずかしい」と思った。
真逆の感覚だ。
言葉というものは、そして、子供というものは残酷だ。
方言、なまりはイジメのかっこうの材料になる。
だから、小五の多感な時に鹿児島から東京へ転校させた娘のために、母は家庭内でも共通語を使った。
順応性の高い娘はすんなりと、一週間で東京の子になっていった。
夫とは、東京本社の人として知り合っているので会った時から共通語だった。
鹿児島から、友人が上京してきた時のみ、鹿児島弁炸裂でおしゃべりを楽しんだ。
ワタクシは鹿児島弁が嫌いなわけではない。
一度頭で共通語に変換して喋る手間なく、共通語に訳しようのない絶妙な感覚と言い、ワザとおばあたちが使うような方言を使ってみたりもして、言葉好き、言語好きにはたまらない。
でも、それはあくまでも鹿児島県人同士でのやり取りであるし、県外の人の前では喋らない。
16年ぶりにUターンしてきて、鹿児島のテレビタレント達がこぞって鹿児島弁を話すことに驚く。
その昔、確かに少しはいました、テレビで鹿児島弁を喋る男の人が。
でも、今は、アナウンサー以外の、タレントとしてレポートしたりする人たちがほとんど鹿児島弁を使うことに驚く。
方言至上主義になってるなあと時代の変化を感じることであった。
って、違う違う。
また話が「方言」のことだけになってしまった。
「恥」の感覚について、電車でお化粧することとか、芸能人に会った時のこととか、結婚相手のこと(←酒井氏の、この話は絶妙だった。)について感想文を書くつもりだったのに・・・
しょうがない。
いつまでたっても感想文は書けそうにないので酒井順子著「Sense of Shame 恥の感覚」を是非読んでみてください。
そして、「わかるわかる!私も同じ同じ!」と思われたら、ワタクシと同志ですのでコメントいただけると幸いです。
家探しも煮詰まり、自分探しもどん詰まり、夫や老母に喧嘩をふっかけ、荒んだ日々を送っておりますnです。
先日、酒井順子著「Sense of Shame 恥の感覚」の感想文を書こうとしたのですが、中二病からのわけわからん決意表明のような話になって終わってしまった。
違う違う、こんなことを書くつもりではなかった。
「恥ずかしい」「恥」という感覚は、人それぞれで、真逆だったりして驚く。
酒井さんが「恥ずかしい」と思われること全部が、ワタクシも「恥ずかしい」と思うことなので、ワタクシは彼女に勝手にシンパシー感じている。
あれ?シンパシーってこういう使い方していいんだっけ?
こういう、使い慣れない言葉を使うのがぢつは恥ずかしい。
特に外来語(・・・)を使う時、気にする。
間違ってたら恥ずかしい。
だからいつまで経っても英語を話せず、韓国語も中国語も話せないまま。
語学における「恥ずかしい」感覚は上達の妨げだよなあとは言い訳か。
図書館に返してしまったので「ここ!ここ!」と言えないのが残念だが、
「恥ずかしい」という感覚は本当に人それぞれだし、自分の中でさえ年齢とともに変化してきた。
近所に、老舗の和菓子屋さんがあって、開店と同時に「切れ端」が売りに出る。
鹿児島名物軽羹やカステラなどが安くで買える(安いと言ってもそれほど安いわけではない)
老母は手土産にする時、その切れ端があったらワタクシたちに、買ってきてくれる。
老母曰く「『切れ端』だけは買えない。贈答用を買うついでに買う物でしょ。」
まあ、お店側もそういう意図での販売だろうが、でも、ワタクシは『切れ端』だけでも買える。
恥ずかしくない。
だって、売ってるんだもの。ワタクシが値切ったわけでも頼み込んで安くしてもらったわけでもない。
しかし、昨日この話を車の中でしながら老母も夫も口を揃えて「恥ずかしい!」と言う。
買い物で恥ずかしいと思うのは、詰め放題。
明らかにもう袋の口が閉まらないよねというほど詰め込んで、誇らしげな顔の人を見ると恥ずかしくてたまらない。
ワタクシは、この詰め放題には手を出さない。
恥ずかしいから。
と、書いていたら、老母が買い物から帰ってきた。
今夜は、義弟Aが来るのですき焼きにしようということで買い物に行ってきたのだ。
いつも、牛肉買った時にサービスの牛脂を取り忘れるので「忘れないでね」と言って送り出した。
今、帰ってきて・・・誇らしげにポケットから牛脂を5つ。
は、は、恥ずかしいっっっ。
1個でいいんだよっ!まあ2パック買ってるから2個までなら許す。
さらには、ワタクシだったら店内の買い物カゴに入れる。
「ひとついただきましたよ」の意味を込めて。
それなのに、あの場でポケットに入れるとは・・・
恥ずかしいっっ。
恥ずかしいという感覚のベクトルが真逆だなあと思ったのが方言に関して。
ワタクシは「鹿児島弁」が恥ずかしい。
ちょうど育った頃「方言追放!」的な時代だったせいもある。
国語の時間「共通語で発表しましょう」が当たり前だった。
その後、「方言万歳!」「方言ってすばらしい!」「方言は財産!」的な教育に変わっていった。
ワタクシの基本姿勢は、鹿児島県人同士では方言で話す。
県外の人とは共通語で話す。
以前働いてた職場のM嬢は、一貫して鹿児島弁だった。
そして、社員旅行とかで東北、東京、名古屋、の社員が一堂に会した時も鹿児島弁だった。
そして、東京の人達と共通語で話すワタクシに「恥ずかしくないですか?」とのたまった。
ワタクシは心の中で「わたしゃ鹿児島弁のあなたが恥ずかしい」と思った。
真逆の感覚だ。
言葉というものは、そして、子供というものは残酷だ。
方言、なまりはイジメのかっこうの材料になる。
だから、小五の多感な時に鹿児島から東京へ転校させた娘のために、母は家庭内でも共通語を使った。
順応性の高い娘はすんなりと、一週間で東京の子になっていった。
夫とは、東京本社の人として知り合っているので会った時から共通語だった。
鹿児島から、友人が上京してきた時のみ、鹿児島弁炸裂でおしゃべりを楽しんだ。
ワタクシは鹿児島弁が嫌いなわけではない。
一度頭で共通語に変換して喋る手間なく、共通語に訳しようのない絶妙な感覚と言い、ワザとおばあたちが使うような方言を使ってみたりもして、言葉好き、言語好きにはたまらない。
でも、それはあくまでも鹿児島県人同士でのやり取りであるし、県外の人の前では喋らない。
16年ぶりにUターンしてきて、鹿児島のテレビタレント達がこぞって鹿児島弁を話すことに驚く。
その昔、確かに少しはいました、テレビで鹿児島弁を喋る男の人が。
でも、今は、アナウンサー以外の、タレントとしてレポートしたりする人たちがほとんど鹿児島弁を使うことに驚く。
方言至上主義になってるなあと時代の変化を感じることであった。
って、違う違う。
また話が「方言」のことだけになってしまった。
「恥」の感覚について、電車でお化粧することとか、芸能人に会った時のこととか、結婚相手のこと(←酒井氏の、この話は絶妙だった。)について感想文を書くつもりだったのに・・・
しょうがない。
いつまでたっても感想文は書けそうにないので酒井順子著「Sense of Shame 恥の感覚」を是非読んでみてください。
そして、「わかるわかる!私も同じ同じ!」と思われたら、ワタクシと同志ですのでコメントいただけると幸いです。