1945年8月15日に、戦争は終わりました。 戦争の経験は、田舎に疎開していて頭上をB29の編隊が、
大阪方面に向けて紀伊半島を北上する・・すごい音とサイレンなどが記憶としてあるだけです。
終戦後、大阪に戻ってくると、焼け野原の跡に家が立ち並んでいる・・そんな光景でしたね。
私が卒業した高校のグランドなども、かなり後に整備してグランドとなりましたが、その時は瓦礫とかが
散らばっている荒れ野原のようだった記憶があります。
正午から政府主催の戦没者追悼式が行われるたびに大勢の人々が戦死され、その遺族の方々の悲しみを
想い起こさずにはいられないのです。
改めて述べることもありませんが、 終戦の日は、国によってそれぞれ違っていて、アメリカ合衆国、イギリス、
フランス、カナダ、ロシアでは、9月2日を対日勝戦記念日(Victory over Japan Day)としている。
当時のアメリカ合衆国大統領トルーマンは、ポツダム宣言に調印した9月2日を「V-J Day」として宣言した。
中華民国(台湾)と中華人民共和国では、旧ソ連と同じく、9月3日を「軍人節」や「抗日戦争勝利の日」としている。
また、大韓民国では8月15日を「光復節」と称して、日本による朝鮮半島統治からの「解放」を祝う日となっている。
北朝鮮も同様に、8月15日を「祖国解放記念日」として祝っている。
日本において第二次世界大戦(太平洋戦争(大東亜戦争))が終結したとされる日については諸説あり、
主なものは以下のとおりである。(ウイキペディアより)
1. 1945年(昭和20年)8月14日:日本政府が、ポツダム宣言の受諾を連合国各国に通告した日。
2. 1945年(昭和20年)8月15日:玉音放送(昭和天皇による終戦の詔書の朗読放送)により、日本の降伏が国民に公表された日。
3. 1945年(昭和20年)9月2日:日本政府が、ポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した日。
4. 1952年(昭和27年)4月28日:日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の発効により、
国際法上、連合国各国(ソ連等共産主義諸国を除く)と日本の戦争状態が終結した日。
記録映画やテレビドラマなどに良く出てくる終戦の象徴として、天皇陛下の「玉音放送」がある。
このくだり、ネットから引用して以下に記述します。
「・・・午後、NHKの録音班が5人呼ばれた。「重大な録音があるので」としか言われなかった。
最新式の録音機を2セット持って宮中へ。録音は2台の録音機で同時に行った。念のため2回取ったので
計4組の玉音盤ができる。これは皇后官職事務官室の金庫に収められた。
録音を終えたNHKの職員が宮中を出ようとした所、兵隊が彼らを拘束監禁した。終戦に反対する反乱軍であった。
反乱軍は皇居を占拠して、玉音盤を探すが見つからない。
まさか女官の部屋にあるとは思わなかったためである。更に午前4時頃、反乱軍は放送会館をも占拠する。
午前5時頃、田中東部軍司令官が反乱軍鎮圧に乗り出す。5時半、阿南陸相が自殺。8時頃までに反乱軍は
鎮圧或いは自主退出する。8時半、玉音盤が搬出され放送会館へ。この日の各新聞朝刊にポツダム宣言
受け入れの報が書かれていたが玉音放送を待つため配達は差し止められていた。
午前11時、憲兵中尉が放送会館に乱入して放送をやめさせようとするが取り押さえられる。
正午。時報に続いて「ただ今より重大なる放送があります」と和田信賢アナウンサーの声。この日は通常昼間の送電が
ストップされていた地方にも電気を流しておく指示が行き届いていた。
君が代のレコードが流れた後、「朕深く世界の大勢と帝国の現状に鑑み非常の措置を以て時局を収拾せむと欲し、
故に忠良なる爾臣民に告ぐ。朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり。。。」
天皇の肉声が流れた。・・・」
今日的にもいろいろ重大な問題が山積しているけれども、一瞬にして命を失う危険、家族・社会の崩壊をもたらす
人為的な戦争には幸いさらされてはいない。
というより、現実は平和ボケにぴったり浸かりきっているのかもしれません。
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脇芽を挿して育ったミニトマトです。
今日も、正午には、黙祷が行われる。甲子園も。戦没者追悼式は、今年も日本武道館で挙行される。