立春も過ぎ日に日に陽射しが明るくなってきたが、今朝は氷点下の寒さである。池も久しぶりに全面凍結、春は名のみである。まあ、これからは三寒四温の季節、春遠からじと待つことにしよう。
ところで今日は旧正月の二日目、子供の頃愉しんだお正月の真っ最中である。凧揚げ、羽根つき、双六、カルタ等と皆で楽しんだものである。あれは今頃だったのか、、、。
立春も過ぎ日に日に陽射しが明るくなってきたが、今朝は氷点下の寒さである。池も久しぶりに全面凍結、春は名のみである。まあ、これからは三寒四温の季節、春遠からじと待つことにしよう。
ところで今日は旧正月の二日目、子供の頃愉しんだお正月の真っ最中である。凧揚げ、羽根つき、双六、カルタ等と皆で楽しんだものである。あれは今頃だったのか、、、。
戦後の洋画は、大半がアメリカ映画でそこでは豊かな生活が描かれていた。当時アメリカでは3人に1台車があるといわれたことから当然なことであろう。そのころ日本では自家用車を持っている人は百人に一人いるか、どうかという時代である。
従って外国ではどこでも、貧しい日本に比べて豊かな生活しているだろうと思っていた。そんな中、イタリア映画「自転車泥棒」を見たときの驚きは強烈であった。
その映画を、「集い」で来週上映することにした。果たしてどんな声が聴けるかな。
フクジュソウに続いてクロッカスもそこここに咲きだした。アップした花はラッパスイセンの芽を押しのけて「俺も咲いたぞ!」と自己主張しているように花びらを広げている。水栽培でも咲くこの種は、植えっぱなしでも毎年咲いてくれるかわいい子である。
さて、降雪予報も周りを薄化粧に染めただけで大したことがなくホッとしている。雪はもういい、後期高齢者にとっては、、、。
真空管ラジオで育った者にとってよく体験したことの一つに、突然音が出なくなることがあった。そんな時、叩くと復活するのである。今考えるとまるで漫画である。
ところが、コンピューター時代の今日、我が家でその漫画が起こった。以前ブログにも記した壊れたプリンター(メーカーに相談して修理不能とのご託宣もの)処分しようと購入したばかりのインクなどと共に昨日整理していた。
その時、もしやと真空管時代の頭がよぎり、電源を繋いでみた。しばらくガチャガチャしていたが、なんと正常のランプがついたのである。早速映画会の案内をプリントする。
摩訶不思議、未だに狐に抓まれたよう様な気持ちである。
落葉樹の多くは、冬までにすっかり葉を落とし裸になってしまうが、ブナ科の仲間は新芽が動き出すまで 落葉しないものが多い。わが家の柏の木も同じブナ科、アップしたように北風に痛めつけられてだいぶ草臥れた葉になったが、未だにつけている。まるでボロを纏っているようである。
春一番の南風が吹くころ散りはじめる。今春はいつごろになるのか。
葬儀委員長の川端康成は、林芙美子の出棺時の挨拶で「間もなく彼女は灰になります。彼女の数々の諸行はどうかお許しください。」といったそうだ。昨日の火葬場の帰路、重い心でそんなことを想い出した。
今日は立春、耳にすると幾分寒さが和らいだような気分となる。愉しませてくれた寒椿2輪を残すのみとなる。蕾の方は2週間ほどこのままである。寒さのせいか、エネルギー不足か。
木々にとって花を咲かせるということは、相当のエネルギーを使うことなのだろう。
昨夜の通夜の席、弔事を申し上げ始めるとここそこでのご遺族の悲しみの声、声、、、心の動揺で声が乱れる。耐えて想いをすべて話し終わる。今日は友の告別式安らかな眠りにつくよう送ってやろう
前にも記したが、今年の梅はどういうわけか花付きが例年の三分の一ほどしか咲いてくれない。収穫を愉しみされている方々の期待に応えられそうにない。残念!
さて今日は、友の弔事を述べなければならない。気が重い。措辞至らぬが心こめて語りかけよう。
真っ赤に実を付けていたセンリョウ、今朝見ると一粒もない。すっかり野鳥のおなかに収まったようだ。それにしてもまめに啄んでくれたものである。たわわに付けている万両の実もいずれ彼らの食卓に上るだろう。彼らは、いつ、食べごろかパトロールしながら看ているのだろう。子供の頃野山でアケビや山葡萄、サルナシなどをおやつにしていたように、、、。
昨夜10年間、集いの役員として支えてくれたSさんが突然旅立ってしまったとの訃報、、、人生の儚さを改めて思い知らされる。諸行無常、合掌、、。
遅まきながら紅梅もちらほら綻び始めた。我が家の紅梅は、八重咲きであまり実を付けなかったが、老木になったせいかこのところ小さな実を付けるようになった。
昨年は初めて紅梅の実で梅干を作った。今でも時々食卓に上がっている。今年はどのくらい収穫があるだろうか。ところで紅梅の実で梅酒を造ると綺麗な朱色になると友人が話していた。今年は梅酒を造ってみようか。