わたしの顔は、フツーの日本人の顔である。特に目がぱっちりということもなく、彫りが深いわけでもない。広く東アジアで通用する二枚目というところかな(^益^)v したがって韓国で歩いていても、ひと目では外国人とわからずに、韓国語で話しかけられることもしばしばであった。
街を歩いていると、「ここは戦争中日本軍に破壊されたところである」とか、「ここは○×年、江戸幕府徳川○×に襲撃されて焼かれたところである」といった看板を見かける。広島には原爆ドームが保存されているし、真珠湾にだって記念碑があるだろう。俺がやったわけではないが、身内が残した傷跡を目の前にしては、罪悪感に少しばかり気まずい心持ちになるものだ。
さて散歩をしながら下町の狭い路地裏へ入っていった。どこもひどく軒が低くて、瓦の崩れかかっている汚い長屋が続いている。生活排水と食べ物の匂いがほんのりただようところだ。俺の生まれ育った下町の空気が甦り、一瞬タイムスリップをした錯覚を持ってしまう。ところ狭しと子供たちが走り回って遊んでいる。
するとあるある^^ 東京にはほぼ消滅してしまった駄菓子屋があるではないか。むかし5円10円で買ったような、あやしい駄菓子が並んでいる。いくつか選んで店の旦那に差し出すと、やはり韓国語で話しかけてきた。そしてこちらが日本人だとわかったとき、その老人は大変感銘を受けた様子になり、なんと日本語で話しかけてきたのである。それにはこちらも驚いた。
なつかしいです。わたし日本語を習いました。
学校では日本語を教えられたのです。
手紙には、「~にてそうろう」と書くのですよね。
「今はもうそういう言葉は使わないのですよ」と答えながら、背中にのしかかる十字架の重みをズシリと感じる。国を失ない、言葉さえも変えられようとした過去がここに生きていたのだ。その怒りと悲しみ、屈辱の思い出を、微笑をたたえながら老人は語った。思いもよらず少年期の記憶が甦り、なつかしさが勝ったのだろう。その口調は、「敵国人」に対するものではなかった。このような「生きた歴史」も、いずれ時の流れとともに消え去ってゆくだろう。そして記述される歴史には、人々の感情が刻まれることはない…。