ELEVEN HOUSE

北海道だ~い好き❤バイクはカワサキ☆クルマはレクサスCTとタウンエース(キャンカー)とジムニー☆キャンプと鉄道も好き

2018.1 雪・・・

2018-01-31 18:11:07 | クルマの部屋
 昨日まで、このブログを開くと暗~い記事。ずっといるはずの弟の他界で、悲しみからなかなか抜け出せずにいますが、これでは自分のブログを見る度に生前の弟を思い出してしまい気持ちが落ち込んでしまいます。そんな暗い記事が目に飛び込んでくるのですから、当然ブログ・ランキングもどんどん下がるわなあ~。写真もピンぼけだし。

 ということで・・・とにかくさぶいわ。先週なんて、温暖な豊田でも雪が積もったもん。ちょっとだけだったけど。ところが・・・。

 やっぱ違うわ、冬の豊田と岐阜では。

 先週の水曜日。いつものように岐阜県各務原の職場で仕事をしていました。2時頃に雪が降り始めたかと思ったら3時には外はすっかり雪景色。




 3時10分から会議だったけど、会議が終わった6時頃には、夜空の下は真っ白になってました。
 同僚の先生から「先生遠いから、早く帰ったら」と声をかけてもらったりもしましたが、学年末でまだちょっとやることが残っていたのと、クルマが4WDという安心感で、7時過ぎまで仕事をしていました。
 岐阜ってすごいね、夕方だけで約6cmの積雪。
 名神高速はもちろん渋滞、東海環状は当然チェーン規制・・・で、迷わず東海環状道コースを選びました。
 4WDにミシュランXアイス!
 鬼に金棒です。
すいすい走って家に到着しました。豊田は所々にうっすらと白くなっている程度でした。
 問題は翌日の朝です。翌日が後期の定期試験の初日でした。遅れるわけにはいかないので、いつもより1時間以上早く家を出ました。名神高速は小牧から通行止めになっていたので、東海環状道を使って職場に向かいました。岐阜各務原ICを降りてからが渋滞気味でしたが、ちゃんと時間には間に合いました。
 大変だったのがその翌日の金曜日でした。積もった雪が凍結して所々道路がツルッツルになっていました。スタッドレスでも滑りながら走るクルマもありました。そんなときも、4WDにミシュランはまったく滑りません。足を下ろすと滑るのに、なんか不思議。心強いです!
 今週も寒い日が続いています。僕の大学でもインフルエンザで休む人がちらほら。うがいと手洗いを欠かさず、体調を壊さないように気をつけましょう。

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2018.1 弟の死 ~これまでの人生で一番の悲しみ~

2018-01-17 23:41:15 | いろいろ思う部屋
 悲しくて悲しくて、次から次へと涙が込み上げてくる。弟は離れて暮らしていても、ずっとずっと僕の後ろにいつづけるものと信じていた。ところが・・・。
 先週金曜日12日の夜、知多に住む二つ年下の弟が天国行きのキップを持って旅立って行った。たった二人の兄弟。子供の頃の思い出の中にはいつも僕の隣に弟がいた。歳が近く、いつも一緒に遊んだり、地域の活動に参加したり、そして、両親と家族4人で楽しく過ごした子どもの頃の思い出。
 悲しくて涙が込み上げてくる原因は、弟が亡くなったことはもちろんだが、実は弟の最後の電話に出られなかったことだった。
 弟は去年の夏くらいから体調を崩し、秋口からは入退院を繰り返していた。正月3日に再び入院。そして、病状が急変し意識がほとんどなくなってしまったのが11日の木曜日だった。そのまま意識がはっきりすることなく翌金曜日に旅立ってしまったのだった。
 遠距離通勤をしている僕は仕事の関係で月曜日まで病院に行くことができず、電話で奥さんにそのことを伝えておいた。奥さんの話では、弟は薄らいだ意識の中で、月曜日に兄の僕に会うことをすごく楽しみにしていたとのことだった。しかし、月曜日を迎えることなく、旅立ってしまった。
 意識が薄れる前日の夜9時10分、僕のスマホに着信があった。11時過ぎに着信履歴で知った僕は、入院中の弟に電話をかけ直すこともできず。とりあえず励ましのメールを送っておいた。「月曜日に行くから」と。・・・結局、弟はそのメールを見ることなく死んでしまったのだった。
 弟は兄の僕をすごく頼りにしていた。会う度に、そして、子どもの頃も、それをすごく感じていた。最後の電話で、僕に何を伝えようとしたのか。それが「さようなら」だったら・・・。年賀状の弱々しい文字の「元気でね」だったら・・・。それとも「ありがとう」・・・。
 僕は、まだまだ弟は大丈夫と思っていた。そう信じていた。まさか、すぐに逝ってしまうなんて思ってもみなかった。
 なぜ仕事をほっぽって知多まで行ってあげられなかったのか。ちゃんと電話に気づいてあげていたら。悔やんでも悔やみきれない。
 大好きな弟が、最後に言いたかったことを聞いてあげられなかったことが悔しくて悔しくて。金曜日の夜、病院に駆け付け、動くことのない弟に、何度も何度も心の中で「ごめんね」「ごめんね」を繰り返して言った。
 さようなら、弘道。
 ごめんな、弘道。



 日曜日の夜にお通夜、月曜日にお葬式が営まれた。まだ逝く歳に達してないはずの弟。深い悲しみの中で弟の葬儀が終わった。
 終わって初めて気づいたのは弟の存在の大きさだった。僕には弟の弘道がいる。それがどれだけ心の支えになっていたことか。高齢の両親に何かあって困った時、呼べばどんなに忙しくても知多からすっ飛んで来てくれた。僕よりずっとずっと優しい心の持ち主だったと思う。葬儀では、子供の頃によく一緒に遊んだいとこたちが「弘道はほんとにかわいいヤツだった」と涙を流してくれた。
 金曜日の夜に息をひきとってから葬儀、初七日が終わるまでの3日間、奥さんと娘さんは深い悲しみと戦いながら精力的に動いていた。これから始まる母娘二人だけの家族。僕以上に悲しみは大きかったと思う。弟の奥さんは、それでも喪主として悲しみをこらえて頑張り抜いたのだと思うと僕も心が痛む。そして我が子を失った母。愛する夫とかわいい次男をわずか2年足らずの間に失った今、母はどんな気持ちで葬儀の時を迎えたのだろう。



 僕が出られなかった弟・弘道からの最後の電話。意識がなくなる直前に、僕に何かを伝えようと、最後の力をふりしぼってかけた電話。僕は弘道が何を伝えようとしたのか、金曜日からずっと考え続けていた。
そして、出た答。
「(残された家族)二人のことを頼む。」だったのではないか。
 今は、何よりも家族を大切に思っていた弘道のことだから絶対にそうだと確信している。
 何もしてあげられないかもしれないけど、僕にとって弘道がそうだったように、二人にとって少なくとも心の支えにはなってあげられるようになることが、弘道への感謝の気持ちだと思う。

 最後になりましたが、弟・弘道が生前大変お世話になりました。心より御礼申し上げます。



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2018.1 お正月の旅行は長野県昼神温泉

2018-01-11 23:35:58 | キャンピングカーの部屋
 あらためまして、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。今年の話題での最初の記事です。
 と言うことで、今年のバイク初乗りもやっぱりスーパーカブ号でした。近くのポストまで、年賀状を出しに。

 僕たち家族は、毎年1月2日・3日は近場の温泉にに出かけています。去年から父のいないお正月の旅行になってしまい、今年は僕、妻、母の3人で長野県の昼神温泉に行ってきました。

<1月2日>
 お昼に3人でお雑煮を食べ、1時半過ぎののんびりスタートです。


 R153はものすごくすいていて、途中の道の駅でトイレ休憩をしてもたったの2時間で予約しておいた「リフレッシュin ひるがみの森」に着いてしまいました。




 ちょっとごろごろしようと思ったら、母が「すぐに温泉に入りたい」と言うので、高齢の母が迷子になったら大変と思い、妻を留守番にして母といっしょにお風呂に行きました。
 昼神のお湯はツルッツルです。外気温の標示が1℃だったのでしっかりと体を温めてから露天風呂へ行ってみました。すると、外は雪がひらひらと舞っていました。なんと、気持ちのいいお湯に、舞う雪。雰囲気良すぎ~。


 晩ごはんも美味しくいただき、部屋に戻って妻の還暦のお祝いをしました。予めホテルの人に花籠をお願いしておいたので、妻に花籠を渡し、内緒で作った20代の頃から59才までのツーリング写真のアルバムを贈りました。「これ、ずっと見てても飽きない」と言う妻の一言がすごくうれしくて、ありがとうの気持ちでいっぱいになってしまいました。そして、飯田名産のすりりんごジュースで乾杯して、妻の還暦を祝いました。本当は弟家族も呼ぶつもりでしたが、弟が体調を崩しているため、母と二人だけでのお祝いになってしまいました。






 8時からはロビーで多くの宿泊客みんなでビンゴゲームをしました。3人とも・・・ショボい結果でした。まあ、正月からビンゴゲームごときで運を使ってしまうのも・・・と思うことにしました。






 部屋に戻って、もう一度ツルッツルの気持ちのいい温泉に入って、新年2日目を過ごしました。

<1月3日>
 毎年、正月の家族小旅行の行き先近くの神社かお寺でお参りするのが我が家の初詣です。だから、本格的な初詣というほどのものではありません。今年の初詣は昼神温泉の近くの長野県阿智村駒場宿にある長岳寺にしました。
 昼神温泉からクルマで10分ほどで長岳寺に着きました。祀られているのはなんと武田信玄公。なんでも、長篠の戦いの際に、ここ駒場で病死し、この長岳寺に祀られているとのことでした。信玄の死を3年ほど隠し通していたことは有名です。


 まず驚いたのが柱の角の象の像です。僕の住む豊田界隈にはたぶんありません。インド仏教の影響?なんて思ったりして、格の高さを感じました。境内には沙羅双樹がありました。平家物語の「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり、沙羅双樹の花の色」の木です。表面の模様がとても美しい木でした。




 初詣にふさわしいかどうかはわかりませんが、家族3人が幸せに過ごせるようにお祈りして、阿智村をあとにしました。


 そう言えば、年末に自撮り棒なる物を買いました。タイマー式の軽いのにしました。軽いけど1mも伸びます。スマホを手に持って自撮りすると自分の顔がアップになりすぎ。キムタク顔ならいいのですが・・・。ということで、スーパーカブ初乗りでも、妻の還暦のお祝いでも、自撮り棒がとても重宝しました。もっと早く買っておけばよかったと思いました。


 そんなこんなでお正月を過ごし、5日からまた仕事が始まりました。あとどれくらい仕事を続けようかなあと思うお正月でした。


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2018.1 六甲山ホテル

2018-01-05 12:22:18 | キャンピングカーの部屋
 明けましておめでとうございます。
 本年もよろしくお願いします。


 冬休みも終わり、今日から仕事です。お昼休みを使って、お弁当を食べながら更新しています。また普通の生活に戻りましたが、明日からすぐに3連休です。ただ、次の土日が大学のセンター試験で僕が勤務する東海学院大学も会場になっているため出勤です。火曜日が長丁場のスタートです。
 この冬休みもいろんなことがありました。今回は、年末に神戸「六甲山ホテル」に行った話題です。


<12月27日>
 六甲山頂近くの老舗ホテル「六甲山ホテル」は、昭和4年開業の由緒あるホテルで、僕たち夫婦にとっても思い出のホテルなのです。それが、なんと12月末で閉館することになったのです。
 僕たちがまだ婚約中だった1982年のクリスマスの夜、このホテルで百万ドルの夜景と言われる神戸の夜景を眺め、チャペルでクリスマスのミサに参加してお祈りをし、讃美歌を歌い、司祭さん(牧師さん)のお話をお聴きし、その後コース料理を楽しんで過ごしました。翌年5月に結婚し、今回で35回のクリスマスを迎えました。おそらくそのうちの25回くらいはここ六甲山ホテルと併設のチャペルで過ごしていました。阪神淡路大震災の後の数年は、チャペルではなくルミナリエに行ったりもしました。
 12月27日、六甲山ホテルの部屋の窓からきれいな神戸の夜景を見ていました。そして、僕たちにとって思い出のホテルがあと3日で閉館というのを寂しく思っていました。


 27日は朝から雪が舞っていました。西に向かう多くのクルマが関ヶ原を避けたのか鈴鹿インターを先頭に渋滞ぎみになっていました。昼食をとろうと土山PAに入ると、レストランは満席。仕方がないので売店で天むす弁当と近江牛コロッケを買ってキャンピングカーのレストラン「シュピーレン」で昼食をとりました。便利です、キャンピングカーは。
 その後は順調に走ることができ、六甲山ホテルに着いたらすぐに思い出のチャペルに行ってみました。改装したばかりなのか、とてもきれいでした。

 晩ごはんは夜景の見えるレストランでフランス料理のフルコース。






 部屋に戻ってからは夜景を眺めながら、付き合い始めた頃からの35年間を二人でいっぱいいっぱい振り返っていました。
 「え~っ、あとたったの15年で金婚式じゃん!」




 初めて六甲山ホテルに来てからの15年間は、あっという間だったのかなあなんて言いいながら眠りに就きました。


<12月28日>
 昭和4年当時の階段や手摺りの写真を撮ったりして、思い出の六甲山ホテルに別れを告げました。35年前のクリスマスの日に泊まって以来、何度も何度も二人でクリスマスの夜を過ごした思い出のホテルを出るのは本当に寂しかったです。あと3日で閉館です。これで、もう二度と二人の思い出のホテルを見ることができなくなってしまったのです。




 駐車場に戻るのに昭和4年当時の風情のある旧館の玄関を目に焼き付け、シュピーレンに乗り込みました。




 六甲の西側の麓に下りて、下道で篠山を目指すことにしました。大学院生時代を近くの加東市で過ごしたので、懐かしい風景を楽しみながら北に向かって1時間ほど走り、立杭焼の篠山市古市に着きました。道沿いに登り窯が見えたり、煙突が見えたりして、古くからの工房が並んでいます。大学院生時代に二人でバイクでツーリングで来たことを思い出しました。

 立杭焼の通りから10kmほどで丹波篠山城趾に着きました。




 外堀脇の駐車場にシュピーレンを停めると、二の丸、本丸の石垣がすごく立派に見えます。内堀を渡って石垣を見ると、不規則な石の野面積みでありながらビシッと決まっています。そして、石工の誇りなのかいくつかの石には刻印が刻まれていました。二の丸跡、本丸跡もいい感じです。説明を読むと、家康の命で建てられ、初代城主は松平氏。立派なはずです。






 城跡を出て、武家屋敷の通りに行ってみました。保存地区になっていて、風情のある通りでしたが、どの店も閉まっていてひっそりしすぎ・・・。そこで、篠山の市街地に行ってみました。古い建物が今風の店になっていたりしてとても雰囲気のいい町並みになっていました。




 お昼を過ぎていたので、お昼御飯を食べることにしました。丹波の中心地で、通りには猪料理の店がやたらたくさんありました。でも、僕の奥さん、獣系の肉が苦手なのです。篠山の近くの出石の出石蕎麦が有名なので、蕎麦屋さんに入りました。


 注文したのは二人とも湯葉蕎麦。いかにも蕎麦らしい蕎麦。そんな感じで美味しくいただきました。






 丹波篠山と言えば黒豆と松茸。黒豆のお土産を買い、小江戸の町並みを楽しんでいるうちに時間はもうすぐ2時。そろそろ帰らなければならない時間になりました。
 篠山インターから舞鶴道に入り、吉川JCTから中国道、吹田から名神で帰ることにしました。関ヶ原の雪が心配でしたが、僕のシュピーレンは4WD。新名神の亀山、鈴鹿の渋滞の方がもっと心配でした。
 快調に走っていたのはよかったのですが、京都辺りで強烈な睡魔~。助手席では妻がうつらうつら・・・。すぐに大津SAに入り、琵琶湖を眺められる駐車スペースにシュピーレンを停め、30分くらい横になって、リスタート。シュピーレンはキャンピングカーですから、段差のないベッドで熟睡できます。「眠たくなったら寝る」がシュピーレンの得意技なのです。






 心配だった関ヶ原の雪は、なぜか小雨でした。慢性化している一宮辺りの渋滞もなく、ほぼ時速100km巡行で帰ることができました。

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