<南三陸~女川~石巻~秋保温泉の旅>
4月に転職して以来、新入社員の僕は初めて1週間以上の連休を体験しました。
暮れの2泊3日の旅行は、去年とほぼ同じ南三陸~女川~石巻~仙台のコースにしました。僕たち夫婦は、去年の旅で被災地で元気に頑張っている多くの人たちと出会いました。10あったすべてを失いながらも、復興に向けて0から1や2を目指して頑張っている人た
ちに、僕はどれだけ勇気づけられたでしょう。10すべてをまったく失っていない僕たちこそ、11や12を目指さないといけないと痛感したのです。このまま定年まで小学校勤務でいいのだろうか、それとも夢に向かってさらに上を目指そうかと悩んでいた僕が、大学で教員養成の仕事をしようと決心したのも、この旅行が最終決断のきっかけでした。家に帰ってからすぐ、大急ぎで、そして本気でこれまで書いてきた論文の概要をまとめました。
去年出会った人たちにもう一度会いたいと思い、同じようなコースを辿ったのです。
初日は中部空港からANAで仙台に飛びました。30年ぶりくらいのプロペラ機でした。仙
台空港で名物の牛たん定食を食べ、レンタカーのフィットで南三陸町へと向かいました。去年は家屋の跡が基礎だけ残っていたり、瓦礫の山が至る所にあり、津波の生々しい跡がそのまま残っていましたが、今回はほぼ整地されていました。もちろん建物はほとんど残っていませんし、新たに建てられることもありません。どこにいても見通しがよく、海がすぐ近くに見えるのです。
復興商店街で南三陸の文字の入ったパーカーを買ったりしながら、店の人と話をしました。あの地震の後、津波が来ることは聞いていたが、せいぜい2mくらいだろうと2階に避難して「片付けが大変だなあ」と思っていたところ、6mとの知らせがあり、「3階でも危ない」と思って丘に駆け上ったとのことでした。実際には、6mどころか、住んでいた場所がすべて海の底
になってしまったとおっしゃっていました。「生きているのだから、元どおりにしなくては」という思いを語ってくださいました。
夜は、南三陸温泉「ホテル観洋」に泊まりました。海の幸が盛りだくさんの豪華な晩ご飯と気持ちのいい温泉で満足、満足・・・。
2日目は、南三陸町の旧防災センターを訪れました。何もない所に赤茶けた鉄骨だけの建物が遠くからでもよく目立ちます。津波にのみ込まれて亡くなるまで避難勧告の放送を続けていた女性職員の話は有名です。ニュースで解体が決まったことを知り、手を合わせに行ったのです。そこにはたくさんの千羽鶴が捧げられていました。そして、一人の初老の男性が掃除をしていました。その人は、「遠くから多くの人が来てくださるから」と、毎日掃除をしているとのことでした。取り壊しの話については、「壊れた状態のまま保存するには莫大な維持費がかかる」「被災した人は、これを見るとつらいことを思い出す」ということですが、「いつまでも忘れないように」「遠くから多くの人がわざわざ何もない南三陸まで手を合わせ
に来てくれる」という思いもあり、複雑な心境を話してくださいました。彼は、もし解体されてしまったとしたら、このまま防災センターのことが忘れ去られてしまい、誰も南三陸に見向きもしなくなってしまうことを憂いているように思えました。再度、慰霊の祈りを捧げ、防災センターを後にしました。
南三陸を出て、海岸線に沿って南へとフィットを走らせました。イースター島から贈られた友好の大きなモアイ像は復活していました。
女川町では復興商店街「きぼうの鐘商店街」に行きました。お昼になっていましたが、お腹はすいてなかったので、復興商店街の中にある喫茶店でケーキと紅茶で昼食をすませ、去年震災とその後の女川の話を聞かせてくださったSさんの店に行きました。娘さんが店番をされていて、すぐに携帯で呼んでくれました。震災前の活気あふれる女川と、震災直後の女川、そして復興が進む女川の写真を見せていただき、町民みんなが前を向いて進んでいることを話してくださいました。何年も前にバイク・ツーリングで通っただけの町なのに、僕の中では大好きな町になっています。震災で街が消えてしまった時、「海ってこんなに近くにあったんだと
思った」というSさんの言葉がとても印象に残っています。
女川を出ると、次は石巻に向かいました。石巻出身の僕のゼミの学生から、日和山公園からの景色がとてもいいという話を聞いていたので、行ってみました。古くは松尾芭蕉が訪れ、その後は宮沢賢治も訪れたという小高い丘で、石巻の街と海が一望できました。桜の木がいっぱいで、きっと春になったらとても美しい公園になることでしょう。大学の講義が始まって、彼女に話をしたら、津波の時は大勢の人が日和山に避難したと言っていました。
石巻からは三陸道を走って、仙台の奥座敷と言われる秋保温泉に行きました。僕はてっきり「アキホ」と思っていましたが、「アキウ」でした。今回の旅行も楽天トラベルの飛行機・レンタカー・旅館の安いパック旅行で申し込んだのですが、秋保温泉の旅館「蘭亭」は、驚くほど豪華で、びっくりしました。僕たちには分不相応な高級旅館でおいしい料理と気持ちのいいお湯で、2日間の疲れを癒やしました。
最終日3日目は、まず秋保大滝に行って見ました。見事な滝にうっとりしてしまいました。それに、周囲が雪景色になっていて、まるで旅行番組の中にいるような気分でした。再び秋
保に戻り、秋保温泉の脇を流れる磊々峡(らいらいきょう)の遊歩道を散策しました。天気もよく、渓谷美を眺めながらの軽いウォーキングが心地よく感じられました。秋保・里センターでパスタで軽めの昼食をとり、仙台空港へと急ぎました。
そして、夕方のIBEX(ANAのコードシェア便)機で中部空港に飛び、3日間の旅を終えました。
<氏神様で初詣>
若い頃は大晦日の深夜に大きな神社に繰り出していた僕ですが、ここ数年は氏神様で新年のお参りをしています。氏神様のN神社はちょっとした山のてっぺんにあり、家から麓の鳥居まで歩いて7~8分、山道を登ること15分ほどです。「じぇじぇじぇ」で盛り上がった紅白を見て、山登りです。
紅白も、正直言って、よく分からない人や歌が大半になり、平原綾香ら僕の好きな歌手はほとんど出てなくて、M小勤務の頃に教科で入っていたクラスの教え子N子がいるSKE48も、今年は彼女が12月31日で受験勉強のためSKEを卒業ということで出ていなくて、司会は下手だし(下手だけど味があってそれなりに楽しめたけど・・・)、そういうことでだらだらと見ていました。
最後の北島三郎が終わるとすぐ、妻と外に出て歩き始めました。思ったより寒くなくて、麓から上り坂に入ると、厚着をしていたせいか暑いくらいに感じてきました。中腹の古い鳥居の手前で花火の音が聞こえました。午前0時です。妻と「おめでとう」「今年もよろしく」の言葉を交わし、境内に入りました。60~70人くらいはいたでしょう。友達の少ない僕は、数人の近所の人と挨拶をしてお参りをしました。去年は僕にとって、安定した公務員を辞めて夢だった教員養成の仕事に就き、大学の教員としての生活がスタートした大変革の年でした。なんとか仕事も軌道に乗れたことのお礼と、今年も素敵な1年になりますようにというお決まりのお願いをしました。ただ、子どもの頃からお賽銭は10円と決めていた僕ですが、去年に引き続き感謝の気持ちを込めて10倍の100円にしました。
これで今年もきっといい年になるはずです。
<両親と鬼岩温泉>
元日は数百枚の年賀状に目を通し、出していない人に年賀状を書きました。ありがたいことに、僕が小学校の先生という職を捨てて、大学の先生になったことに教え子たちからは「hiro先生らしい」という言葉が多く見られ、ほっとしました。心のどこかで「僕は自分の我が儘でM市を捨てた裏切り者」と思われているのではないかという不安を感じていたのです。年に一度のお便りの年賀状、僕は大好きです。
2日と3日は両親と温泉旅行に行ってきました。両親は86歳と84歳の高齢者です。しかも、父は去年心臓の手術をし、あまり長く歩くことはできません。そこで、近場の温泉の中から瑞浪市(岐阜県)の鬼岩温泉を選びました。父は、若い頃に職場(トヨタ自動車)の旅行で行ったきりで50年ぶりくらいと楽しみにしていてくれました。
10時過ぎの遅い出発で、まずは東海環状道で各務原まで行きました。僕の新しい職場の東海学院大学を見せたかったのです。そしてもうひとつ、父がインターネットで調べた各務原の法福寺に行ってみたいと言っていたのもその理由です。心臓の手術で一度は「死」を覚
悟した父は、お不動さん(不動尊)の夢をよく見たと言っていました。それでネットでよく調べていたようです。
思ったより大きなお寺で、スピーカーから読経が流れ、信仰心の薄い僕も、なんとなく御利益がありそうな感じがしました。
その後、R21で東に向かい、途中のラーメン屋で昼食をとり、可児に向かいました。可児の道の駅で店内をぶらぶらしたり、コーヒーを飲んだりしてのんびり過ごしました。僕と妻と、そして父と母の4人で喫茶店・・・これから先、何回そういうことができるのだろうと思いました。
鬼岩温泉は可児からすぐです。早めに旅館に着き、両親はすぐに温泉に入りに行きました。
翌朝は鬼岩公園の散策を楽しみたいところでしたが、狭くてアップダウンの多い遊歩道は車椅子が使えず、クルマで公園の端の松乃湖に行ってみました。何も無いダム湖でしたが、露出した岩で少しきれいな景色になっていました。桜の木が多く、春になればきっと美しい風
景になると思います。
帰りはR21を使わずに、旧中山道をたどりました。狭い山道でしたが、一里塚があったり、小さな馬頭観音があったり、確かに昔の人が歩いた道でした。中山道は、馬篭から先の木曽路は有名です。しかし、京から江戸までの街道で、ここ美濃路も多くの往来があったのです。
細久手宿の大黒屋は、かつての旅籠そのままの姿で残っていました。
大湫宿は、数百mに渡って宿場町が保存されていて、観光客のいない奈良井宿という印象でした。クルマから車椅子を出すと、父は「そんなものいらん。杖があれば大丈夫だ」と言って、歩き始めたのです。術後の父の心臓はほとんど元通りに戻っているようで、年齢からくる足の衰え以外、とても元気です。母も、心配そうに父から離れずに寄り添うようにして歩いていました。神明神社の樹齢1300年の大杉は圧巻でした。平坦な道なら父もいっしょに散策できる。それがなによりもうれしく感じました。それに、観光地化されてない古い町並みに心が
洗われるような、そんな気分も味わいました。
旧中山道はR19に合流します。瑞浪から南に下り、豊田に帰ってきました。
<ピンクのクラウン発見!>
6日から、さっそく授業が再開しました。学生たちはちゃんと心の切り替えができていて、正月の浮かれた気分などまったく感じさせない態度で授業に臨んでいました。
授業が始まって2日目の出勤途中の出来事です。
いつものように、朝の名神高速を西に向かってクルマを走らせていました。走行車線をいくトヨタ輸送のキャリアカーを追い抜こうとしたとき、キャリアカーの荷台になんとピンクのクラウンが載せられていたのです。CMや雑誌、・新聞等の広告でしか見たことのない話題のクルマです。クラウンにピンクは不自然という固定観念を覆すヘンな企画から生まれたクルマで、12月の1か月間だけの限定注文のクルマです。
「注文した人、いたんだ・・・」
そんなことを思いながら、しばらく斜め後ろを並行して走りました。見ているうちに、「案外いいじゃん」と思えてきたのです。ヴィッツのかわいいピンクとは明らかに違います。サクラをイメージしたのか、和風の雰囲気さえ醸し出しているようで、ほぼ国内専用車種と言っていいクラウンに合っているようにも見えました。
たぶん、ほとんどの人が見たことのないピンクのクラウンです。「僕、見ちゃった」と自慢したくて、このブログに書きました。
「こいつぁ~春から演技がいいわい」な~んてね。