父は今85歳です。まだまだ父も母もクルマを運転します。たまに1週間くらいのロング・ドライブもこなしますが、このところ病院通いと買い物くらいしか乗らなくなってきました。
父のクルマは04年式のVWゴルフⅣです。3月に9年目の車検を迎えます。お年寄りの 乗るクルマですからまだ47000㎞しか走っていません。たまに僕が乗ってチェックすることも ありますが、まだまだ走りは大丈夫すぎるくらい大丈夫です。
先月の半ばくらいから、父がそろそろ新しいクルマに替えたいと言い出しました。理由は、単に「古くなったから」というだけで、形にも走りにも不満はないと言います。僕は、買い替えるのはもったいないと思うのですが、本人が言うのですから仕方がありません。そこで候補に挙がったのが、新しいゴルフとトヨタ・アクアでした。でも、今のゴルフはコンパクトカーとは言えないくらいに大きくなってしまっています。1800㎜近い車幅はかつてのセルシオのサイズです。それで、ゴルフⅣに近いサイズのポロが浮上しました。もう一方のアクアはトヨタの最新技術の粋を集めた人気車種です。19才の時に終戦を迎えた父はトヨタが乗用車を造ってない頃から定年までトヨタ自動車に勤めていました。最後は「トヨタ」で自動車人生を終えたいという思いもあったかもしれません。アクアのサイズはポロとほとんど同じです。
年末に両車のカタログをもらってきて、父に渡しました。父もゴルフⅣにそのまま乗るか、ポロにするか、アクアにするか、ずいぶん迷ったようです。
1月20日の日曜日にVW豊田山之手店にゴルフⅣに乗って父と2人で行ってきました。高齢で耳が遠くなってきているので、僕は通訳兼アドバイザーのような感じでいっしょに行っ たのです。
ショールームで展示車のポロのに運転席に座った父は、
「今のゴルフとおんなじ感じだなあ。」
と、言っていました。父と話をしていると、「おんなじ感じ」というのは、「買い替える必要はないかも」という意味と、「ゴルフと同じくらい乗りやすくて良さそうなクルマ」というプラス評価の意味の両方を感じたようでした。その後、担当セールス氏と話をしましたが、この時点で、買い替えるとしたらポロに心は決まったようでした。ただ、値引き15万で下取りがたったの3万、それが6万まで上がりましたが、どちらにしても高額です。車両価格だけで240万円超のクルマにナビなどのオプションをつけての交渉ですから。
見積もりを出してもらって帰ってきましたが、父は「古いだけのことで、今のゴルフもいいクルマだし、どこも悪くないし、車検をとるか」と言っていました。
僕は、父に安い年金をポロに全部使わせるわけにはいかないと思っていました。かと言って、新しいクルマに乗りたいという気持ちも、クルマ好きの僕ですからよく分かります。あと20万安くなれば、僕もお金を出してあげられるんだけど・・・と思っていました。本心としては、50代の僕もあと数年で年金生活者になるのですから、ここであまり高額の買い物はしたくないとも思っていました。でも、「車検取るか・・・。」と言う父を見ると、父の自動車人生最後のクルマくらい父の希望のクルマに乗せてあげたいとも思いました。
翌日、担当セールスから電話があり、値引き額等を調整したり、オプションのナビを在庫品の旧型にするなどして約20万円ほど安くできる旨の連絡が入りました。父にとっては、「替えたい時が替え時」ということもあるので、買い換えの方向で父と話をしました。
26日の土曜日、もう一度VWのディーラーに出向きました。「迷う」ということは、「買う」気があるから迷うわけで、納得できる条件も提示されてきたので、買うことにしました。
決めたのは、VWポロTSIハイラインのバイキセノンライトを選択。色はシャドーブルー M。紺色に近い青のメタリックです。父も母も青系が好きなようです。ハイラインにしたのは、装備がゴルフに近いということに加え、アルミホイールが標準で、何よりもアイドリング・ストップ車ではないことです。僕のCクラスがアイドリング・ストップ車ですが、あのスタート時の不自然な感触は80過ぎの老人には違和感がありすぎるように思えたからです。バイキセノンライトを選択したのは、両親の目の衰えが気になったからです。できれば、少しでも明るい方がいいに決まってます。
2月中には納車ということで、両親には残された短い自動車人生を精一杯楽しんでほしいと思っています。もちろん、両親の運転は心配です。ものすごく心配です。でも、それ以上に「楽しんでほしい」という気持ちの方が大きいです。
夜になって、父が「オレが100万円もつから」と言って年金を貯めた現金を僕にくれまし た。僕は全部自分で払うつもりだったので、それを受け取らず、そのお金で母といっしょにどこか遠くへドライブに行ってくるように言いました。そのためにも、まずは健康第一で頑張ってほしいと思います。
なお、画像はすべてネットで公開されているものを使用しましたが、どれだけ探してもポロのイメージ・カラーの赤がほとんどでした。両親が最後に乗るポロは紺色M(シャドーブルーM)です。
冬の間に、我が家のクルマの中で最も活躍するのが4WDのVOXYです。僕の住む豊田は、ほとんど雪の降らない温暖な地域です。それでも、年に数回は積雪もあり、また北は岐阜県に、北東は長野県に隣接しているため、ちょっと足を伸ばして小ドライブの時には雪道を走ること もあります。
僕のVOXYは、購入後5年が経ち、去年の暮れに車検を取ったばかりです。使っているスタッドレス・タイヤも5シーズン使って、この冬で6シーズン目を迎えました。ただ、タイヤを見てみると細い溝にたくさんのささくれのようなものができています。細い溝こそ雪を噛む重要な部分ですし、以前はよくスタッドレス・タイヤの寿命は3年と聞いていました。性能は上がってきていますから、もっと寿命は延びているとは思いますが、走行の99%は舗装路です。見た目は小さなささくれが気になるくらいでまだまだ大丈夫そうですが、本当に大丈夫なのか心配です。そこで、思い切って新しいタイヤに履き替えることにしました。
いつものイエローハット豊田店に行き、迷わず「ミシュランX-ice」を注文しました。僕はミシュランに大きなこだわりがあり、これまで履いていたタイヤもミシュランX-iceです。何度か飛騨市のスノーモービル場に行きましたが、雪道の性能には十分すぎるくらい満足しています。いつも担当してくださるIさんがすぐに取り寄せるからと行って、どこやらに連絡を取ってくださいまし た。すると、いやな言葉が耳に入ってきました。
「ええっ、205/60-16、無いの?完売?ホント?どこにも?」
Iさんが僕の所に来て、
「完売なんだって。全部売れちゃったみたいで・・・。」
「聞こえてましたよ。」
ミシュラン信奉者の僕の中での優先順位は、1位はもちろんミシュランですが、サイズや在庫がなかった場合の2位は、夏タイヤならピレリーで冬タイヤならBSのブリザックです。そこで迷ったのがブリザックの従来型のLEVO2か、それとも新しく加わった氷上性能が高まったLEV O-GZかということです。趣味のクルマのローバーミニに装着しているのがLEVO2です。LEVO2の評判はいいし、実際にミニで走っていても安心して雪道を走ることができています。値段は、高性能モデルのGZの方が従来型2より205/60-16のサイズで4本で1万数千円ほど高かったため、多少は迷ったものの、安くて、しかも評判のいいいLEVO2にしました。
気になるのは、大好きなミシュラン・タイヤからどんどん遠ざかっていってしまっていることです。これで、VOXYは夏はピレリーで冬はBS。ローバーミニは、ミシュランにもピレリーにも1 75/70-12のサイズがないため夏はダンロップで冬はBS。バイクのZRX1200ダエグも標準装備のBSのままだし、とうとうミシュラン・タイヤを履いているのはメルセデスCクラスと、妻のバイクのCB400SBだけになってしまいました。僕のバイクのタイヤ交換時期が近づいているので、その時はもちろんミシュランに履き替えるつもりです。
なお、今シーズンに入って一度も積雪がないため、雪景色の写真は昨シーズンまでのミシュラン装着時のものです。信頼性の高いいいタイヤでした。
13日(日)にM市の成人式が行われ、僕も恩師として出席しました。僕がM小学校で6年担任をしていた時の子どもたちが、めでたく今日のよき日を迎えたのです。
新成人の教え子たちは、僕にとって特別な思い入れのある子どもたちです。
僕は、平成8年度に役職に就いたため、平成8年3月にT小学校で担任生活を終えまし た。それ以来、担任のない先生となり、校務主任(第2教務)、教務主任を経て、今は教頭職に就いています。
役職に就いて9年目、突然6年生を担任することになったのです。その時の子どもたちが今年の新成人なのです。
平成16年の5月のことです。6年4組の担任のK先生が体調を崩され、そのまま療養休暇に入られました。はつらつとした素敵な先生でした。ところが、その先生にドクターストップがかかってしまったのです。そこで、僕がピンチ・ヒッターとして校務主任と兼ねて6年4組の担任をすることになったのでした。賢い子たちでした。心のどこかに、「僕たちが心配をかけたために、先生が病気になってしまったのではないか」という思いを持っていることは、子どもたちの様子からうかがい知ることができました。決して、4組の子どもたちがK先生の病気の原因ではありません。僕は、この子たちには、どのクラスの子よりもいい思いをさせて卒業させてあげなければならないと心に決めたのでした。
8年間、担任を持たなかったとは言え、学級経営も授業の進め方も体が覚えていました。それぞれ個性の強い子どもたちも、ここぞという時にはものすごい結束力を発揮するすてきな6年生になりました。僕は、そういう子どもたちが大好きでした。
市の成人式は、恩師席から新成人の姿を見ていました。当時の4つの学級の担任に加え、僕の前任のK先生、欠員補充で入られ、いっしょに6年4組の指導にあたったN先生も加わり、久しぶりにフル・メンバーがそろいました。3組の先生は長野県に赴任され、久々の再会でした。式そのものは、市長さんや来賓の方々からの祝辞と新成人の誓いのことばで構成され、30分ほどで終わりました。
その後、立食パーティが行われました。次から次へと4組だった子どもたちがやってきては「先生、わたし、分かる?」「僕、だれか分かる?」と聞いてきますが、6年生の時とまったく同じ顔のまま大人になった子は分かっても、多くの子は「だれだろう」という感じでした。もちろん、名字を言ってくれれば、すぐに頭の中に6年生の時の顔が浮かびました。なんと言っても、僕の頭の中にある彼らの姿は小学生だった頃のままなのですから。ランドセルを背負った姿なのです。それが、今、目の前にいる元6年4組の子どもたたちはすっかり大人らしくなっていて、男の子は凛々しく、女の子は美しく、大きく成長した姿に変わっていました。大好きだった恋人に、久しぶりに会ったようなどきどき感まで感じていました。
2時に市のパーティーが終わり、午後4時からから母校のM小学校に集まり、タイムカプセルを開ける6年4組だけの成人式です。カプセルには「6年生のぼく・わたし」が「自分新聞」の形で入れてあり、それを成人式の日にみんなで開けようと、8年前の卒業の日に決めていたのです。子どもたちは、ちゃんとそれを覚えていました。そして、去年の暮れに、幹事のSさんから、「成人式の日に、45分間、また先生に授業をしてほしい」との申し出があったのです。「え~、そんな」と思うと同時に、言葉で言い表せないくらいうれしく思いました。まさか、また4組の子どもたちの前で授業ができるなんて、夢のようです。授業ができることよりも、また僕の授業を受けたいという彼らの気持ちを知った僕は、本当に教師冥利に尽きるというか、とにかく幸せ者だと思いました。大人になった子どもたちに小学校の国語や算数の授業というわけにもいかないので、「大人になったきみたちへ」をテーマに話をすることにし、「自分の道とことば」を題材にA42ページの資料もわくわくしながら作りました。
予定していた午後4時、幹事の子たちはなつかしいM小学校の体育館の入り口に受付を作り、座席表などを渡していました。三々五々集まってきた新成人の中には、卒業後に転校して他の市の成人式に出てから駆けつけた子もいました。
卒業時の学級委員のN君がはじめのあいさつをして6年4組の成人式が始まりました。そして、いよいよ僕の授業です。大人になった教え子たちに向けて「迷ったら、やろう」「時には 歯をくいしばってがんばることも必要、そうでないときも夢と希望はいつも持っているように」「仕事・勉強・遊びのどれが欠けても、いい社会人にはなれない」「6年4組の級訓『天空』に込められた『もっと上を目指そう』は最高の言葉。50代の僕も、『天空』を心の支えにしている」「8年経っても、僕はみんなの担任」というような話をし、待望のタイム・カプセルを開けました。それぞれが作った「自分新聞」のほかに、給食残菜ゼロ1等賞のメダルや、図工の作品の写真などが出てきました。「自分新聞」を配ると、友達に見られないようにそっと見る子、いきなり大笑いする子、友達のを見ようとのぞきこむ子など、様々な反応で、すっかり当時の6年4組に戻っていました。
来てくださった4月だけ担任だったK先生からは、あいさつもせずに突然いなくなってしまい心が痛んだこと、それが8年間ずっと気になっていたこと、こうして成人式の日にみんなに会って謝ることができてうれしかったこと、みんなはK先生にとって特別な教え子だということなど、話をしていただきました。そして、会も終わりに近づくと、涙をこぼす子どもたちもいました。感激で涙がこぼれそうなのは、実は僕なのです。
6時を過ぎ、子どもたちは次の中学校時代の仲間たちとの会に向かう時間になりました。会場としてお借りした母校のM小学校の体育館をモップで掃除を始める子もいました。そんな子どもたちは、今でも僕の自慢の教え子たちです。
みんなと別れた後、涙を拭きながら運転して帰りました。
2日経った今、成人式の日の出来事が、なんだか夢の中の出来事だったように思えてなりません。今すぐにでも、また会いたい衝動にかられています。
年末に胃腸風邪にかかってしまい、12月29日から1月3日までの年末年始休暇はほとんど家でうだうだして過ごしました。出かけたと言えば、元日に職場(小学校)にウサギの世話をしに行ったくらいで、文字どおりの寝正月になってしまいました。「休日に家でじっとしていてはもっ たいない」が持論の僕ですから、こんな年末年始は大人になってから初めてのことです。
さすがに、4日から仕事ということで三が日最後の1月3日はとてもじっとしていられず、妻と初詣に出かけることにしました。とは言うものの、僕も妻も体調はぱっとせず、近場の神社でお参りをすることにし、2時頃ローバーミニに乗って家を出ました。
なんと言っても、今年は前回のブログで書いたように特別な決心をした年です。少しでも格式の高い神社でお参りをしなくてはならないと思いました。豊田市内で格式の高い神社と言えば、参拝客の多さで挙母(ころも)神社、格式では猿投(さなげ)神社、パワースポットとしては徳川家のルーツ、松平氏発祥の地の松平東照宮です。ただ、挙母神社は市の中心街にあり三が日の間はかなりの人手が予想されます。そこで、猿投神社に行くことにしました。
ところが、猿投神社の手前から渋滞し、神社の前にさしかかったところで、境内を見た 妻が、
「すごい長い列が見えたよ。こんなに寒いのにあんまり並びたくないよ。」
と、いやそうな声で言ったのです。このままでは、駐車場に入るのに並んで、お参りで並んで、体調不良の僕たちには我慢できないだろうと、パスすることにしました。
次に向かったのが松平東照宮です。豊田藤岡ICから東海環状道を走り、豊田松平ICに向かいました。久しぶりの旧ミニでの高速走行でした。もちろん時速100㎞は余裕で出るの ですが、騒音の大きさは半端ではなく、CDの音楽はまったく聴こえなくなり、妻との会話もおのずと大声になってきます。僕のミニは最終モデルの99年式ですから走りは軽快そのもので、法定速度で走っている限り騒音以外は何一つ問題はありません。90㎞から100㎞の遵法速度で走っていましたが、わずか10数㎞の間にどれだけたくさんのクルマに抜かれたことでしょう。そして、1台も追い抜くことはありませんでした。F1の周回遅れになったマルシャかHRT状態でした。と言うことは、走っていた車は、僕以外みんな速度違反なのです。
豊田松平ICを出て20分ほど東に走れば松平東照宮です。日本ののどかな田舎道になぜか英国車のミニはよく似合います。
松平東照宮は豊田市街地から7~8㎞ほど東の松平地区の森の中にあります。駐車場はほぼ9割くらい埋まっていましたが、並ぶことなく入ることができました。境内には篝火が焚 かれ10数人ほどが暖を取っていました。お参りをするにも数人が並んでいただけですんなりと参拝することができました。今年は僕にとっては特別な年にしようとことで、いつもより多めのお賽銭でしっかりと神様に今年のチャレンジの成功と家族の健康をお祈りしました。
境内から少し離れた所に茶店があるのでおしるこか甘酒でも飲もうと思 いましたが、さすがにそこは満席でした。しばらく席が空くのを待ちましたが空きそうにもなかったので、家に帰ってコーヒーでも飲もうかということにしました。
4日は仕事始めで久しぶりに朝から1日中仕事でしたが、5日の土曜日は豊田市コンサート・ホール(名鉄豊田市駅前「参合館」9F)でヨハン・シュトラウス管弦楽団によるニュー・イヤー・コンサートで生のクラシック音楽を楽しみました。こうして、すっかり体調も戻り、控えめな年末年始休暇から仕事モードに復活できました。
明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。
新年第一弾は、昨年末の3連休を利用して東北南三陸地方へ行ったときの「百聞は一見にしかず」の旅の紹介です・・・。
<はじめに>
わずか3日間だったが、南三陸町~女川町などの大津波による被災地を旅して、大袈裟に言えば「人生観が変わった」ということだった。「夢と希望以外の全てを一瞬にして無くした。」「チリ大地震の津波でさえ最高2mの高さで1階が水びたしになった程度だったのに、津波 で家まで流されるなんて想定外なんてものではなかった。」「何が起こったのかワケが分からなかったが、そういうことが現実に起こることがあるのだ。」
実際に被災地を自分の目で見、地元の人と話をし、今自分の置かれた立場や環境がずっと続くとは限らないと思えてきた。今、全てを失ったら・・・。そう思うと、今すぐにでも夢や希望に向かって動き出さないと後悔するのではないか・・・。今の安定が一瞬にして消えてしまうことだってあるかもしれないのだ。そして僕は決心した。2013年を、夢に向かって動き出す年にしようと。それは、一生に一度の大決心かもしれない。
<12月22日>
9時過ぎに豊田の自宅を出て、東海環状道・豊田松平ICから伊勢湾岸道、知多自動車道を経てセントレア(中部国際空港)に向かった。空はどんよりと曇り、時々パラパラッと小雨が落ちてきた。午後には雨は上がる予報だが、天気は西から東に向かうため、仙台地方の予報は曇り後雨。今日は晴れることのない一日になりそうだ。
早めに空港に着いたので、搭乗手続きをさっさと澄ませて、飛行機を見ながら空港内のスタバでコーヒーを飲んだりして過ごした。
予約しておいたIBEXエア45便(ANA3145便)は定刻どおり11時30分に出発した。7 0人乗りのボンバルディア機の機内は、まるで観光バスのようだった。空からの景色はずっと雲海で、天気の悪い日は気流の乱れが大きいのかほとんど未舗装路を走るバスのようだった。それでも、ゆったりした本革シートなど豪華仕様のおかげで気持ちのいい空の旅となった。
IBWX45便、空飛ぶ観光バスは、12時50分に仙台空港に着陸した。まずは昼食だ。空港内のレストラン街にはやたらと「牛たん」の文字が目立つ。妻は苦手なようだが、僕はそうでもないので、今回の旅の最初の食事は「牛たんそば」に決定。普通のそばに牛たんの焼肉が数切れトッピングされていただけのものだが、なぜかそれだけで「仙台」を感じた。なんと言っても、僕んちの近くには「牛たんそば」なるものなど絶対にないのだから。
仙台からの足はレンタカーだ。オリックス・レンタカーのヴィッツ・クラスを予約しておいたのだが。行ってみると青いスズキ・スプラッシュが用意されていた。僕の好きな欧州車だ。スズキではあるが、ハンガリーからの輸入車で、足回りはヨーロッパのクルマに共通した腰のある味付けで、小型車とは言えしっとりとした乗り心地が期待できる。手続きをしている間、ちょっとわくわくした。
今日の目的地は、大津波の被害が大きかった南三陸町だ。まずは仙台南部道路から仙台北部道路を経て東北道にクルマを進めた。直接三陸道に入ってもよかったのだが、かつて バイクで旅した時の拠点の大和IC付近に行ってみたかったことと、復興商店街スタンプでパーキング・エリアのスタンプが必要だったので、わざわざ東北道回りのコースを選んだ。天気は午前中の愛知県と同じで曇り時々小雨で、間欠ワーパーを使ったり止めたりの天気だった。欧州車スズキ・スプラッシュの走りは、期待どおりの欧州車の足で、国産車にありがちなふわふわ感はあまり感じられなかった。低速時の乗り心地はやや固めだが、高速道路ではぴたっとした安定感。スプラッシュはなかなかいいクルマだ。
小雨の高速道路を快調に走り、鶴巣Pに入った。PAスタンプを押し、缶コーヒーでひと休み。そして、早く南三陸町に入りたかったので、すぐにPAを後にした。
大和ICを出て、県道9号で南三陸に向かった。インターを出てすぐの交差点には見覚えがあった。バイク・ツーリングで大和ICから東北道に入って鳴子方面に向かった時も、十和田を目指した時も、ここを通っている。いっしょに走った妻は覚えがないと言う。バイク・ツーリングでは、地図を頼りに走っているのが僕で、僕の背中を見て走っているのが妻。通過地点は覚えてないのが当然で、僕がはっきりと覚えているのも当たり前のことなのかもしれな い。
道の駅「おおさと」で、一度クルマを停めた。周りの景色が雪で白くなっていたのが気にかかったからだ。駐車場はシャーベット状になっていて滑りやすかった。これで、道路の濡れている部分は慎重に走ることにした。温暖な地域に住む僕としては、こういうチェックをしないと不安になる。
松島大郷ICから三陸道に入ると、対向2車線の高速道路を淡々と走ることになる。スプラッシュの特性にも慣れ、小雨の降る中を快適に走った。
桃生津山ICからはR45で南三陸に入ることになる。ゆったりとした下り坂を走ると、南三陸の海が見えた。海が見えるとなぜかうれしくなるもので、つい、
「わあっ。」
と、声が出てしまう。
今夜の宿「ホテル観洋」の前を通り過ぎ、一気に坂道を下ると・・・、そこにはテレビで見たとおりの悲惨な光景が広がっていた。一部のコンクリートの建物のコンクリート部分が残っているだけで、家も看板も何もない景色だった。道の両側には住宅の基礎部分が残っているだけだから、見通しがよすぎるのだ。建物がないから、町の中のはずなのに海が見える。テレビ画像だけでは分からなかった「事の重大さ」に初めて気づいたというか、後頭部をガーンと一発殴られたくらいの衝撃だった。ナビを志津川地区の復興仮設商店街「南三陸さんさん商 店街」の住所にセットし、ナビの指示どおりに走ったが、悲しいくらい分かりやすかった。あるものと言えば、道だけなのだから。
雪解けの泥まみれの駐車場にクルマを停め、商店街に入った。思ったよりずっと活気があり、なんだかうれしくなった。オリジナル・グッズを扱う店があったのでのぞいてみると、「南三陸」の文字が入ったTシャツやバッジなどがあった。おそらく、そうした商品には復興支援にかかる費用も価格の中に含まれているだろうと思い、お土産にいくつも買うことにした。バッジなど5つも買ってしまい、さっそくバッグに1つ付けた。タコに南三陸の文字。バッジの他にTシャツも買ったが、豊田でタコの絵のTシャツを着て歩けるかなあとちょっと不安になった。でも、夏の北海道ツーリングには絶対に着てみようと思った。もちろん、バイク用のバッグにもタコのバッジを付けて。
日も暮れかかってきたので、今来た道を戻って「ホテル観洋」へ行った。
温泉に入り、鮑の踊り焼きなどのごちそうをいただき、いつもより早めに床についた。昨日まで1週間フルに働いて、今日は朝から大移動して動き回ったから、かなり疲れたのかもしれない。
<12月23日>
バイキングで腹ごしらえをし、泥まみれのスプラッシュに乗って海岸線に沿って南に向 かった。
廃墟となった漁協跡が目に付いた。この地域の多くの人の生活の糧となっていたはずの建物だ。クルマを止めて建物の中を見たが、なんだか「見てはいけないもの」を見る心境だった。しかし、「自分の目で見る」というのが今回の旅の目的だ。すべてを無くした単なるコンクリートの箱を目の前に、言葉さえ出なかった。
南三陸の町だった所を通り抜けたR398は、リアス式海岸の上を走る快適なローカル国道だ。復興の第一が物資運搬ということで道路の整備だったのではないかと思えるほど路面状態はよかった。高度が低くなるとガードレールが真新しい。上り坂の途中から古いガードレールになる。走っていると、おおよその津波の高さが分かる。
林の中で石巻市に入った。そして、下り坂を下りた所に小学校跡が見えた。仕事柄すごく気になり、誰もいない校庭に乗りつけた。コンクリートの建物だけが残り、窓も壁も何もない。去年の大晦日の紅白歌合戦で長渕剛が中継で歌った学校、相川小学校だった。裏山が高 台になっていたので、おそらく子どもたちも先生も無事だっただろう。扉も窓もないから、外からでも1階の各教室が丸見えだった。配線跡や水道の跡から、玄関近くの部屋が保健室と職員室だったことが分かった。学校の周辺は小さな集落だったことも分かる。狭い道の両側に家の基礎のコンクリートだけがいくつも残っていた。それが、今では人っ子一人いない廃墟と化している。僕の地図には、そこには相川漁港があったことになっている。
いろいろな思いが頭を巡る中、さらにクルマを進めた。北上川河口を左手に見ながら走るが、異様なほどに見通しがいい。集落でありながら建物がない風景がこれほど不自然な景色になるとは、実際に来てみないと分からないだろう。カーナビの地図と少しズレた新北上大橋を渡った。道路標識の位置も橋から離れた所にあったので、きっと壊れた橋の隣に新しく橋を作ったのだろう。橋を渡り終えた所にも廃墟となった小学校が見えた。時々テレビに出ていた大川小学校だった。校庭に何やら軽トラックが何台も停まっていて、20人くらいの人が集まっていたので、何らかの催しが行われていたように見えた。どの人も作業着っぽい出で立ちだったので、きっと復興に向けた取り組みだろう。
旧雄勝町に入っても、震災の爪痕は色濃く残っていた。かつてバイクで雄勝町を走ったこ とも僕ははっきりと覚えている。坂を登れば風光明媚な海岸、坂を下れば穏やかな漁村集落。もう一度バイクで走ってみたいと思った場所だ。美しい海岸は今も変わらないが、漁村はほとんど更地になっていて、集落にあるのは道と廃墟となった学校のコンクリートの残骸だけになってしまっていた。
R398は海岸から離れ、林の中を走る心地よいワインディング・ロードになった。敬老マークの付いた軽自動車の後をのんびりとついて走った。ぱっと前が開けた所が女川の市街地だった。前が開けたように見えたのは、ここも南三陸と同じように建物のほとんどが大津波で流されてしまったからだ。道路もまだ十分復旧していなくて、沼地のようになった迂回路を通った。右手に高台が見え、丸っこい病院らしい建物が見えた。明かりも点いていて、なんだかすごくほっとした。建物に明かりが点いているという当たり前のことにほっとすること自体、大津波の被災地を走っているからこそ感じることで、訪れた人にしか分からない思いだ。
荒れ果てた女川町市街地を過ぎ、R398は再び高台へと続いていた。「女川高校」の標識と「きぼうのかね商店街」の案内標識が同じ方向を指していた。
女川高校の運動場に建てられた「きぼうのかね商店街」も、テレビで見たことのある商店 街だった。丘の下の市街地にあった多くの商店がプレハブの建物で新たに店を構えていて、なかなかの賑わいを見せていた。せっかくだからコーヒーでも飲んでいこうと思い、プレハブ商店街の奥の方にあった喫茶「だいしん」さんの扉を開いた。中に入ると、地元の人が2人、コーヒーを飲みながら女性店主と話しをしていた。狭い店内の半分は衣料品が占め、後の半分のスペースにテーブルが2つ置かれているだけの小さな仮設商店だ。
コーヒーを飲みながら、店の人といろいろな話しをした。大きな地震だったが、地震の被害はほとんど無かったこと。海抜25mの高台にある病院の1階にいたら、ここも水がくるかもしれないから3階に上がるように指示されて、それが何の水かワケが分からなかったこと。チリの大地震の時の津波でさえ、最大で2mの高さだったので、水がくることと津波とが頭の中で結びつかなかったこと。しばらくして首まで水に濡れた人がやってきて、なぜ濡れているのか不思議に思ったこと。落ち着いてから林の間から街を見たら、建物が全部無くなっていて、見えるはずのない海が見えたこと。そこで初めて、収入源である自分の店も何もかも津波で無くなったことを理解したこと。そして、避難所での生活についても生々しく話してくださった。僕 にとって、今回の旅で一番中身の濃い時間が、ここ「きぼうのかね商店街」で過ごした時間っだったように思えた。そして、3.11を語る女性店主の話しぶりに悲壮感がなかったのがなぜか大きな励みになったようにも思えた。「今の平穏に流されず、もっと前を見て進め」と背中を押されたようにも思えた。いつかまた、「だいしん」さんに寄らせてもらおうと思った。
「きぼうのかね商店街」を出て、坂を下った所にも復興商店街「マリンパル女川」があった。ちょうど女川漁港の前で、新鮮な魚や加工品がいっぱい並べられていた。店の人たちの活気もものすごいものがある。水揚げされたばかりの魚を買っても、明日の飛行機で持ち帰るわけにもいかなかったので、加工品のとろろこんぶを3袋買い、復興商店街スタンプを押して店を出た。ちょうどお昼を過ぎた時間だったので、ここで食事にしようということにした。実は、外で焼いていた石巻焼きそばなるものが気になっていた。焼きそばは僕の大好物なので、石巻やきそばとかき汁を買って、ベンチに腰掛けて食べた。外で食べると、普通の焼きそばでもおいしいのだから、いつもと違う焼きそばは特別においしく感じる。味は普通の焼きそばと いう感じだったが、十分おいしくいただいた。
海岸に面して建てられている「マリンパル女川」からR398を石巻に向けて走ると、再びひと山超えて坂を下るというルートだった。石巻市街地は、南三陸や女川と比べるとずいぶん復興が進んでいるように思えた。もちろん、まだ基礎しか無くなってしまった家々もあったが、中心街に向かうにつれて新しい店も多く建てられていた。
予定していた最後の復興商店街は石ノ森萬画館の近くにある「石巻まちなか復興マルシェ」だ。賑わった石巻市街地の渋滞気味のR398を標識に従って走ると、橋の向こう側にUHOのような円盤状の建物が見えた。ナビの目的地と重なっていたので、その不思議な円盤を目指してクルマを進めた。
少し離れた駐車場に誘導され、他のお客さんたちが歩いていく方向に僕たちも歩いた。「きっと、あの円盤の下か隣に復興商店街があるんだ。」
などと話しながら歩いたが、商店街らしい建物は見当たらない。他の人と同じように巨大UHOの中に入ったら、有名な漫画家、石ノ森庄太郎の代表的なマンガの原画などが壁いっぱいに展示されていた。
「ん?なんか違うぞ。」
なんとそこが石ノ森萬画館だった。興味はあるが目的が違うので、外に出て周りを見渡 すお、川の対岸に復興商店街らしい建物が見えた。駐車場に戻り、巨大UHOから見えたそれらしい場所に行ってみると、そこが目的地の「石巻まちなか復興マルシェ」だった。
「石巻まちなか復興マルシェ」は、あまりにもきれいに整備されていて、これまでに見てきた復興商店街とは少し趣が違っていた。そこで、スタンプだけ 押させていただくことにした。石巻の中心街は十分復興できているように思えて、なんだかうれしくなった。駅周辺の通りには人通りもクルマの往来も多く、所々に爪痕も見られたが着実に前を向いて進んでいることが実感できた。
市街地を抜けると、仙台に向かう幹線国道R45に入った。都市間を結ぶ国道はやはり渋滞ぎみだ。松島に行くのに、ナビに従って三陸道を鳴瀬奥松島ICから松島北ICまでの1区間だけ高速道路を走り、再び渋滞ぎみのR45に合流した。
五大堂手前の民間の有料駐車場にクルマを止め、歩いて五大堂へ行ってみた。松島には2度ほどバイクで訪れているが、肝心の五大堂には行ってなかった。なんと古い建物だろう。しかも、木々の間から見える松島の美しいこと。いくつもの小島が緩衝材になったため、津波の被害がほとんどなかったと聞いていたが、これだけの自然美が壊されなかったのは不幸 中の幸いとも言える。お守りを買い、焼きかきを食べてクルマに戻った。
2度のバイク・ツーリングで、僕にはお気に入りの場所がある。松島から塩竈に向かう途中にある双観山展望台だ。坂の上の小さな半島だが、この展望台から松島湾全体が一望できる。どんよりとした曇り空だったが、天気 のいい日は「これぞ日本三景」と言える絵葉書のような景色になる名望スポットだ。
その後、塩竈からR45を外れたが、ナビの言うとおりに走ったので、どこをどう走って仙台の中心部に入ったのかよく分からない。暗くなるわ、雨は降り出すわ、道は名古屋の繁華街を走っているような道だし、親切なナビの案内がなかったら、絶対に仙台駅にはたどりつけなかったと思う。よりによって、この日の宿を仙台駅東口のDホテルにしてしまったのだ。駅を目印にできることと、駐車場(有料)有りということで予約したのだが、選択を誤ったと思った。日曜の夕方の大都会をやっとの思いでたどり着いてほっとしたのもつかの間、Dホテルの駐車場のおじさんは冷たく、
「駐車場はもういっぱいでクルマは置けないよ。」
と言う。
「今日、宿泊するんですが。」
「宿泊する人でも、もういっぱいだから、そこらの駐車場でも探して。」
と、駅周辺の地図のコピーを出して、まるでさっさとどこかの駐車場へ行けとでも言うようにクルマから離れて行ったのだ。
「ホテル指定の駐車場はないの。」
と言っても、一言、
「ない。」
初めての土地で、雨の大都市でこれから駐車場探し。こんなホテルにしなければよかったとつくづく思った。
なんとか民間の値段の高い駐車場にクルマを止め、冷たい雨に濡れながらDホテルまで歩いた。腹立たしさを押し殺してチェックインし、部屋に入ってまずはベッドにごろんとした。そ う言えば、以前、仙台の七夕を見に来た時も、アーケードで写真を撮っていたら、「じじい、邪魔だ、どけ」とガキ女に言われて気分を害したことがあった。イヤなことを思い出してしまった。どうやら僕は仙台には合わないようだ。イヤな印象ばかりが心に残る。東北は好きだからまた来ると思うが、次に来た時には隣の多賀城か塩竈に宿を取ることにしようと強く思った。
夕食を食べに外に出た時には、雨が雪に変わっていた。電器量販店の連絡通路からJR仙台駅に入り、駅構内のすし通りの寿司屋で晩ご飯を食べた。おいしかったが、気分が晴れるまでには至らなかった。
<12月24日>
雪は降っていなかったが、道路はシャーベット状になっていた。この日は妻のリクエストで仙台箪笥を見に行った。妻は仙台箪笥が好きで、家の家具の一部は仙台箪笥だ。妻のお気に入りは居間に置いてある階段箪笥で、階段になっている部分にちょっとした小物を置いて楽しんでいる。少し前まではキャンドルだったが、今月はもちろん小さなクリスマス・ツリーが飾られている。
階段箪笥などを買った店「欅(けやき)」に着くと、妻の目が輝いた。テレビの台を仙台箪 笥にしたいとの希望で、店にある台を探したが、どれもみな僕の家の居間に置くには大きすぎる。結局、特注ということで、納期は5か月とのことだった。値段は既製のものに合わせた値段にしてくれたが、安くはなかった。安くはないが、値段に見合った価値はあると思う。
店を出て、せっかく仙台に来たのだからということで、青葉城跡に行ってみた。町の真ん中だというのに、ヘアピン・カーブの連続するおもしろい坂道を登るルートだった。通者場に入る所など、まるでF1モナコGPのコースのような道で、楽しくてたまらなかった。
神社でお参りをし、城跡を散策し、有名な伊達政宗像を見て、ついでにお昼ご飯においしい牛肉を食べ、市街地を一望する景色を見て、お土産を買って、ひととおり観光客らしいこと をして青葉城公園を後にした。
仙台市街地でR4に入り、所々渋滞する中、仙台空港近くのオリックス・レンタカー営業所に戻った。そこからワゴン車に乗り換えて空港に行くのかと思ったら、意外にもそのまま借りていたスプラッシュに乗って空港に行った。
仙台空港では搭乗まで少し時間があったので、展望レストランでコーヒーを飲んでゆったりとした時間を過ごした。
IBEX48便(ANA3148便)は定刻どおり16時40分に仙台空港を飛び立った。天気もよく下界がまるで地図のように広がっていた。しかし、徐々に夕暮れ時となり、1時間ほど過ぎ て愛知県が近づくと海と陸地の区別がつく程度の暗さになり、豊田市あたりがどこか探しているうちに海の上空になってしまった。ただ、この適度な暗さが夕焼けを美しく見せてくれていた。空から地元を見るつもりが、どこがどこだかよく分からないまま常滑の中部空港に到着した。
空弁を買って家に帰り、あらかじめ注文しておいたケーキでイブを祝った。
<おわりに>
「百聞は一見にしかず」の旅のつもりで出かけた旅だったが、想像以上に考えさせられることの多い旅になった。平穏無事な人生を過ごしている僕は、強烈すぎるくらいに心を揺さぶ られ、大袈裟に言えば人生観までもが変わってしまったように思えた。いつ何時、何が起こるか分からないことを目のあたりにした僕は、やりたいこと、つまり夢や希望があるのなら、すぐにでもそれに向かって動き出さなければ後悔するかもしれないということを悟った。
50代の僕にも、まだまだ夢はある。今年は、夢に向かって動き出すチャレンジの年にするつもりだ。去年の僕の漢字が「迷」か「穏」なら、今年の漢字は挑戦の「挑」だ。